古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高虫氷川神社

 蓮田市(はすだし)は、埼玉県の東央部に位置し、北は久喜市、東は白岡市、南はさいたま市と上尾市、西は伊奈町と接している。人口は約62千人で、旧南埼玉郡。1972年(昭和47年)市制施行している。
 大宮台地(北足立台地)の一部である市内中央の蓮田台地と東部の白岡(黒浜)台地、その間を流れる元荒川および西から南の境を流れる綾瀬川周辺の低地からなる。
 東京から約
40km圏内という立地にあり、高度経済成長期以降にかつて水田・森林等であった元荒川周辺の低地を中心に宅地造成が行われ首都圏のベッドタウンとなっているが、市内北西部や東部には田園や自然が多く残されていて、緑豊かな自然と落ち着いた住宅街が広がる住環境が魅力的な市でもある。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市高虫1702
             
・ご祭神 建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命
             
・社 格 旧高虫村鎮守 旧村社
             ・例祭等 
 蓮田市高虫地域は、蓮田台地の北西端にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置し、標高 1013m 前後の平坦面が広がる農業地域である。地図を確認すると、この地域は蓮田市の北西部端部にあり、北は元荒川を隔てて久喜市菖蒲・白岡市柴山、南は綾瀬川を境として伊奈町や桶川市に接する突端部に当たる
 途中までの経路は、白岡市の柴山諏訪八幡神社を参照。この社を西行し、埼玉県道5号さいたま菖蒲線に合流後、野通川・元荒川を越え南西方向に1.5㎞程進む。その後、「高虫」交差点を左折、同県道77号行田蓮田線に入り500m程東行した先の十字路を右折すると、目の前に里山のような鬱蒼とした林が眼の前に広がり、薄暗い林の中に高虫氷川神社が厳かに鎮座していた。
       
                  高虫氷川神社正面
 この『高虫』の地域名については、「高い場所」や「高台」を意味する「高」と、湿地・沼沢地を表す古語系統の「ムシ/ムシロ」に由来すると考えられ、周辺の地形(台地と低湿地が接する土地)を反映した地名とみられる。また、「埼玉の神社」では、「地内に丈の高い苧(からむし)が繁茂していたことにちなむ」と載せており、ハッキリとは分かっていない。
 
 入り口付近に設置されている市指定文化財である高虫氷川神社本殿の案内板(写真左・右)
 蓮田市指定有形文化財建造物
 高虫氷川神社本殿
 昭和五十八年四月一日指定
 当社は、十七世紀の終わり頃、武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられており、享保四(一七一九)年に今の境内地が確定したといわれている。昭和十九(一九四四)年に名称を氷川社から氷川神社へと改称した。
 本殿は、元文三(一七三八)年に建築され、その後、慶応元(一八六五)年に解体修理された。氷川神社は武運長久の神として知られ、建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命を合祀する。
江戸時代後期の神社建築の様式が良好に残されている本殿は流造りで、その規模は、幅二・七五㍍、奥行き二・ 七五㍍である。また、階段部分は、幅二・六五㍍、奥行き〇・九㍍を測る
 この流造りというのは、正面の屋根だけを長く伸ばす建て方で、全国の神社に多く見られるスタイルである。
 さらに、本殿の周囲に施された彫刻も優れた作風を示しており、一部には彩色も残っている。彫刻は階段にも施されている。(以下略)                          案内板より引用
 
        
                赤が基調である二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高虫村」の解説
 蓮田台地の北西端にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。東は上平野村、西は足立郡五町台(ごちようだい)村(現桶川市)。北を流れる元荒川に柴山村(現白岡町)に通じる土橋が架かる(風土記稿)。寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏の検地があった(風土記稿)。田園簿では旗本伊奈領で、田高一六七石余・畑高一一八石余。ほかに改出し分三五石余、野銭永二貫三七五文。伊奈領は元禄一〇年(一六九七)上知と考えられ(寛政重修諸家譜)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、幕末の改革組合取調書でも同じ。村の南西方、小針領家村(現桶川市)との間にある水除堤は、慶長年中(一五九六―一六一五)代官頭伊奈忠次が綾瀬川を荒川(現元荒川)から分離するため築いたもので、備前堤と称する。
 
 二の鳥居を過ぎた参道左手に祀られている    参道を隔てて三峰神社の反対側の右手に
        境内社・三峯神社           祀られている境内社・琴平神社
        
              広々として手入れの行き届いた境内 
 当社は1689年(元禄2年)に創建された。当初は別の場所に位置していたが、1720年(享保5年)に現在地に移転した。なお、『氷川神社明細帳』には、創建年を「天和九年」としているが、「天和」は4年しかなく、「天和九年」に相当するのは「元禄二年(1689年)」であるので、その年に創建されたものと推測されている。
 872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1944年(昭和19年)に、「氷川社」から「氷川神社」に改称された。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高虫村』
 氷川社 村の鎭守なり、元祿年中の勸請と云、村持、

 氷川神社  蓮田市高虫一七〇二(高虫字前野)
 高虫は、蓮田台地の北西端に位置する農業地域で、その地名については、地内に丈の高い苧(からむし)が繁茂していたことにちなむものという説がある。当社は、この高虫の鎮守として祀られてきた社で、昭和十九年十二月に、社号を「氷川社」から「氷川神社」に改めた際にまとめられた『氷川神社明細帳』には、当社の詳しい由緒が記されている。その概略は、次の通りである。
 当社は、天和九年(一六八九か)六月、地内の向山と称する高台の地に武蔵国一宮氷川大明神を勧請したことに始まる。その後、享保四年(一七一九)には米津出羽守から社地七反歩を賜り、その翌年には現在の原地と称する場所に移転したという。弘化二年(一八四五)には屋根を大修繕し、天保年間(一八三〇-四四)には幣殿・拝殿、慶応元年(一八六五)には本殿再建に取りかかり、翌年には竣工成って遷座を行い、明治五年には村社に列した。
右の由緒では、当社の勧請を「天和九年」としているが、天和は実際には三年までしかなく、『風土記稿』高虫村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、元禄年中(一六八八-一七〇四)の勧請と云、村持」とあることから、当社の勧請は、元禄二年(一六八九)のことと思われる。なお、当社の本殿は、一間社流造りの建物全体に彫刻を施した立派なものであり、昭和四十八年に市の文化財として指定された。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
        
                    本 殿
        
                    拝殿の手前で右側に祀られている境内社・天朝神社
        
                社殿から見た境内の一風景
 今回日中の参拝にも関わらず、境内は薄暗く静か。神川町の上阿久原丹生神社や、本庄市の小平石神神社参拝時に感じたどこか神秘的で、威厳のある空間がこの社にもある。鑑みれば、この地に定住した多くの先人たちが、この社を祀り、それを子孫が絶えることなく継承し、現在に至るまで長い年月をかけて熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちとなり、境内に祀られている全ての対象物に対して頭を下げたくなる思いとなった。
 まあ、筆者の個人的な趣味・趣向が、このような人里離れた緑ゆたかな森に覆われた中に鎮座する社が好きであることも一番の理由ではあるのだが。
        
         社に対して道を隔てた反対側に祀られていた庚申供養塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「蓮田市HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
        

             

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