古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

雷電山古墳

 古墳時代は、日本の歴史において弥生時代に続く考古学上の時期区分を指し、古墳(特に前方後円墳)が盛んに造られた時代を言う。畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していき、関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長86メートルの前方後円墳で、標高90メートルの雷電山山頂に築造された。後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で、墳丘は三段構成であり、墳丘外面には葺石を施し、四重の埴輪列が巡ることが明らかになり、埼玉県で最も古い埴輪の出土例で、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。
 雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。 
        
               ・名 称 雷電山古墳
               ・墳 形 前方後円墳(帆立貝形)全長86m 後円部高さ8
               ・時 期 5世紀初頭(推定)
               ・指 定 市指定史跡
                    昭和31年(195626日 三千塚古墳群として指定
               ・所在地 埼玉県東松山市大谷
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0833965,139.3885539,16z?hl=ja&entry=ttu
 ゴルフ場の敷地内の高台に古墳が存在する。前方部が短い帆立貝形前方後円墳で、後円部墳頂に大雷神社の社殿が建立されている。この古墳は三千塚古墳群の盟主的存在で、「三千塚古墳群」の名称で東松山市の史跡に指定されている。かつて,雷電山古墳の前方部付近において相撲が奉納されたらしい。
        
 ゴルフ場のクラブハウスへ向かう道を進み、駐車場のすぐ手前右に古墳(大雷神社)への分岐がある。右に曲がると道幅が狭い参道となり、大谷大雷神社の鳥居に到着する。鳥居左側には社務所の駐車スペースあり。
        
          
社号標右側の生垣前に「三千塚古墳群」の案内板あり。
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していたようだが、今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。

三千塚古墳群(市指定史跡)
 大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
                            東松山
教育委員会  案内板より引用
 
 鳥居を越えて石段を登る(写真左)。雷電山古墳は標高90メートルの雷電山山頂に築造され、後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で墳丘は三段のテラス構成であるが、石段も数カ所踊り場を設置している。写真右は石段をある程度登ったところで下部を撮影。写真では分かりずらいが、1段目のテラスは周囲見ながらでもしっかりと確認することができる。因みに雷電山古墳は
三段築成の後円部は最上段が盛土で、一、二段目は地山を削り出しているとのこと。
        
           雷電山古墳・墳頂に鎮座している大谷大雷神社社殿。
  社殿の所々に小石が散乱している。古墳
墳丘外面には葺石を施していた名残りであろうか。

 大谷大雷神社の社殿奥で、雷電山古墳の前方部にあたる場所では、嘗て「
大雷神社祭礼相撲」という祭礼神事が行われていて、現在はその跡地付近には「大雷神社祭礼相撲場跡」という案内板がクラブハウス沿いの道端に設置されている。
        
              「大雷神社祭礼相撲場跡」案内板
 
 古墳の前方部はやや平らな空間が見え(写真左)、案内板を照らし合わせると、そこが嘗て祭礼相撲が行なわれた場所ではなかったかと推測される。また前方部で祭礼相撲が行なわれたであろう場所の右側にも、やや平坦な場所が見える所も見えた(写真右)。

 相撲
の歴史は古く、『記紀』などにも見られ、神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展している。
 『古事記』国譲りの段において、出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決したり、『日本書紀』においては、第11代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争い、これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。
 元々は民俗学上すでに弥生時代の稲作文化をもつ農民の間に、豊作に感謝し、五穀豊穰を祈願する際に、吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされている。本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、皇極天皇の642年古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
 726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。
日本各地に残る古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲や地域農村における秋祭の奉納相撲も、また子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)等もその名残(なごり)の伝承であろう。
              
               石段途中にある「御神井敷地」碑
 神井の井戸は、現在は埋め立てられて川越カントリークラブ場内にあり「御神井史蹟」の石碑が建っている。

 大谷地域には山姫の伝説がある。
 雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く2本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは 1 本足で歩いて登らなければならず、その上 1 年に 2 度実を付ける栗の木の実を 17 個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。17 個と言う数はお姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を 17 個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙(ひきがえる)が食いついていました。若者はそれから33晩眠り続け目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は1本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。」

 一本足の
伝説は「一つだたら(ひとつだたら)」とも言われ、日本全国に伝わる妖怪の一種で一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。古来からの製鉄技法の一つである『たたら製鉄』は鉄が大陸から日本に伝ってきた時代からの製鉄方法で、砂鉄や鉄鉱石を原料に粘土製の炉で鉄を精製する方法である。
 たたら製鉄の工程は昼夜を通して数日間行われる。1400℃以上の火力を維持するために大量の風を送り込むが、吹子(ふいご)という人工的に風を送り込む道具を使っていて、足で吹子を踏むことによって大量の風を送り込むのだが、昼夜問わず数日感行われるため足を患う方も多かったようだ。同時にまた、火の様子も観察し続けなれけばいけないため、眼を患い失明する方も少なくはなかったという。
 このようなことからも一本ダタラが片眼・片足という理由は、たたら製鉄の過酷さを表しているのではないかと言われているが、伝承・伝説のみで、全てを結論付ける事は危険であろう。今後の考古学的な発見等から少しずつ判明出来ればと筆者は考える。

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