舎人稲荷神社・与左衛門八幡神社・内蔵稲荷神社
その後、万治元年(1658)には杉戸宿近在の新田(舎人・与左衛門・雅楽・内蔵)の住民が杉戸宿に入植し横町がつくられたという。
この横町の舎人・与左衛門・内蔵各組に祀られている社が現在でも鎮守社として鎮座している。
【舎人稲荷神社】
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸758-1
・ご祭神 宇迦之御魂神
・社 格 旧杉戸宿舎人組鎮守(推定)
杉戸香取神社から北東方向で、住宅街から離れた一面の畑と一部民家が点在する中に杉戸舎人稲荷神社はポツンと鎮座している。
杉戸舎人稲荷神社遠景
杉戸舎人稲荷神社正面
鳥居の碑狩り側にある「稲荷神社改修趣意書」と刻まれた石碑
創建時期等は、境内に建つ「稲荷神社改修趣意書」によれば、天明8年(1788)京都伏見稲荷神社より勧請したとの記述があり、社の「舎人」という名称は、旧杉戸宿の耕地集落名であると考えられる。
舎人(とねり/しゃじん)とは、ヤマト王権時代に既に存在していた皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者、またはその役職といい、なかなか歴史的にも奥深い名称といえよう。何故このような東国の一地域にこのような地名がついているかは不明だ。因みに『埼玉苗字辞典』によると、嘗てこの地域には、「日奉(ひまつり)舎人部」という職業集団がいて、養老五年下総国葛飾郡大島郷戸籍に「日奉舎人部真島」と載り、大島郷(杉戸町)付近の日奉氏配下の舎人部と思われ、その残証が、この小さな一地区にひっそりと残されていたのであろうか。
拝 殿
稲荷神社改修趣意書
稲荷神社は今から百八十七年前天明八年京都伏見稲荷神社より御勧請申し上げ爾来舎人組地域の氏神として深く敬虔なる祈りをする者は延寿福楽の栄華を授くと言われ、住民に崇敬され今日に至っている。現在の社殿は既に六拾数星霜を経ており、この間二拾年前に小規模の修繕をした儘であり、最近土台が腐朽し、屋根の破損も甚だしく神霊の社として放置しがたい状態である。氏子の方々から修復してはとの声あり、この度氏子世話人慎重審議した結果この期に社殿を大改修し荘厳の美を復元し参拝の心を増進神明の加護により氏子住民各位の安楽をはかることになりました。
ついては、氏子並住民各位の絶大なるご信助によりこの大願を成就したいと存じます。どうぞ進んで浄財をご喜捨賜りますよう世話人一同ご懇願申し上げる次第です。
【与左衛門八幡神社】
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2637
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧杉戸宿与左衛門組鎮守 旧無格社
・例祭等 例祭(天王様) 7月15日
杉戸舎人稲荷神社から北東方向にある大型家具ショッピングモールを左手に見ながら、その先の南北に縦断する日光街道を直進、その後、150m程先で進行方向正面左側に与左衛門八幡神社の境内が見えてくる。
与左衛門八幡神社正面
参道左側に祀られている庚申塔二基 庚申塔二基の並びに祀られている
庚申塔と稲荷神社の石祠
拝 殿
八幡神社 杉戸町杉戸二六三七(杉戸字与左衛門)
『風土記稿』杉戸宿の項に見える小名のうち、「与左衛門」とあるのが当社の鎮座地で、古くから与左衛門組の鎮守として祀られている。
創建の年代については明らかでないが、その存在が最初に確認できるのは、文政十一年(一八二八)に稿を終えた『風土記稿』の記載と、拝殿に奉納されている「文政十一年歳次戌子秋九月仲澣日」の年紀のある絵馬である。
ところで、文政年間に先立つ万治三年(一六六〇)、与左衛門及び与左衛門前・雅楽(うた)・舎人のそれぞれの住民の一部が日光街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移住して表組が成立した。この表組のうち、与左衛門出身と思われる家が代々当社の氏子となっていることから推察すれば、当社は遅くとも万治三年以前から鎮座していたことが考えられる。往時の管理状況は、『風土記稿』に「村民持」と記される。
明治初年に当社は無格社となったが、明治期の合祀政策の際に合併されることなく、現在に至っている。
なお、農地改革以前までは、神社の土地として境内の周囲に約二一〇坪の水田があり、その模様から「腰巻き田」と呼ばれていた。神社の運営費は、この土地を小作に出した収益で賄われていた。
「埼玉の神社」より引用
与左衛門八幡神社遠景
当社の祭神は誉田別命であり、氏子の方々は「八幡様」と呼び、五穀豊穣・子供繁栄・家内安全の神として崇めている。また、祭神が武神とされることから、戦時中は武運長久の神としての信仰もあった。
一方、当社で行われる祭りは、7月15日の例祭で、「天王様」と呼ばれる。この日は、京都の八坂神社の祇園祭りび当たっており、各地に散在する八坂神社や天王社もこのころを祭日とする所も多く、疫病・怨霊除けの祭りとするのが普通である。ところが、当社の場合は、豊作祈願の祭りとされ、本来の意味が忘れ去れ、なおかつ、誉田別命を祭神とする当社の祭典が、なぜ素戔嗚命ないしは牛頭天王を祭神とする神社のものと結びついたかは不明とされる。まあ、このような現代の我々には一見論理的でない矛盾や曖昧さを、全て包み込む事も社の懐の広さといった所かもしれないが。
因みに当地では、八坂神社の神紋「木瓜」が、きゅうりの切り口の模様に似ていることから、天王様の日まではきゅうりを食べてはいけないとされていたという。
【内蔵稲荷神社】
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2854
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧杉戸宿内蔵組鎮守 旧無格社
・例祭等 秋祭り 9月第1日曜日
与左衛門八幡神社の東側に接する道を北東方向に400m程進んだ丁字路上に鎮座している内蔵稲荷神社。
内蔵稲荷神社正面
境内に設置されている「金付田耕地改修碑」
金付田耕地改修碑
金付田耕地は大字杉戸字十八丁にある水田地区の通称で池や沼が多くそのうえ排水の悪い低湿地でした。
したがって収穫も少なく、金を付けなければ耕作するものがなく、そのため「金付田」の名がついたと伝えられています。
そこで渡辺勘左衛門氏は、この耕地の改修を土地所有者に呼びかけ、大正十三年四月に耕地整理組合を作り工事を始めました。
ところが、その頃は物価や工賃などが高騰して、工事は一時中止になりましたが関係者の努力により昭和五年ごろから再開され、幾多の困難を乗り越えて昭和七年六月に工事は完成し良田が造成されました。
この事業を後世に伝えるため昭和十五年十月にこの碑は建てられました。(以下略)
内蔵稲荷神社と境内に設置されている「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」
稲荷神社(ごとういなり) 杉戸町杉戸二八五四(杉戸字拾八丁)
当社は杉戸町の北部、水田の広がる字拾八丁に鎮座している。この字名は、日光街道の杉戸宿から一八町の距離にあることに由来する。また、古くからの氏子の集落は、拾八丁の東南に位置する字与左衛門前である。このように鎮座地と氏子の集落が離れた形になった理由は、拾八丁には池や沼が多く、その上、排水の悪い低湿地であったため、居住に適しなかったことによると考えられる。
境内に建つ「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」によると、拾八丁は金付田耕地(かねつきだこうち)とも称し、池や沼が多く、しばしば水害があって耕作者を悩ませた地であった。これを憂えた地主渡辺勘左衛門は、当地の土地改良を提唱し、大変な苦労の末、昭和七年にその事業を完遂した。ちなみに金付田耕地の名称は、地主が耕作費を出さなければ田を耕す者がいないほどの地であったことに由来するという。
このような低地であることから、当社の創建についても水害にまつわる話が伝えられている。これは、昔この辺り一帯が大水に見舞われた際、栗橋方面から流れ着いた御神体を奉斎したことに始まるというものである。また、一説には、常陸国の笠間稲荷神社の流れを汲むともいうが、確証を得ない。
明治初年の社格制定に伴い、当社は無格社となったものの、その後の合祀政策に際しては、その対象から免れて、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
氏子区域は元来、字与左衛門にある内蔵(くら)組と呼ばれる集落であった。しかし、万治三年(一六六〇)の日光街道開設に伴い、当地及び周辺の与左衛門・雅楽(うた)・舎人の各地区の住民の一部が、街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移り住んで表組の集落を形成した。この中で、内蔵組の出身の人たちは当社氏子にとどまったため、現在の氏子区域は内蔵組と表組の一部の二地域となっている。
祭神は倉稲魂命で、氏子は「ごとう稲荷」あるいは氏神様と呼び、家内安全の神として信仰を寄せている。「ごとう」の意味は既に忘れられてしまっているが、恐らくは稲の美称である「御稲(みいね)」の音読であると思われる。したがって、元来は五穀豊穣の神として祀られていたものと考えられる。
また、当社は子供の夜泣きを治す御利益があるとされ、かつたはこの信仰に伴う習慣があったという。この信仰は昭和15年頃迄盛んであったが、先の大戦を機に廃れてしまったとの事だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町郷土資料館 杉戸宿と百間領の村々」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・石碑文」等
