筑西市 村田三所神社
地形としては、東西は約15km、南北は約20kmで、面積は205.35 km2。北東端の一部に阿武隈山系に連なる標高200mほどの丘陵地帯がある他は、ほぼ全域が標高約20~60m程度の平地又はなだらかな丘陵であり、可住地面積は茨城県内の市町村中2位、市の総面積のうち約95%で居住または耕作が可能という。
北西を栃木県と接し、栃木県南部の諸都市に近いため、通勤・通学や買い物などの行動圏は比較的、茨城県内より栃木県側に向いているといわれている。
中心市街地のある旧下館市は元々城下町で、江戸時代以降に商業都市として発展、その後の平成の大合併期までは県西地域で最多の人口を有する市であったため、国や県の出先機関が多く置かれて県西における行政の中核となっている。
2005年(平成17年)に1市3町(下館市、関城町、明野町、協和町)が対等合併して新たに「筑西市」として誕生している。
その筑西市の行政区域内にある明野地域は、同市東南部に位置していて、筑波山を間近に望み、東に桜川、西に小貝川が流れる水と緑豊かな地域である。旧明野町の総面積は48.35平方㎞、肥沃な大地に恵まれた暮らしやすい田園都市を形成している。
・所在地 茨城県筑西市村田1700
・ご祭神 誉田別命 武甕槌命 経津主命
・社 格 旧村田庄鎮守 旧村社
・例祭等 元日祭 節分祭 2月3日 嵐除祭 3月15日
例大祭 11月3日
筑波山神社から茨城県道14号筑西つくば線を旧下館市街地方向に進み、村田郵便局の先にある「村田小入口」交差点のすぐ左側に村田三所神社の北側鳥居が見えてくる。
正直なところ、筑波山神社からの帰路、本来は筑波山から南西方向に進路をとるつもりでいたのだが、自家用車のナビは北西方向に向かうルートを指定したため、やむなくこの道で帰路を急いだのだが、結果論から言うと、このルートは行きの距離より2時間以上も時間がかかってしまい大変な目にあってしまった。但しこのような予定外な出来事があった中にあってこのような社に巡り合えたのも何かの縁と感謝し、厳かな気持ちで参拝に臨んだ。
参道も空間も広々とした社
村田三所神社が鎮座する旧明野町は、倉持遺跡などから貝塚や土器が発見されたように縄文時代より早くから開け、古代は狩や鳥羽の淡海での漁業が生活の中心であった。大和国家が成立した4世紀頃は新治国に属し、大化の改新以後は常陸国新治郡、白壁郡を経て延暦年間に真壁郡と改称された。平安時代は平将門にかかわる伝承が多く、平国香の墓と伝わる石塔が東石田にあり、承平の乱や天慶の乱の中心地であった。また、当時は石田荘、村田荘、大村荘、田中荘といった荘園が発達していた。南北朝時代は、小田、関、下妻、結城氏などの支配下におかれており、海老ケ島城は海老原右近将監輝朝によって築かれ、佐竹氏の援助を受けた宍戸義長が文禄4年(1561年)に入城してこの地域を整備した。
村田三所神社境内正面
江戸時代に入るとこの地域は天領や旗本領になり、代官や知行によって治められ、支配者が異なる相給が殆どであった中でも名主、組頭、組が組織され、農民同志が援助しあう自治制度が確立していた。1868年の大政奉還後、常陸県、若森県を経て茨城県に編入され、明治時代中期の市町村制施行により、大村、上野村、鳥羽村、村田村、長讃村が誕生した。
その後、大村が町制施行したのち長讃村の一部を編入(一部は真壁町に編入)し、昭和29年11月3日にこの1町3村が合併して明野町が誕生したという経緯がある。
鳥居の左側に設置されている社の案内板 鳥居の右側には社号表柱が建つ。
神社由緒の案内板があるのだが、案内板の真ん中から下にかけての部分が薄くなって完全には判読できないため、筆者が要約すると、創建は古く平安時代初期の弘仁2年(811)藤原南家系の巨勢麻呂流である藤原村田によると伝わる。父は藤原鎌足から六世の藤原真作。鹿島神宮の御霊を芦間山に勧請、大欅の下に社殿を建立し、村田庄の鎮守とした。元暦(1184)の頃、大欅の下に村民が集いを雨乞いをし、龍神の石祠にて祀っている。延元の元年(1336)兵火による社殿の焼失があった。 寛永年間(1624~1643)村田庄にある海老江村の香取神社と、大林村の八幡神社を合祀し。以後「三所神社」と称するようなる。現在の社殿は大正元年に再建されたという。
拝 殿
三所神社由緒
三所神社
誉田別命 八幡大神 軍 神
武甕槌命 鹿島大神 武徳神
経津主命 香取大神 剣道神
弘仁二年(西暦八一一)鎌足六世孫藤原真作此の地を開拓し其の子村田に〇〇せし故に村田の名称あり 此の時鹿島神宮の御霊を芦間山に勧請し 大槻の下に〇〇神社村田の庄の鎮守とす 毎〇大祭事〇〇〇の〇〇〇〇村田〇〇〇〇は社北の丘地に今尚存す夫気集〇九條に舟と〇〇入江の〇のすみて〇〇〇〇〇まで吹く古歌に著されている 延元元年(西暦一三三六)の四月兵火に羅し本社及び摂社八坂神社鷲神社並びに〇〇〇〇〇〇神社皆灰燼〇寛永年間(西暦一六〇四)村田庄の内、海老江村 香取神祠 大林村八幡神祠水災〇〇〇当社へ合遷して三所神社〇〇〇
旧社領は先規之例に依り旧幕府徳川氏より朱印地高五石を寄付せらる。
明暦元年(西暦一六五五)社領の内より出火焼失す。同二年氏子信仰の徒の資金をもって社殿を再建す 亦寶永五年(西暦一七〇八)正一位の神位を受けた〇
後に神官滅家して其の証跡紛失すと雖も〇〇正一位三所宮筆記したる額尚 保存す。
元暦(西暦一一八四)年中大槻の下に村民集めて雨乞をしたあと、龍神の石祠あり。
明治四十三年に民家の出火の際に類焼し三度火災に合う。
大正元年現在の社殿を再建する。
昭和五十三年五月吉日 三所神社 宮司 浜田人司
大祭 一 月 元日 元日祭
二 月 三日 節分祭
三月十五日 嵐除祭
十一月三日 例大祭
八坂神社 素戔嗚命 七月二十五日
鷲神社 天日鷲命 十二月酉の日 案内板より引用
拝殿に掲げてある「正一位三所宮」と表記のある扁額
拝殿に掲げてある御神木の幹の巨大な断面板
この断面に記されている内容には、昭和54年 (1979) に枯れたため
伐採されたと記述されている。推定樹齢400年程の御神木であったという。
拝殿の左側側面に置かれている竜吐水(りゅうどすい)
この竜吐水とは、江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)である。名称は、竜が水を吐く様に見えたことからとされる。18世紀中頃の明和元年(1764年)に江戸幕府より町々に給付されたポンプ式放水具であり、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったとされている。少なくとも国内で120年以上続いた消火道具であり、数は少ないが、現在も稼働可能な竜吐水や雲竜水は、各地に残っており、消防署のイベントなどでその稼働の様子を見ることが可能な機会があるという。
境内に設置されている社の沿革碑
三所神社沿革碑 前茨城縣知事正五位勲四等森岡二朗題額
傳云常陸國真壁郡村田郷社藤原鎌足五世之孫巨勢麿之子真作〇〇
創也弘仁二季設立社殿祀武甕槌命稱鹿島宮興國五季羅兵〇應永中
再建寛永中合祀大林八幡宮海老江香取宮稱三所宮為十六郷鎮守寛
文九季改築社殿寶暦五季授神階正一位明治維新稱神社然神社維持
法未〇氏子當時衆議院議員尾見濱五郎外一同慨之百方斡旋得境〇
上地林〇〇矣是實四十三季一月也同季五月又羅災〇茲氏子一同協
力以社木拂下代金新築神社敢雖無輪〇之美構造堅牢保存維持法亦
得完備矣頃曰有志等相謀欲勒神社沿革傳諸不朽需文〇予予嘗承之
宰于本郡粗知其事由諠不可〇乃敍其梗槩云爾(以下略)
本 殿
社殿の左側に祀られている境内社二社 そして社殿の右側にも境内社が二社鎮座。
参道は思った以上に長く、200m程あるのであろう。
嘗てこの社はどの位の参道があったのであろうかと想像を逞しくしてしまったほどだ。
その参道沿いに社叢林が聳え立ち、その中には旧明野町指定保存樹が三株ある。
旧明野町指定保存樹と記されたケヤキの巨木が祖ビア建つ(写真左・右)
旧明野町指定保存樹の案内板
案内板の近くにある巨木の他にも巨木が二株 参道の最終地点であろう地点に祀られている
程あるのが目視でも分かった。 社が一基あり。詳細不明。
参考資料「筑西市 沿革HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」「境内案内板」等
