古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

貝塚神社

 埼玉県は、海なし県と今では言われるが、嘗て縄文時代は、東京湾から北へ海が広がっており、埼玉県にも内海が広がっていた。最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇現象は、7000 年前頃までには奥東京湾の最奥部付近まで達し、この頃の海水面は、現在に比べて23m高くなる。いわゆる「縄文海進」と呼ばれる現象が日本列島各地に起きていて、この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたという埼玉県周辺では、中川低地や荒川流域にそって内陸深くまで海が入り込み、奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されていた。特に、古利根川を含む中川流域の海進は大規模なもので、現在の栃木県藤岡町付近にまで及んでいたと考えられている。
 埼玉県指定史跡である綾瀬貝塚は、貝塚神社付近一帯に広がる縄文時代前期の貝塚で、淡水産ヤマトシジミを主体とする主淡貝塚(神社周辺)と海水産貝類を主体とする主喊貝塚の2つで構成され、対岸の白岡町正福院貝塚とともに元荒川流域の最奥部に位置する貝塚としても知られている
 この綾瀬貝塚の存在を昔の人々は知っていたのだろう、『新編武蔵風土記稿』には、この地を「貝塚村」と呼称している。現在この貝塚は、貝塚神社の境内になっており、境内には当時のものと見られる貝殻も見られる。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市大字貝塚799
             ・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧貝塚村小名貝塚鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 初午祭 2月初午 合社記念祭 314
                  しっさま 422日 お日待 1015
 根金神社のすぐ西側にある「根金」交差点を左折して国道122号線に合流後、1.6㎞程南下し、「閏戸」交差点を左折する。その後コンビニエンスストアのある三叉路を右折し、300m程先にある「貝塚共同集荷所」を右折、暫く進むと、「荒瀬貝塚」の案内板と共に、貝塚神社の鳥居が見えてくる。
        
                  貝塚神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「貝塚村」の解説
 蓮田台地の北東部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は上閏戸(かみうるいど)村、南は中閏戸村、東は元荒川を隔てて白岡村(現白岡町)。村内に山ノ神沼と称される五町ほどの池沼がある。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として「かいつか村」があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。
        
       鳥居の右側に社号表柱と並んで設置されている綾瀬貝塚の案内板
 
      綾瀬貝塚の案内板         案内板の足元には3基の力石が置かれている。
 埼玉県指定史跡 綾瀬貝塚
 蓮田市貝塚八-六-一ほか  大正十一年三月二十九日指定
 綾瀬貝塚は、大宮台地、岩槻支丘の上にあり、元荒川に面している。標高約十三メートルで、水田との比高は約四メートルあるが、元荒川右岸において現在知られるかぎり最も奥に位置する貝塚である。縄文時代前期(約5500年前)の貝塚としては規模は比較的大きく、三箇所からなっている。貝類はヤマトシジミを主体とし、若干の海水産の貝を含んでいる。
 このことは、縄文時代前期に現在の元荒川流域の低地帯に海が奥深く入り込んでおり、貝塚附近が干潟であったことを示している。市内にある黒浜貝塚などとともに、縄文時代前期の海進を研究する上で極めて貴重な遺跡である。
 なお昭和三年大山史前学研究所によって小発掘が行われている(以下略)。
                                       案内板より引用
        
                   境内の様子
 当社の創建年代は不明である。ただ貝塚村が成立したのが江戸時代前期であることから、その頃に創建されたものと推測される。後に「綾瀬貝塚」として埼玉県の史跡に指定される貝塚の上に建てられており、当初は「稲荷社」と称していた。「神宮寺」が別当寺であった。神宮寺は阿弥陀如来を本尊とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1869年(明治2年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1913年(大正2年)の神社合祀により、周辺の4社が合祀された。その際に、「貝塚神社」に改称された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 貝塚村』
 小名 山ノ神 羽山 貝塚
 八幡社 〇稻荷社 〇十羅刹社 以上の神社、村内小名三ヶ所の鎭守にて神宮寺持、
 〇雷電社
 神宮寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院末、八幡山と號す、本尊彌陀、

 貝塚神社  蓮田市貝塚七九九(貝塚字塚本)
 当地は元荒川沿いに位置する。地名は付近に貝塚が多いことに由来する。『風土記稿』によれば、元禄年間(一六八八-一七〇四)に上閏戸村から分村したというが、寛文五年(一六六五)の「上尾宿助馬調」には「かいつか村」と見え、当時既に分村が進んでいたとみられる。また、口碑では「当地の開発は“六軒百姓”が行った」とある。
 当社は、元は稲荷社と称し、地内でも高台に当たる貝塚の上に祀られている。古くから元荒川の氾濫を幾度となく被ってきた地域であることから、水害を避けてこの地が鎮座地に選定されたことが推測され村の開発を進める中で、農耕の神である稲荷神に耕地の安泰を期待したものであろう。
『風土記稿』貝塚村の項には「八幡社・稲荷社・十羅刹社 以上の神社、村内三ヶ所の鎮守にて、神宮寺持」と記される。この村内三ヶ所とは、小名山ノ神・貝塚・羽山を指し、貝塚で祀られていたのが当社である。一方、神宮寺は「新義真言宗、足立郡倉田村明星院末、八幡山と号す、本尊阿弥陀」と載る。
 明治初年の神仏分離により別当の神宮寺から離れた当社は、明治二年に村社となり、翌年に神宮寺は廃寺となった。大正二年には、字羽山の山神社(旧、十羅刹社)とその境内社の稲荷社、字山神の雷電社と同字の山神社の計四社を合祀し、社名を貝塚神社と改めた。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
             境内に祀られている境内社・天満宮
  石祠が三基並んで祀られているが、真ん中のみ天満宮と刻印されており、その他は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「宮代町デジタル郷土資料 宮代町史 通史編HP」
    「蓮田市 HP「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等


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