古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

筑波山神社(1)

 筑波山は、日本の関東地方東部、茨城県つくば市北端にある標高877 m(メートル)の山。筑波山神社の境内地で西側の男体山(標高871 m)と東側の女体山(標高877 m)からなる。雅称は紫峰(しほう)で、富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称されている。日本百名山・日本百景の一つ
 古くから「霊山」として信仰され、『万葉集』にも詠まれる。筑波山は『常陸国風土記』に見える頃より神の山として信仰が深く、その神霊を祀る筑波山神社は公家・武家から崇敬が深い神社であった。山中には巨石・奇石・名石が数多く散在し、それぞれに名前がつけられ、多くの伝説を生み、それらに対する信仰が今日でも受け継がれ、山そのものが「神域」として崇められている。
 山名「筑波」の由来に関しては、『常陸国風土記』にある、筑箪命(つくはのみこと)という人物に由来するというものが一番古い説である。筑波周辺は紀国(きのくに)と呼ばれていたが、美麻貴天皇(みまきのすめらみこと。後の崇神天皇)の治世に、国造に任命された采女臣氏の友属(ともがら)の筑箪命が、「我が名を国につけて、後世に伝えたい」と筑波に改称したという。同書はまた、筑波が俗に「握飯筑波」とも呼ばれたと記している。
        
             
・所在地 茨城県つくば市筑波1
             ・ご祭神 筑波男ノ神(伊弉諾尊) 筑波女ノ神(伊弉冊尊)
             ・社 格 式内社(名神大1座、小1座)旧県社 別表神社
             ・例祭等 年越祭 21011
                  春・秋の御座替祭 41日・111日 他
 筑波山神社は、筑波山を神体山として祀る神社であり、平安時代中期の延長5年(927年)にまとめられた「官社」に指定する神社一覧である『延喜式神名帳』における式内社(名神大社1座、小社1座)、旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
       
                 社殿に通じる正面鳥居
 筑波山神社の由緒は古く、第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残る。奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかる。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列した。
 奈良時代末から平安時代初め頃には、法相宗僧の徳一が筑波山寺、のちの筑波山知足院中禅寺を開いた。これにより神仏習合が進み、筑波山は有数の修験道の道場に発展していく。この神仏習合の時代には「筑波両大権現(両部権現)」とも称されていた。
       
                   鳥居を過ぎると、正面に神橋が見えてくる。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国筑波郡に「筑波山神社二座 一座名神大 一座小」と記載され、筑波郡では唯一の式内社に列しているが、うち名神大社が筑波男神、小社が筑波女神とされる。その後、治承4年(1180年)には正一位に達したという。
 鎌倉時代初期には常陸国守護の八田知家(小田氏祖)の子の八郎為氏が筑波国造の名跡を継ぎ、筑波別当となった。この筑波為氏(明玄)の子孫は以後筑波氏を称し、筑波神奉斎者かつ中禅寺別当を担った。中世の動向は明らかでないが、慶長5年(1600年)に徳川家康により筑波氏が外されるまで、筑波神・中禅寺は筑波氏の統率下にあったとされる。
 江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じた。また、幕府は中禅寺を篤く保護し、中禅寺境内には多くの堂塔が建立され、筑波山は神仏共立から仏教中心の霊地へと性格を変えていく。
 幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏分離により中禅寺は廃寺、筑波山神社は復興し、その主要部は中禅寺の跡地を踏襲して形成される。その後、明治6年に県社となり現在に至るという。
       
                  筑波山神社神橋
 桁行4間・梁間1間・切妻造・柿葺・妻入りの反橋(そりはし)で、筑波山神社の神事である御座替祭(おざがわりさい)の時、神輿と随従の人々がこれを渡る。両妻の太瓶束(たいへいづか)の左右に妻面を覆いつくすようにのびる唐草の笈形(おいがた)や虹梁上の板蟇股に、安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。
 制作時期としては、江戸時代初期で寛永10年(1633)三代将軍家光公の寄進。
 県指定 有形文化財 建造物  指定年月日           昭和54111
       
             神橋を過ぎて随神門に通じる石段を上る。
              
                   石段左側で中腹附近に聳え立つ「夫婦杉」
       
                    随神門

      案内板が掲示されている。         門を過ぎてから後ろ側を撮影
 間口52尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である。古くは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光により寄進されたが、宝暦4年(1754年)に焼失、再建されるも明和4年(1767年)に再度焼失した。現在の楼門は、その後の文化8年(1811年)の再建によるもので、神仏習合時代には「仁王門」として仁王像(金剛力士像)を安置したが、神仏分離後は「随神門」とされた。仁王像は神仏分離の際、桜川から筏で流され、つくば市松塚の東福寺に運ばれた。このことから同時では現在「流れ仁王」と呼ばれている。現在の随神門では、拝殿向かって左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を安置している。
 この随神門はつくば市指定文化財に指定されている。
             
                  随神門の右側には巨大な大杉であるご神木が聳え立つ。
                樹齢約800年・樹高32m      
        
          
随神門から更に石段を上ると正面に拝殿が見えてくる。
        
                拝殿に通じる石段には踊り場があり、そこを左方向に進むと、
                            境内社・厳島神社が祀られている。
 この厳島神社本殿は、方一間、妻入正面に向拝を設けた、いわゆる春日造である。江戸時代初期の寛永1011月(1633)三代将軍家光公寄進。琵琶湖の竹生島より御分霊を祀ったという。
 向拝蟇股に蛇の彫物があり、同じ境内社の春日神社・日枝神社と同様に、神使をもって神名を表現している。向拝と身舎は水平な虹梁でつなぎ、その中央に優美な蟇股を置いている。
 県指定 有形文化財 建造物  
指定年月日           昭和54111
        
                    拝 殿
 拝殿は明治8年(1875年)の造営。正面の扁額「筑波神社」は小松宮彰仁親王の揮毫、高村光雲の彫刻による。この場所には明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)があったが、神仏分離で大御堂が廃された後に新たに建てられた。拝殿前には礎石が残り、中禅寺の寺勢をしのばせている。
 ご祭神である伊弉諾尊・伊弉冊尊二柱は日本人の祖神として「古事記、日本書紀」にそのご神徳が書かれている。二柱が結婚して神々を産み国産みをされたことにより、縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育て等のご神徳と、国土経営をなされたことにより、開拓、国家運営、社運隆昌、職場安全、工事安全、交通安全等のご神徳。また、豊作や大漁などの産業面、そして厄除、方位除、心願、安産、進学等の合格祈願などに祖神達の強いご神徳を戴くことができるとの事だ。
        
               拝殿の前にある「さざれ石」
 
      拝殿の左側奥の斜面上には朝日稲荷神社・稲荷社が鎮座している(写真左・右)。

この朝日稲荷神社は「出世稲荷」の別名があり、嵯峨天皇第四皇子・常陸国太守忠良親王の創建とされている。




参考資料「筑波山神社HP」「つくば市HP」「茨城県教育委員会HP」「茨城県神社庁HP
    「茨城県観光物産協会HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」「現地案内板」等
              

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