古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯積鷲神社

 埼玉県旧北埼玉郡北川辺町は、県の北東隅に位置し、利根川の左岸(北岸)にある県内唯一の町で、都心から60㎞圏内に入る。東西6.5㎞、南北6.9㎞。東は渡良瀬川を境に茨城県古河市、南は利根川を挟んで大利根町(現加須市)・加須市、西は群馬県邑楽郡板倉町、北は谷田(やた)川を境に栃木県下都賀(しもつが)郡藤岡町に接する。利根川と渡良瀬川合流点の沖積低地に位置し、地形は河川の乱流により形成された自然堤防・後背湿地、流路跡からなる。標高は1315mを示し西部が高く東部が低くなっている。飯積(いいづみ)地域の自然堤防上で古墳時代後期の土師器・須恵器などが出土しており、集落跡と考えられ、「東」と墨書された土師器も発見された。また古代から中世にかけて、現在の渡良瀬川三国橋辺りは古河渡として知られ、「万葉集」をはじめとする多くの歌に詠まれる名所であった。
 古くから洪水に悩まされたが,近年は治水対策が進み,堤防が完備。県下の穀倉地帯の一つで,米作,野菜の施設園芸が行なわれる。南部を流れる利根川の瀬替えによって埼玉県側と切り離された孤立地域となっていたが,埼玉大橋が開通して解消された。
 1955年(昭和30)川辺村と利島村が合体して北川辺村となり,1971年(昭和46)町制施行。2010年(平成22)、騎西町・大利根町と共に加須市に合併している。
        
             
・所在地 埼玉県加須市飯積2001.
             ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             ・社 格 旧飯積村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 211日 例祭 43日 新嘗祭(秋祭り) 1123
 埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かる埼玉大橋を越えた最初の信号のある交差点を左折、一旦南下して麦倉八坂神社に到達後、埼玉県道368号飯積向古河線を利根川上流沿いに2㎞強西行すると、飯積鷲神社が鎮座する地に到着することができる。すぐ先は群馬県板倉町である。
        
                  飯積鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「飯積村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は麦倉村、南は利根川を隔てて大越村(現加須市)、西北二方は間の川跡を境に上野国邑楽郡島村・下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。天正二年(一五七四)一二月二日の御料所方書上(喜連川家料所記)によると、向古河(むこうこが)近辺の「いゝつみ」は古河公方領で、町野義俊に知行地として宛行われたが、同元年までは羽生勢に押領され、このときは上野館林城の長尾氏に妨害されていた。
 田園簿では水損場と記され、田高三一一石余・畑高六〇六石余。寛文四年(一六六四)検地があった(風土記稿)。明和九年(一七七二)には一五〇石余が高入れされており、新田が開発されたことがわかる(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。

 また「埼玉の神社」による地域名「飯積」の地名由来として、御諸別王(みもろわけおう)東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。
        
                綺麗に整備されている境内
 境内には「飯積鷲神社移転記念碑」が建っており、その碑文によると、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所が計画実施した「大高島地区高規格堤防河川防災ステーション」整備事業により収用され、北川辺町大字飯積字本村18811及び13番地から、飯積字本村2001及び2番地に移転新築したものであるという。
        
                                       拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡飯積村』
 鷲明神社 村の鎭守なり、萬治年中の勸請にして享保五年二月九日正一位の神位を請ると云、
      金剛院持、
 金剛院    本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下にて、上田寶藏寺と號す、本尊不動を安ず、
       開祖宥傳寛永二年二月十六日寂す、


 鷲神社  北川辺町飯積一五二(飯積字本村)
 鎮座地飯積の地名は、御諸別王東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。なお、「イイ」とは自然堤防の小高い所を呼び「スミ」は住むであるといい、古くから開かれた所であると考えられる。
 当社の創建は、社伝によると現宮司上田武良の祖である本山派修験上田山宝蔵寺金剛院が、万治二年鷲宮から同院の境内に勧請したという。この年は上田家の先祖が戦いに敗れて、当所に定住してから三〇年を経た時であるという。当社に限らず、当地方の鷲神社は万治年中の創建を伝えるものが多いが、それが何を物語るかは不明である。
 享保四年一一月三日に正一位の宣旨を受け、更に相殿の稲荷社に対する山城国紀伊郡本宮(伏見稲荷大社)からの天保八年七月一日の分霊証書がある。明治五年に村社となる。
 社殿内、中央に一間社流造りの当社本殿があり、その右に明治末期に同字中新田から合祀した鷲神社、左に新屋敷から合祀した鷲神社があり、各々一間社流造りがある。ほかに幕政期、同字編照院持ちの稲荷社・浅間社・愛宕社を同時に合祀したが、昭和三三年旧氏子の要請により返還した。境内には明治期に同宇内から集めた石仏類がある。
 *現在の鎮座地は移転の為、住所は違うが、敢て文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
             拝殿手前右側には「天満宮」の石碑や、伊勢参拝記念碑等が並ぶ。

 境内北側の道路沿いには石碑・石祠群が横一列に並んで祀られている。
 
左から?・青面金剛仏・
青面金剛像・庚申塔・   青面金剛像や十九夜・十九夜念仏供養
 庚申塔・二十六夜塔・?・稲荷社・水神社      稲荷社等の石祠・石仏が並ぶ。

 飯積鷲神社は耕地の神様として、また鷲大明神というところから、明神様の名で親しまれている。主祭神は天穂日命・武夷鳥命である。氏子は幕政期本村のみの鎮守であったので、四〇戸余りであったのだが、明治末期に新屋敷・中新田からそれぞれの鎮守鷲神社を合祀したため、百余戸と増加し、現在は飛び地の三軒と高野を含めて一八〇戸と推移している。
        
                                社殿から参道方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「境内掲示板」等

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