井沼久伊豆神社
神祇を敬い祖先を崇ひ、良風美俗を顕彰し以てこれを子孫に伝承することは、わが国民の伝統である。往時よりわが国いたるところ神社を奉建し、斉しく氏神を祀り氏子これに奉仕して、里人一体となって繁栄して来たのは自然の美風と云うべきであろう。
ここ蓮田市大字井沼に鎮座まします久伊豆神社は、須佐之男命。大己貴命。猿田彦命。迦具土命。市杵島姫命の五柱が奉祀されている。今から凡そ六百有余年前土地の開拓と共に社が創建され、里人の心のよりどころとなった。後、宝永七年三月社殿を再建し騎西領玉敷神社より勧請して御霊を祀り、明治六年村社に列格され同四十五年五月的場の無格社久伊豆社、同境内社の庚申社、須賀社、愛宕社、及び後塚の厳島社を合祀されて今日に至る。
社殿は文化五年及び大正十二年の大改修を経たるも、漸く破損甚だしく敬神の念に添はざるものあり、ここに於いて昭和六十三年正月氏子諸氏相謀り、神殿の改修並に境内社の改築を企画せり。用材は耐久力のある境内地の杉材及び寄進された地元杉材合せて五十立法米を使用し、予算は神社会計より百万円、自治会より七十万円、篤志家より百五十四万円、氏子より七百二十五万五千円、総額実に壱千四十九万五千円の浄財を仰ぎ、工を起こすこと同年二月、この役に從うもの四百人有余、改修委員の献身的な奉仕により翌年三月を以て竣工を見たり。
茲に社頭を一新して崇敬の念一段と加わる。社威永く輝き、民力益益豊かなるものあらん。誠に神に仕うるの道厚く亦深しと謂うべし。予 里人の災禍を除き福祉の多かるべきを願い、以て記念となす(以下略)。
改修記念之碑文より引用
・所在地 埼玉県蓮田市大字井沼759
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧井沼村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭礼 4月第1土・日曜日 夏祭礼 7月第1土・日曜日
観音様灯籠 8月15日 秋祭礼 10月第二日曜日
駒崎久伊豆神社から埼玉県道87号上尾久喜線を1㎞程北上すると、コンビニエンスストアのある十字路の手前に井沼久伊豆神社の鳥居はあるのだが、境内はその鳥居から北側に真っ直ぐ伸びる狭い参道を150m程歩かなくてはいけない。前出のコンビニエンスストアに買い物をしたのち、徒歩にて参拝を行った。
井沼久伊豆神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「井沼村」の解説
蓮田台地の北西部にあり、元荒川の右岸に位置する。東は根金村・根金新田村、南は上閏戸(かみうるいど)村、北は元荒川を隔てて柴山村(現白岡町)。古くは伊沼とも記したという(風土記稿)。中央部の小字堀ノ内に館跡がある。東・西・北の三方に空堀と土塁跡が残り、「風土記稿」は佐藤内蔵助が住したといい、内蔵助は当村の斧右衛門の先祖とする。
『新編武蔵風土記稿 井沼村』
古は伊沼村とも書せり、(中略)
小名 的場 馬洗戸 堀ノ内 土手 村の中程を云、此地は東西北の三方に、堀或は土手跡ありて古の壘跡と見えたり、當村に佐藤内藏助と云ものありしと、もし是等の住せし所にや、内藏助は村民斧右衛門が先祖なりしとのみいへど、慥かなることは詳にせず、
細い参道の先の鬱蒼とした林の中に境内が見えてくる。
井沼久伊豆神社の創建年代などは不詳であるが、室町末期に菖蒲城主佐々木氏綱の家臣の佐藤内蔵助という武将が井沼に居館(井沼館)を構えていて、元々当社の境内は佐藤家の敷地内であったということから、佐藤家の氏神として祀られていたのではないかという。
その後、宝永7年(1710)に久伊豆神社の本社とされる玉敷神社から改めて分霊を受けて再建、井沼の鎮守として祀られてた。明治40年に字的場の久伊豆神社を合祀している。
境内の右側に祀られている神明社 蓮田市に鎮座している久伊豆神社
と愛宕神社の石碑 のみに設置されている特別な案内板
七つの久伊豆神社めぐり
「井沼の久伊豆神社」 蓮田市井沼七五九
蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
この「井沼の久伊豆神社」は、氏子数一一〇有余で構成され、元旦の四方拝の祭典で始まり四月第一土、日曜日に春祭礼、七月第一土、日曜日に夏祭礼、八月十五日に観音様灯籠、十月第二日曜日に秋祭礼を執行いたします。この間、総代三名、年当番六名を中心に拝殿及び境内の清掃等を行います。
春祭礼には、騎西町の玉敷神社から明神様を借りてきて氏子各戸回り家内安全、無業息災を祈る行事がとり行われます。(以下略)
案内板より引用
参道左側に設置されている改修記念之碑
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 井沼村』
久伊豆社二宇 二社共に村の鎭守なり、いづれも本地佛正觀音を安ず、寶泉寺持、末社
天照太神 八幡・春日の二神を相殿とす、稻荷社二宇 〇辨天社 神體は春日の作なり、同寺持
寶泉寺 禪宗曹洞派、上閏戸村秀源寺末、愛辨山と云、開山梅眼香譽天正十二年三月朔日寂す、本尊如意輪觀音を安ず、
久伊豆社 蓮田市井沼七五九(井沼字後塚)
井沼の地内には、中央部の字堀之内に館跡があり、その東・西・南の三方に空堀と土塁跡が残る。この館には室町末期に佐藤内蔵助という武将が居城したと伝え、その子孫とされる佐藤清家は、当社の隣に居を構えている。
当社は、口碑によると、宝永七年(一七一〇)三月に、騎西の明神様(玉敷神社)から分霊を勧請し、社殿を再建したという。『風土記稿』井沼村の項には、「久伊豆社二宇 二社共に村の鎮守なり、いずれも本地仏正観世音を安ず、宝泉寺持」と載る。また、口碑によれば、当社の境内は元々佐藤家の敷地内であったという。また、別当であった宝泉寺の住職は、しばしば佐藤家から輩出していたという。恐らくは、本来佐藤家の氏神であった社が、村の鎮守として信仰されるようになってきたことから、宝永七年に久伊豆神社の本社とされる玉敷神社から改めて分霊を受け、同家とも関わりの深かった宝泉寺住職の手により、本地仏が納められたものであろう。
なお『風土記稿』に見える二社の久伊豆神社のうちのもう一社は、字的場に鎮座していたが、明治四十年五月、当社に合祀された。
当社の社殿は、文化五年(一八〇八)及び大正十二年に改築が行われた。しかし、その後老朽化が激しくなり、昭和六十四年、氏子の協力により大修理され現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
社殿の左側奥に祀られている弁財天 社殿の右側奥に祀られている稲荷神社
境内に祀られている境内社・稲荷大明神
境内社の傍には力石を二基置かれている。
どことなく昔の懐かしい雰囲気が漂う境内
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「蓮田市HP」「蓮田市観光協会HP」
「埼玉の神社」「境内記念碑文・案内板」等
