西大輪稲倉魂神社
・所在地 埼玉県久喜市西大輪2094
・ご祭神 稲荷神(推定)
・社 格 旧西大輪村河原鎮守 旧無格社
・例祭等 初午祭 3月
JR東鷲宮駅の西側にある「東鷲宮駅入口」交差点を右折し、埼玉県道3号さいたま栗橋線を250m程北上した先にある「久喜市こかわ歩道橋」手前の路地を左折する。道路幅が狭い上に意外と民家が立て並ぶ道路に対して、運転速度に気を付け、急な子供たちの横断や対向車との接触等気をつけながら安全に進み、「葛西用水路」を越えたすぐ先に西大輪稲倉魂神社は道路に対して背を向けたような配置で鎮座している。
但し周辺には適当な駐車スペースはなく路駐となり、尚且つ、道路側からは参道正面が見ずらい場所にある。境内はフェンスで仕切られており、よく見ると社の西側に入口に通じる細い道があり、回りこむように進み、参拝を開始した。
西大輪稲倉魂神社朱面
氏子は西大輪地域内の河原地区に古くから住む数十戸である。社の規模は決して大きくはないが、氏子の方々からは「お稲荷様」と呼ばれ、河原地区の全てにわたってお守りくださる有難い神様であるといわれている。種々の祈願の中でも特に子供に関わる願い事に霊験あらたかで、ある時、子宝に恵まれない婦人が男の子を授けてほしいと願を掛けたところ、三人の男児に恵まれ、以後この家は栄えたとの話も伝えられている。また、お稲荷様のお使いは白狐であり、何かの霊験を示す際には、必ずその姿を現すといわれている。
拝 殿
拝殿の手前には狛犬はなく、その代わりに一対の石碑にそれぞれ狐像が彫られている。
稲荷神社 鷲宮町西大輪二〇九四(西大輪字向天王)
天王新堀と葛西用水に挟まれた地に鎮座する当社は、西輪の小大名の一つである河原地区の鎮守として祀られている。その創建については明らかでないが、本殿に納められている古色を帯びた三体の稲荷大明神像により、永い歳月を経てきたことがうかがえる。
『風土記稿』西大輪村の項には「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、当社は鷲明神社の末社の内の一つとして載せられている。往時の本社であった鷲明神社は、明治四十二年に東大輪の大輪神社に合祀されたが、社殿はそのまま残され、「お仮屋」と呼ばれて現在に至っている。ただし、その所在地は、当社から北へ七〇〇メートルほど離れているところから、同書の記述は鷲明神社の境外末社であったことを示すものであろう。
明治初年の神仏分離により円明院の管理から離れた当社は、社格制定に際して無格社となった。更に、明治四十年代に入り、村社大輪神社への合祀問題が生じたが、祟りを恐れた氏子は、特に崇敬の厚い槙島家が丁度神社裏手に居を構えていることから、その氏神として管理していく条件で合祀を回避した。その後も河原地区の人々の厚い信仰を基に祀り続けられ、平成元年には念願であった社殿の再建が行われている。なお、槙島家は、合祀回避の中心的役割を担った縁で、今も祭りの際の祝宴の会場となる習わしである。
「埼玉の神社」より引用
すっきりした境内
かつて山城国南山城宇治(現在の京都府宇治市槇島町)近縁には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。
元亀4年(1573年)7月3日、時の公方・足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、藤原氏の流れで室町幕府の奉公衆の一員であった真木島(槇島)昭光を頼り、槇島城へ籠城した。だが、信長は即座に入洛し、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、室町幕府は終焉を遂げた。
真木島昭光は、室町幕府滅亡後、細川越中守忠興に招かれ1,000石を給され、肥後熊本にて亡くなり、子孫は阿波徳島藩等に仕えたとされている。ところでこの昭光の三弟大膳昭久は、武州幸手郡西大輪邑に移り住んだという。
一方、『新編武蔵風土記稿 権現堂村』条には「舊家者吉十郎 氏を卷嶋と云ふ。世々里正を勤む、先祖卷嶋主水助北条氏直に仕へ、氏直沒落の後當村に来りて村民となれりと云ふ、氏直より賜はりし感狀に、間釜之内十貫文之地を賜ひしことしらる」と載せていて、ここでの巻島氏は、源姓桃井氏流槙島氏として、一色氏・北條氏に仕え、幸手領に居住していた土着豪族であったようだ。
槇島性は国内でも埼玉県が一番多く分布し、県内でも久喜・幸手両市周辺に集中して今でも現存しているのは事実である。当然、当社の創建にも深く関与している一族でもある。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「埼玉苗字辞典」等
