古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

杉戸香取神社


        
            
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸592
            
・ご祭神 経津主命
            
・社 格 旧杉戸宿鎮守 旧村社
            
・例祭等 お元日 初午 お神酒 41日 祭礼 717日 他
 東武動物公園駅東口から駅前通りを北上、大落古利根川を過ぎた「東武動物公園駅前」交差点を左折する。埼玉県道372号下高野杉戸線に合流後、杉戸の街中を西行すること1.5㎞程、上杉戸集会所の奥に杉戸香取神社は鎮座している。
        
                  
杉戸香取神社正面
 当社が鎮座する上杉戸は、中世に鎌倉街道の通った所で、その当時は杉戸村の本村として下高野と共に繁栄していた。ところが、元和二年(一六一六)に、それまでは人家もまばらであった下杉戸に日光街道の宿駅が置かれ、町屋が形成されると、村の中心は下杉戸に移ってしまい、上杉戸は寂れてしまつた。そのため、上杉戸の住民の多くは宿駅近くの湿地を開いて移り住んでいった。こうして開発された地が、住居表示実施前の新町と横町であるという。
        
       参道の先には石段があり、そこを登った左手に社殿は鎮座している。
        石段の手前左側には、「伊勢太々奏上紀年玉垣奉納碑」があり、
      その左側には厄除大師・子育地蔵が安置されている祠が祀られている。

 こうした経緯から、当社の氏子は旧来の氏子区域である上杉戸の住民と、新町・舎人の住民のうち先祖が上杉戸から出た者であり、その数は現在一四〇戸となっている。しかし、このうち、地元である上杉戸の氏子は、わずかに一三戸と少ないとの事だ。
 この少ない上杉戸の氏子が一戸ずつ順番で努める行事に、当社の祭り以外で「庚(かのえ)講」がある。一三戸の氏子が順番に努める宿に集まって、床の間に祀った庚申様の掛軸の前で酢の物や刺身などを肴に飲食するもので、元来、庚申の日に行われていた。その後、生活様式の変化から今では二か月に一度、任意の日に行うようになり、肴もほかに天ぷらや奴豆腐などが加わって、豪華になってきているという。
 
 境内はもう一段高台があり、再度石段を登ると社殿が祀られている区域に達する(写真左)。
   元々自然堤防上に鎮座されていた社なのか、土塚を盛ったものなのかは不明。
       また、石段の右手には二基の力石が置かれている(同右)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 杉戸宿』
 小名 上杉戸 當所に街道より西に分れて、上高野村に達する一條あり、古道と唱ふ、此傍に枝さし俺たる一樹あり、土人這松と呼べり、
 香取社 東福寺持〇神明社 神明院持 〇愛宕香取合社 寶性院持、以上の三社は宿の鎭守なり、〇大六天社 同院の持、下同じ、〇天神社〇稻荷社二 一は寶性院、一は村民持〇荒神社 村民持 下同じ〇八幡社
 寶性院 新義眞言宗、埼玉郡百間村西光院末、杉戸山と號す、本尊胎藏界の大日を安せり、當寺は古郡中幸手宿の城主一色宮内少輔義範建立して不動坊と號せしが、元和二年教識と云僧今の院號に改しとのみ傳へり、一色氏のことは幸手宿を始、近村居蹟の條々其傳散出たれば、合せ見るべし、
〇神明院 同宗、東大輪村密藏寺門徒、普照山と號す、寛永八年能音と云僧造立すと傳へり、本尊胎藏界大日、〇東福寺 同宗、内國府間村正福寺末、香取山と號す、榮眞と云僧元和九年草創し、其頃は門徒なりしが、文化十一年僧祐教法流相續せしより、寺格改り今の如く末寺となれり、本尊不動、

 香取神社  杉戸町杉戸五九二(杉戸字上杉戸)
 杉戸は、古くは杉門と書き、この辺りがまだ海であったころ、日本武尊が東征の際に、薩天ヶ島の南岬に当たる当地に上陸したところ、老杉が鬱蒼として水門を覆っていたことから名付けられたという。
 当社の由緒は、昭和七年に当時の社掌加藤貞学が執筆した「香取神社社殿造営費勧募趣意書」に詳しい。それによると、天智天皇の御代に下総国から当地に移住して来た孔王部(あなほべ)一族が、その産土神の香取神宮を日本武尊の旧跡に祀ったことが当社の始まりであるという。下って文治年間(一一八五-九〇)には、領主河辺荘司行平によって社殿が再建され、その崇敬を受け、その後、寛正二年(一四六一)と天文二十三年(一五五四)に二度にわたって兵火に罹り、社殿消失の憂き目に遭ったが、田宮城主一色氏によって再建されたと伝える。
 また、中世・近世と当社の別当であった東福寺は、明徳二年(一三九一)に建立された真宗の寺院で、元は当社の参道の入口にあり、その境内には開山の月誉が当社の長久を願って植えた松が茂っていた。東福寺が寛永六年に新町に移転した後もこの松は這松(はいまつ)の名で親しまれていたが、やがて枯死し、今はその跡地だけが名残を留めている。
 明治になると神仏分離によって東福寺の管理を離れ、明治六年に杉戸宿の村社となった。更に同二十六年には字河原から無格社大六天社と稲荷社の合殿を境内に合祀したことが『明細帳』に記されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『明細帳』による祭神は、経津主命一柱であるが、当社の本殿は三間社流造りであり、その内陣には香取大明神・春日大明神・鹿島大明神の三柱の名と本地仏の種宇を記した享和二年(一八〇二)銘の木製神鏡形が幣束と共に安置されている。
 また、拝殿には、加藤清正の虎退治を描いた弘化二年(一八四五)の絵馬をはじめとして、見事な絵馬が何枚も奉納されており、氏子の信仰の厚さがうかがわれよう。
 
  境内に祀られている大六天神の石碑     社殿の右側に祀られている稲荷大明神の石祠
    及び香取大明神の社号額
        
                  境内からの一風景
        
            県道沿いの入口付近に設置されている社の案内板
 香取神社
 祭神 経津主命
 祭儀 例祭 七月十七日
 当社は下総香取の香取神社の末社である。当町内の地域は、もと下総国に属していたので多くの香取神社が鎮座している。
 創立年代は不詳であるが相当古いと思われる。江戸時代は東福寺が管理していた。明治六年に村社となった。
 境内には、木・石造りの鳥居(明治四十一年)各一基、手水石(安永七年)一、石灯籠(天保五年)一、狛犬一対のほか力石がある。拝殿には絵馬もある。
 なお、稲荷、大六天の二社が合祀されている
。(以下略)
                                       案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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