古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

麦倉鷲神社

 
        
              
・所在地 埼玉県加須市麦倉124
              
・ご祭神 天穂日命
              
・社 格 旧麦倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 211日 春祭り 43日 夏祭り 77
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1123
「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている「埼玉大橋」を越え、1.5㎞程北上した「北川辺消防署前」交差点を左折する。その後、同県道369号麦倉川俣停車場線を西行すること1㎞程にて「加須市立北川辺西小学校」に到達し、そこから県道沿いに進むと、進行方向右手に麦倉鷲神社の一の鳥居が見えてくる。
        
                  麦倉鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「麦倉村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は大曾村・柳生村、南は利根川を限り、北は間の川跡を隔て上野国邑楽郡下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。田園簿によれば田高六二一石余・畑高七九六石余。宝暦一一年(一七六一)前々古新田改出の二〇五石余が新たに加わり高一千六二三石余となる(「村鑑帳」小室家文書)。反別は寛文四年(一六六四)に田方一〇三町二反余・畑方一六八町六反余(「麦倉村検地帳」同文書)。宝暦元年立野たての新開畑五町三反余が検地をうけ、前掲村鑑帳では田方一〇三町三反余・畑方一七四町九反余となっており、江戸時代を通して畑方の開発が促進された(同文書)。
        
                          南北に100m程続く比較的長い参道
「埼玉の神社」によれば、麦倉の地は明応年間(1492年〜1501年)のころに開拓が行われた所であり、当地の領主である石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄11年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人「鳥海多津儀」は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈り、以来同家は当社の社家となったという。
『新編武蔵風土記稿 麦倉村』
「當村明應の頃開闢して、石川權頭義俊と云人居城を構へ則領主として住せしが、羽生の城主木戸相模守と合戦に及び、石川焼打にせられ、利を失てより一村悉く廢地となれり。其時石川義俊の家臣に鳥海丹後と云もの、城中を遁れいで、野州に立退き、彼が子孫慶長の頃、又當村に来り再び開發せりと云」
 また麦倉鷲神社の創建は、当地が開発された時期と同じく、明応のころ勧請された村鎮守であると記されている。
「鷲明神社 村の鎭守なり、當社は明應の頃勸請する所なりと云」
「南光院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、元弘山と號す、本尊不動を安ず、當院は延元の頃開て其後廢せしを、明應の頃再び建立せしと云、及傳と云僧を祖とす、俗稱を石川主膳と云、石川權頭義俊が一族なり」
         
                     拝 殿
           拝殿中央部には鷲神社らしく鷲の図柄が描かれている。
    因みに拝殿の手前で、参道を横切る道があるのだが、この道は上州板倉からの旧街道という。

 鷲神社  北川辺町麦倉一二四(麦倉字本村)
 麦倉の地は明応のころに開拓が行われた所である。領主の石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人鳥海多津儀は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈る。以来同家は当社の社家となる。
『風土記稿』によると、鷲明神は明応のころ勧請された村鎮守であると記され、また、神主鳥海家については、丹波の代で京都吉田家の支配を受けるようになり、その先祖は石川俊重の臣で多津儀という者が神主になったとあり、麦倉の地に残る口碑と一致する。
 鳥海家は神社脇に居を構え、大正一〇年ごろまで神職を務めていたが、その後昭和三〇年代の末に焼失してしまった。鳥海家の後には、上田金助が神職となり、今は武良が跡を継いでいる。
 当社の合祀は早く、明治五年に耕地中の神社を合わせたといわれるが、今日確認できるものは筑道の熊野神社(権現様)、本田上耕地の愛宕社の二社で、これらは終戦後それぞれの元地に戻っている。
 祭神は天穂日命で、一間社流造りの本殿には正徳二年七月七日付の京都吉田家からの幣帛が納められている。
平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している
                                                                    「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に記載されている麦倉地区の領主であった石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れているのだが、その敗れた原因を「時期的に丁度とうもろこしの伸びたころで、敵が隠れるには好都合だったために敗れてしまった」との由緒が残されており、石川家と一部の氏子はとうもろこしを作らないといわれている。
        
                              社殿から参道方向を撮影

 ところで、麦倉鷲神社の北側裏手には、廃川となった「合の川の跡」があり、グーグルマップ等の地図にもこの流路跡はしっかりと確認することができる。この合の川は、利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっている。合の川は、利根川が埼玉県加須市飯積で北へ分流した流れで、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れ、板倉町下五箇で谷田川が合流した後、加須市小野袋へ至って旧渡良瀬川へ合流していて、古代には利根川の本流が流れたとする説もある。
 元和7年(1621年)に新川通が新たな利根川本流河道として、加須市佐波(飯積から下流へ2km)から旗井(久喜市栗橋の北1km)までを開削し、渡良瀬川に接続し、これに伴い、合の川への利根川分流水量は増水時を除けば僅かとなる。その後、天保9年(1838年)に流頭が締め切られ、廃川となった。旧渡良瀬川へ至る下流部は谷田川へ譲った。
『新編武蔵風土記稿』
「利根川 新利根川なり、もと利根の流は飯積村の地先より佐波村の方へ流れしに、水路不便なれば寛永十九年伊奈備前守奉り、新たに當村の地さきより新川を掘割、かの飯積村の本流に通ぜしよし、元の流れは古利根川と呼び、土人此川を新利根川と唱へり、夫より二里餘を東流し、新古の二流合してより、此名は唱ずしてたゞ利根川と呼べり」

 合の川は人工的に締め切られた経緯から、流路内の比較的水深のあった場所は池沼として残り、流路跡に散在している。その他の流路跡の土地利用としては主に水田などの農地として利用されている。流路跡のほぼ中央部には谷田川へと至る水路が所在している。また、流路跡の両岸には当時の堤防が残されており、堤防上は道路などとして利用されているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等


 
  

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