青毛五柱神社
・所在地 埼玉県久喜市青毛1140
・ご祭神 天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命
・社 格 旧青村鎮守
・例祭等 元旦 御影供養 4月25日 大洲(おおや) 7月初酉日
夏祭り 7月25日 祭礼 10月19日
久喜市青毛地域は、栗原諏訪社が鎮座する栗原地域と埼玉県道153号幸手久喜線を境として北側にあり、北東方向に流れている葛西用水路の右岸に位置する東西に長い地域である。栗原諏訪社から一旦北上し、上記県道に戻り久喜市が一方向に西行、「青葉公園」の先にある「青毛橋」交差点を右折し、300m程進んだ突き当たり付近に青毛五柱神社は鎮座している。
東西に長い青毛地域にあって、県道沿いは宅地化が進んでいるのに対して、社が鎮座する地域西側は葛西用水路がすぐ北側に流れ、周囲一帯長閑な田園風景が広がる地域でもある。
青毛五柱神社正面
久喜市青毛(あおげ・おおげ)地域は、葛西用水路(旧:古利根川)沿いに自然堤防や河畔砂丘(青毛砂丘)などの微高地がみられ、平沼などはその後背湿地の低地となっているが、概しておおむね平坦である。中島と川原に挟まれた低地(流作)は自然堤防と対を成す形で形成されており、古利根川(現:葛西用水路)の旧流路を示している。
一の鳥居の手前で参道右側に建つ「五柱神社改築記念碑」
鬱蒼とした社叢林の中に建つ一の鳥居
久喜市青毛、この『青毛』の読み方は、今日において行政・郵便などでは「あおげ」が用いられているが、旧来からの住民の間では「おおげ」という発音が定着していて、米作を主体とした農業地域として発展してきた。そのため、地内では農業用水が縦横に走っていて、このうちの一本は当社の境内を横切っている。大字の中には当社のある上育毛をはじめ中村・中島・川原・本郷の五つの耕地があり、現在の氏子数は旧家を中心とした200戸余りである。神社運営も、耕地を単位として行っており、各耕地から総代は一名ずつ、年番は五名ずつ出るという。
社名を示すように、当社には天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命の五柱の神々が祀られている。本殿には、元々当社の神像であった鷲宮明神像(天穂日命)と天満天神像(菅原道真公)及び弓矢を持った随身像二体と共に、字川原の稲荷神社から移された京都伏見稲荷神社別当愛染寺祈祷札と幣帛を納めた厨子も安置されている。
一の鳥居の先にある青面金剛二基 神橋を越えた先に朱色の二の鳥居が見える。
左側の青面金剛は寛文12年と刻まれている。 神橋の下には農業用水が横断している。
神橋を渡った先が境内となり、日を浴びた明るい境内の中に二の鳥居・社殿が見えてくる。
当社はかつて鷲宮神社・天満宮・八幡様・猿田彦・稲荷神社という5つの神社が、当地域に所在していたものを含め、集められ合祀されているために「五柱」という名称がついた。このうち八幡様(字中村)・猿田彦(字中村)・稲荷神社(字川原)は1907年(明治40年)5月1日に合祀されている。こうした経緯から、青毛五柱神社は五柱神社(ごはしらじんじゃ)・五柱社(ごちゅうしゃ)・青毛神社(おおげじんじゃ)とも称されている。
境内南側にある旧本殿 境内北側には社務所があり、
その傍に道祖神が祀られている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 青毛村』
鷲宮天神合殿 村の鎭守なり、常樂寺の持、
常樂寺 葛飾郡内國府間村正福寺の末、護摩山光明院と號す、本尊大日、開山弘賢慶長十七年十月朔日示寂、當寺元は阿彌陀堂にて、行基菩薩彫刻の本尊を置き、大同二年の造立といへど、定かなる傳へはなし、堂の軒に享保三年鑄造の鐘を掛く、 十六羅漢堂
青毛五柱神社 久喜市青毛一一四〇(青毛字上青毛)
『風土記稿』青毛村の項に「鷲宮天神合殿 村の鎮守なり、常楽寺の持」とあるように、当社は 鷲宮神社と天神社の合殿であったが、明治四十年に地内の無格社三社を合祀したのを機に、現在の名称となった。参道の脇に立つ「五柱神社改築記念碑」には、青毛の村の歴史と当社の由緒が刻まれているが、それを要約すると次のようになる。
青毛の地名は、この地が古利根川に沿った沃野で、農耕に適し、穀物が青々とよく育つことに由来する。伝説によれば、氏を異にする一七戸の人々がこの地を理想の郷と定め、相互に協力して開拓したのが村の始まりであった。この人々は、古来、敬神の念が厚く、神社を中心としてあたかも一家のように親睦を深めていた。当社の母体となった鷲明神社は、この育毛の村の総鎮守として祀られてきた社で、その創建は鎌倉時代初期以前のことであり、文治年間(一一八五-九〇)に源義経がこの地を通過する際、利根の激流に阻まれて川を越えられなかったため、弁慶に護摩を焚かせて当社に祈願したところ、波が静まり、無事に渡りきれたという。その後、享保五年(一七二〇)三月に荘厳な社殿を建立したのを機に天満社を勧請して鷲宮天満社と改称した。更に、明治四十三年五月一日に字中村の八幡社と猿田彦社、字川原の稲荷社の三社を合祀し、これに伴って社号も青毛五柱神社と再度改められ、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
「五柱神社改築記念碑」の内容も基本「埼玉の神社」と変わらないのだが、追加事項として、大正12年9月1日、南関東(震源地は相模湾北西部)を中心に発生した巨大地震である「関東大震災」において、当社の社殿が倒壊したため、震災の後の数年間は境内も荒廃する一方であったが、人心も落ち着いた昭和11年に再建の準備に取り掛かり、翌年には早くも拝殿の竣功、14年には本殿、15年には幣殿や社務所なども竣功し、盛大に遷座式が執り行われた、という事側も刻まれている。
氏子の間では、当社は心の拠り所として信仰され、大切にされていたのであろう。このように、短期間で大きな事業を全うすることができたのは、氏子の方々の敬神の念が強かったからなのであろう。
「※五柱神社改築記念碑 原文一部抜粋」
大正十二年九月一日午前十一時四十八分突如トシテ関東一帶ノ地大ニ震ヒ本社モ其ノ災害ニ遭フ爾來十有餘年今ヤ著ク荒廢シテ復昔日ノ観ヲ呈セズ氏子一同粛然トシテ神徳ヲ黷サンコトヲ恐レ爰ニ皇紀二千六百年記念トシテ再建ヲ企圖シ昭和十一年三月之ガ資金ノ募集ヲ開始ス遠近傳ヘ聞キ浄財ヲ寄進スルモノ踵ニ接シテ到リ〇ニシテ所要ノ金額ヲ調達スルコトヲ得タリ是ニ於テカ翌十二年二月着工奉告祭次デ地鎮祭執行五月拜殿竣工十三年境内擴張記念植樹并神橋改修十四年二月本社建築ニ着手十二月竣工十五年三月幣殿玉垣等ノ建築ヲ終リ續テ社務所改築更ニ舊本社ヲ改修シテ寶物殿ト為シ貴重品ヲ奉安ス其ノ他御神苑内ノ整備改善ヲ終リ爰ニ本月十五日ヲ以テ盛大ナル正遷座祭ヲ擧行スルコトヲ得タリ
本 殿
二の鳥居から参道入口方向を撮影
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内改築記念碑文」等
