古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

南吉見羽黒神社

 武州松山城は、荒川の支流・周囲は市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれていて、比企丘陵の西端に築かれており、ここから東部および南部一帯は関東平野となって一面の低地が続くところである。城下を流れる市野川は城の北側から西側を廻りこみ丘陵の裾を削り取っているため、標高59mの丘陵の裾に位置する松山城跡の北側と西側には断崖絶壁を形成する部分が見られる。三方を市野川によって囲まれ、「流川の城」と呼ばれる松山城は、戦国期に幾度もの攻防戦がおこなわれており、北武蔵地方で屈指の平山城であった。
 松山城の縄張りは、『天正庚寅松山合戦図』によって最終形の姿を知ることができる。これによると、城域は龍性院(吉見町北吉見)の南側の谷を北の境とし、大沼のある谷を東の境、羽黒神社(吉見町南吉見)の北裏の谷を南東の境とする東西700m、南北550mほどの大規模な城郭であったと考えられる。市野川に突き出た部分から笹曲輪、本丸(本曲輪)、二の丸(二ノ曲輪)、春日丸、三の丸(三ノ曲輪)、広沢曲輪と南西から北東に向かって連郭式に配置され、その両側に太鼓曲輪、兵糧倉(兵糧曲輪)、惣曲輪など、大小さまざまな曲輪や平場が存在する。一方、松山城跡の西方は外秩父山系の丘陵地帯であり、松山城跡とともに戦国期に築城された青鳥城跡・杉山城跡・小倉城跡・中城跡・腰越城跡・安戸城跡などの多くの城館跡が存在する。

 松山城の東側境に鎮座する南吉見羽黒神社は、松山城主難波田弾正入道善吟が松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建、天文15年(1546)河越夜戦の戦闘で敗れて難波田氏は扇谷上杉氏と共に滅亡したという。当社は慶長6年(1601)の廃城に至るまで城内に鎮座していたものの、その後村民により本丸の東方に当たる当地に鎮座、江戸期には流川・根小屋・柚澤・土丸・新宿の鎮守として祀られていた。明治4年村社に列格、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀している。
               
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町南吉見257
            
・ご祭神 羽黒権現(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 不明 

 南吉見羽黒神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「百穴前」交差点を左折、道路は信号のあるT字路に達するため、そこを右折する。市野川に架かる市野川橋を越えると正面やや左側には「武州松山城」址の小高い山が目の前に広がり、山裾には「岩室観音堂」も見える。お堂の西側には「吉見百穴」もあり、歴史の息吹を感じさせてくれる場所でもある。この地域から南側には八王子街道や鎌倉に続く道があり、文字通り「交通の要衝の地」ともいえる。
               
                               道路からやや奥に見える鳥居

 市野川を越えて道なりに真っ直ぐ進む。松山城址先の丘上には「武蔵丘短期大学」が並び、そこを暫く進むと、左側に社の旗を掲げる1対のポールが見え、その下には鳥居も立っている。但し道路沿いで民家が立ち並ぶ中で、舗装されていない参道の奥に鳥居がポツンと立っていて、良く確認しないとそのまま通り過ぎてしまうような場所である。車のナビも周辺地域まで誘導してくれるのみ。周辺は交通量も多い場所でもあり、学校も隣接しているので、周囲の道路事情や、歩行者にも気を付けながら何とか到着できた。
               
                    一般道路から参道は伸びており、その先に鳥居がある。
           
               鳥居の手前右側に聳え立つご神木
               
                  南吉見羽黒神社鳥居

 交通量の多い道路から僅かしか離れていないにも関わらず、鳥居を越えて石段に入ると雰囲気が 急に変わる。なんとも言えない独特の雰囲気のある社。

〇新編武蔵風土記稿流川村条
 流川村は江戸より行程十四里、元来此所は松山城附にて、落城の後十一年を経て草創せり、始は比企郡に属して松山庄なりしが、正保四年村を二つに分ち、北の方を当郡に属し、南の方は比企郡たる事元の如しと云傳へり、されど既に久米田村の條に紀せし如く、当村正保改の頃までは、久米田村の内にして(中略)四隣東は久米田村に隣り南は市ノ川を隔て比企郡滝川・柏崎の二村に界ひ、西は同郡松山町の新川字新宿に續き、是も市ノ川を界とす、北は土丸村に接す、東西凡九町、南北六町許、水利不便にして早損がちの地なれば、村の中央に溜井を設て便とす、是当村及土村・根小屋・柚澤四ヶ村の大溜井なり
・市ノ川
 村の南西を流る、幅八間許、此川に口間許の石橋を架す
・羽黒社
 北の方なる山上にあり、當村及根小屋・柚澤・土丸の鎮守なり、社地に古松ありて、頗る佳景の地なり
・別當妙楽寺
 新義眞言宗、御所村息障院の末、松榮山と號す、本尊薬師を安ず
・首塚。社の傍にあり、松山落城の時、死者の遺骸を埋し塚と云
・諸口明神社
 金毘羅権現を相殿とす古兩頭の蛇を祀し故、諸口明神の號ありと云、これも長源寺の持
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 
  鳥居を過ぎると長い石段のスタートとなる。    石段の間には踊り場が何カ所かあり、最初
                        の踊り場で右側には石祠等が祀られている。
 
         筆者にとって直線的な石段は那須温泉神社境内社・愛宕神社以来である。
 
 南吉見羽黒神社が鎮座する地は標高47m程の丘である。鳥居付近が17mの標高であるので、実際は30m程しか標高差はないのだが、社殿まで一直線の石段が続き、200段程。勾配もかなりのもので、意外ときつく、途中踊り場で休憩をとりつつ、やっと社殿まで到着できた。
               
                                       拝 殿

 羽黒神社 吉見町南吉見五七
 大字北吉見にあった中世の山城である松山城は、県内の城館跡の中では最も多数の記録が残っており、幾多の合戦の舞台として登場してきた。
 当社は天文年間(一五三二-五五)に難波田弾正入道善吟によってこの松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文六年(一五三七)に河越城主であった朝定が北条氏康に攻められ、松山城に逃れた時、難波田氏は朝定を守って戦った。しかし、河越城の奪回を目指した天文十五年(一五四六)の河越夜戦の戦闘で敗れ、難波田氏は主家の扇谷上杉氏と共に滅亡した。
その後も当社は慶長六年(一六〇一)の廃城に至るまで城内にあったが、その後村民により本丸の東方の現在地に移されたという。
 宝永六年(一七〇九)の棟札には「奉造営羽黒山大権現鎮座□五箇村氏子繁昌諸願成就所・別当明楽寺秀英」「武州横見郡下吉見領之内流川村・根小谷村・湯沢村・土丸村・新宿村」とあり、当時は五か村の総鎮守であったことがわかる。なお、これに見える別当明楽寺は真言宗の寺院で、当社参道入口の左手に堂を構えていた。
 明治四年に村社となり、同三十九年に本殿・拝殿を改築し、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
   
      拝殿に掲げてある扁額          社殿の左側に鎮座する境内社
                            三峯神社であろうか

 ところで南吉見羽黒神社は松山城主難波田弾正入道善吟が武州松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建したという。この難波田 隼人正(なんばだ はやとのしょう 生年不詳 -〜没年・天文6年(1537年))は、戦国時代扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。
 難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。
 南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応21351)年1219日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。
               
               帰路も下りの石段が待ち受ける。
          登りの時とは違う筋肉を使用するので、意外とつらい。

 戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。天文61537)年427日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。
                  
 その後『快元僧都記』天文6722日条に「難波田弾正入道善銀甥同名隼人佐広儀并子息三人打死、都鄙惜之」と記述がされている。これは同年に上杉朝定が北条氏綱によって河越城を奪われた際に善銀(正直・憲重)の甥である隼人正および3人の息子が戦死したという
        
その9年後後河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲する。世に名高い「川越城の夜戦」である。翌天文151546)年420日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げたという。

 難波田弾正憲重は扇谷上杉家中きっての文武兼ね備えた勇将で、扇谷上杉氏の柱石とも言える存在であった。北条氏綱に河越城を追われて追い詰められた若き主君、扇谷上杉朝定を守って闘った松山城攻防での「風流歌合戦」など、いかにも坂東武者らしいエピソードが残る。その難波田弾正も、扇谷上杉氏が滅亡し、関東管領上杉憲政が関東を追われるきっかけになった運命の「河越夜戦」で、古井戸に落ちて討ち死にするという、なんとも痛ましい最期を遂げている。滅びゆく関東の旧勢力に殉じて散っていった難波田弾正は「誇り高き最後の坂東武者」の一人だったかも知れない。
               
                          鳥居の先には市野川の土手が広がる。

 山岳修験の神である「羽黒」を冠しているが、地主神として本来は「別の神様」を祀る神社だったかもしれない。確認は取れていないが、吉見の昔ばなしでは、お羽黒さまは大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目になってしまったので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされているという。
 なかなか複雑な過程を経て、今の地に鎮座している社ではあるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見の昔はなし⑥」「
Wikipedia」等
 
 

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