北吉見八坂神社
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見1640
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置する地域で、八丁湖公園や吉見観音(岩殿山安楽寺)が近隣にあり、どちらかといえば、上記の公園やお寺から東松山市街地方向に進む際の通過地点として位の認識しかなかった地域である。
北吉見八坂神社は、黒岩伊波比神社から一旦南下して埼玉県道271号今泉東松山線に合流後、東松山市方向に西行し1.8㎞程進むと、信号機のあるT字路の右側丘陵地端部に社の鳥居が見えてくる。
規模は小さい社であるため、隣接している社務所、駐車スペースはないため、社の境内の一角に停め、急ぎ参拝を行う。
北吉見八坂神社正面
県道沿いから仰ぎ見るような仰角で撮影。
丘陵地の端部ゆえにやや勾配のある石段を上ると神明系の鳥居があり(写真左)、その先に拝殿が見える(同右)。社殿は最近改築されている。なんでも数年前に不審火による火災があり、木造平屋の社殿を全焼したらしい。
拝 殿
八坂神社 吉見町北吉見一六四〇
大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置し、地内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)、新田義貞が築いたと伝える松山城跡(県史跡)があることで知られている。
当社の鎮座地は、氏子集落から離れた北外れにあり、昔は大変に寂しい所であった。また、裏手の丘陵は天王山の地名で呼ばれている。
『明細帳』に「創立ハ長保年中(九九九-一〇〇四)ナリト云伝フ」とあるが、『郡村誌』には「長保三年(一〇〇一)に創建し、元民有地たりしを、延宝六年(一六七八)社地となす」と載せる。
一方、口碑によれば、天王様は元は、大沢重夫家の屋敷の北側に祀られていたという。これは、本来当社が大沢家の氏神であったことを物語るもので、『郡村誌』に見える社地の変遷の記事は、同家の氏神から村の鎮守となった経緯を示すものと考えられる。ちなみに、同家は氏子集落の中央に居を構え、当主で一五代を数える旧家である。
明治四年に村社となり、同四十年に字九ノ地の庚申社、字八ノ耕地の稲荷社、字五ノ耕地の愛宕社・春日社の無格社五社を合祀した。昭和六年の社殿再建に際し、参詣の便を図り集落の中央に遷座しようとの声も上がったが、実行に移されず現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
境内に鎮座する境内社
境内の様子
北吉見八坂神社前には「北向地蔵」といわれる寛政4年(1792)銘の地蔵尊があり、岩室観音・比企観音(岩殿観音正法寺)・吉見観音への道しるべを兼ねた地蔵尊である。
北向地蔵 案内板
北向地蔵
北向きに建っているので北向地蔵という名がある。
光背型浮き彫りの立像で、台石裏面には「高野山山中嶌坊内良順建焉 寛政四壬子稔四月吉祥日」とある。
また、台石左側面には「此方いわむろ山くわんおん道、弘法大師開基、松山へ行ぬそ」とある。
台石右側面には「此方ひきくわんおん江」とあり正面には「此方よしみくわんおん道十二丁」とあり、道しるべにもなっている。
むかしからこの土地の人々の信仰を集めているが、特に観音霊場めぐりの巡礼たちの信仰を集めてきた。
今はこの地蔵を信仰すると占いがよく当たるというので、占師の信仰が厚いといわれている。
案内板より引用
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等