間々田稲荷神社
また「くまやく健康だより 第47号」で「妻沼の地名」由来を紹介され、そこに「間々田」は、地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。どちらにしても、利根川という大河川の影響を受けていて、地名の由来も河川による浸食等で出来た地形を表現している事には変わらないようだ。
「新編武蔵風土記稿」幡羅郡の間々田村の項には「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸九十八、東西十八丁余、南北十五丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」と書かれていて、間々田地域も、前項「出来島」地域同様利根川によって南北を分断されている地域である。
・所在地 埼玉県熊谷市間々田248
・ご祭神 大日孁貴命 豊受姫命 素戔嗚命
・社 格 旧村社
・例 祭 初午 2の午、9月9日 祈年祭 2月18日 例祭 4月18日
新嘗祭 11月25日
間々田稲荷神社は妻沼台白山神社・鎮守男沼神明宮の西側、出来島伊奈利神社の南方にあり、周囲一帯田畑風景が続く中に、南北200m程、東西130m程の狭い空間の中、社を中心として集落が形成されている。正に「鎮守様」といった趣がこの社には感じる。
途中までの経路は鎮守男沼神明宮を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線から「熊谷市消防団男沼分団」が右側斜向かいに見える十字路を左折して、道なりに西行する。辺り一帯の田畑風景を眺めながらも、やや正面に見える集落を目指すと、昔ながらの防風林に囲まれた住居が立ち並ぶ中、正面に間々田稲荷神社の鳥居が見えてくる。
社に隣接した左側には間々田コミュニティセンターがあるので、そちらの前に駐車してから、参拝を行った。
社の西方向で、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線沿いには社号標柱が立っている。
写真では道路の遥か先に間々田稲荷神社の社叢林がみえる。
稲荷神社正面
一の鳥居は石製の明神鳥居、すぐ先に続く二の鳥居は朱を基調とした同系鳥居で、白と赤のコントラストは見た目も美しい。
社の境内にも言えることだが、正面付近の手入れも行き届いていて、ゴミ一つない。周面住民の方々の日々の努力には頭が下がる思いがする。
境内の様子
高台の上に社殿は鎮座。古墳、又は塚の可能性もあるというが、詳細は不明。
拝殿に通じる石段の手前で、右側にある巨木。
この社周辺にはこのような巨木・老木が多い。
拝 殿
間々田稲荷神社の例祭である初午には、神社境内にて万作踊りが奉納されていた。江戸時代末期から明治・対象・昭和と長年に亘り、この地域内行事として万人に親しまれてきたという。この万作踊りは、大東亜戦争時の昭和15年から平成元年まで中断されていたが、平成2年に復元し、同年熊谷市指定文化財に指定され、現在は地域で継承されている。
「間々田万作おどり」 熊谷市指定無形民俗文化財
・所在地 間々田
・所有者(管理者) 間々田万作おどり保存会
妻沼地域の間々田にある伊奈利(いなり)神社の祭礼(初午(はつうま))の当日、神事の後の奉納行事として踊られます。利根川の水運にも恵まれ、養蚕や米麦などの豊な生産地であった間々田では、五穀豊穣(ごこくほうじょう)への祈りと、収穫の感謝を込めて、万作踊りが継承されています。
江戸時代から始まった踊りも、戦後において一度途絶えたことがありましたが、保存会によって復活し、今に至っています。
太鼓や四(よ)つ竹(だけ)を用いての「手踊(ておど)り」や「手拭(てぬぐ)い踊り」は、老若男女を問わず地元の人々に親しまれています。
・指定年月日 平成2年4月1日
「埼玉県県民生活部文化振興課HP」より引用
参道を中心にして、左右共に高台の斜面上に立ち並ぶ幾多の霊神の石碑の数々(写真左・右)。参道に対して左側斜面上には「合祀碑」もある(写真左、中央部)。
石碑の中には「豊斟渟尊・国常立尊・国狭槌尊」等彫られている神様もあり、おそらくこの斜面は御嶽塚も兼ねていると思われる。
社殿のある高台の左手には境内社が鎮座している。高台下で、左隣に鎮座する「蚕影神社」(写真左)。蚕影神社の左側並びに長屋風に鎮座する「神輿庫」「湯殿神社」「秋葉神社」「八坂神社」(同右)。
「大里郡神社誌」には境内社・蚕影神社に関して「境内末社 蚕影神社は天棚機比咩を祀れり又御名は天萬拷幡比賣命は天祖大日孁貴尊の神勅を遵奉して天の神機殿に奉仕られ機業祖神の一柱に坐し」と記載されていて、実際近年まで養蚕が氏子の主要な収入源であったことから、養蚕の無事を願う氏子の気持ちに切実なものがあり、折節に祈願が行なわれていたという。
鳥居を過ぎて左側には猿田彦大神の石祠、奉納庫、詳細不明な石祠あり。
境内の一風景
「大里郡神社誌」によると間々田稲荷神社に関して以下の記載がある。
「明治五年九月入間縣に於て村社に列せられたりき、その鎮座の御代年月は傳へなければ詳かならざるも令義解和名妙武蔵風土記稿にも伝へるが如く幡羅郡或いは原郷に作りて間々田は長井庄に属して古来よりの名地なりけり古より同村小字伊勢といへる所に神明の鎮座ましまして大日孁貴尊を齋奉り小字伊奈利臺に豊受姫命を祀奉りき、こは神風の伊勢国内外の神宮の大神等を齋奉りて往古此地を開拓せしとなむまた月読神社と同神なる小字天神坪鎮座ましまし素戔嗚命をも合祀りし御社にして地名も幡羅郡永井の庄なるからに間々田と命名せしものならむ間々田は甘味田にて瑞穂の国の八束穂の稲また麦豆の熟廣成れるを壽詞し嘉名けらし(中略)
此間々田の伊勢内外の神にはいとふかき所縁ある神社にて妻沼の神社と共に古社なること論なかるべし(以下略)」
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉県県民生活部文化振興課HP」
「くまやく健康だより 第47号」等