古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三山古鷹神社

「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などの作品で有名な詩人であり、童話作家でもある宮沢賢治は、大正51916)年95日に小鹿野町を訪れている。
 盛岡高等農林学校の2年(20歳)の大正593日から8日までの間(推定),関豊太郎教授(1868-1955)の引率で,秩父の地質巡検(見学旅行)に来ている。元々小さいころから岩石・植物・昆虫などに興味を示し、特に岩石が好きな賢治は、家族から「石こ賢さん」とあだ名をつけられている。当時の秩父地域は,明治341901)年,神保小虎(1867- 1924)が「我が国の地質学者が一生に必ず一度は行きて見るべき」と記した、巡検案内が地質学雑誌に載り、全国の地質学徒が訪れる、巡検の聖地となっていた。
 この見学旅行では、92日に出発し、熊谷、寄居、皆野町と宿泊し、94日には皆野町金崎地域を見学、その後馬車に乗り,正午前に小鹿野町に到着,午後,皆本沢から赤平川を見学している。
 宮沢賢治短歌群「唄稿A」には「小鹿野」と題し、「さはやかに半月かゝかる薄明の秩父の峡のかへり道かな」という短歌がある。これらは、94日小鹿野町三山の皆本沢から赤平川の地層を観察し,寿屋に向かう途中の情景を詠まれたものと考えられている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町三山1195
              
・ご祭神 日本武尊 建御名方尊
             
・社 格 旧三山村小名間明平鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 3月第2日曜日 例大祭 10月第1土曜日
                  
秋祭り 11月第3日曜日
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.0339957,138.928443,16.29z?hl=ja&entry=ttu
 飯田天満神社から一旦南下して国道299号線に合流し、そこを右折し赤平川左岸に沿って西行する。陽光差し込む夏空の元、秩父山系の緑豊かな風景を愛でながら進むこと5㎞程、目の前に山々の緑林とは違った雰囲気のある林が見え、その林の中でも一際目立つ、数本の大杉が聳え立っている。その場所こそ今回の参拝地である三山古鷹神社である。
「三山」と書いて「さんやま」と読むのだが、この周辺の白石山・八日見(両神)山・二児(二子)山を合して三山と称し、これが地名の由来となっているようだ。
        
                  
三山古鷹神社正面
『新編武蔵風土記稿 三山村』において、当村に関して以下の記載がある。
 三山村は郡の西にあり、矢畑の庄に屬す、四此東は上飯田村に續き、西は河原澤村に隣り、南は薄村に接し、北は藤倉村に界へり、東西二里に餘り、南北一里許、東西の隣村へは谷間續き、南北の方は山々連り山の頂を界となせり、民戸は三山川の左右、或は山根によりて二百八十五烟所々に散在せり、男は農隙に山稼をなし、女は蠶を養ひ、紡績し、絹・紬・横麻等を織ことを成業とす、
 水田は僅にして、陸田多く山林は尤多し、村内山澤より出る溪流を水田の便とす、土症砂土眞土、或は赤黑野土等なり、土産には絹・煙草を第一とし、大豆・菎蒻是に繼ぐ、
 またこの地域は、古来から秩父より上州(群馬県)を結ぶ街道沿いにあり、信州へも通じていて、人馬の往来が多かったという。
 村内に一の街道かゝれり、東の方上飯田村より来り、二里許にして西の方河原澤村に達す、道幅凡六尺、此街道は上州甘樂郡山中領にかゝり、信州への道なり、

 因みに三山古鷹神社が鎮座している地は、嘗て小名「間明平」と称していた。読むことが難しい難解地名の類となるが、「武蔵志」には「「字間明平・マミョウタイラ、一村の如し」と記されていて、「まみょうたいら」と読むようだ。
 この「間明平」の地名由来は正直分からない。但しこの三山地域には「半平」「挮木平」「桃木平」「軍平」と「平」を共有している小名もあり、地形上の名称由来の類とも考えられる。
         
          鳥居の右隣にある案内板     案内板の並びに社号標柱あり
 
 鳥居を過ぎて、参道を進むとすぐ左側に詩人・童話作家として名高い宮沢賢治の歌碑(写真左)と案内板(同右)がある。なんでも賢治が盛岡高等農林学校に在籍していた、大正5年(1916)の秩父地質巡検(見学旅行)で当地に訪れていたということだ。
*写真左歌碑
霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち 宮沢賢治
同右案内板
岩手県花巻市生まれの詩人・童話作家として名高い宮沢賢治が盛岡高等農林学校二年生の時関豊太郎教授に引率されて地質調査の目的で秩父地方を訪れたことは早くから知られている
平成二十三年に発見された旧本陣寿旅館館主田隝保日記によって宮沢賢治が同旅館へ宿泊し皆本沢へ向かったことが判明した
これを記念して皆本沢近くに賢治一行来訪時の様子を彷彿させる新たな歌碑を建て賢治がこの地を訪れ優れた歌を詠み遺したことを永く後世に伝え先に建立した歌碑(三基)詩碑とともに 町の教育・文化の向上と観光の振興に寄与する目的で小鹿野町と 有志の浄財により歌碑を建立する
本碑の建立は株式会社田嶋造園土木より碑身の寄贈を受け古鷹神社の御好意により宮沢賢治小鹿野町来訪百年及び生誕百二十年を記念して行った(以下略)

       
  鳥居を過ぎるとすぐ目の前に2本の大杉が参道左側に並んで聳え立っている(写真左・右)。
             
                鳥居から大杉方向に撮影
              天空に聳え立つかのような大杉の威容
        
                    拝 殿
        社殿は「三角山」と称する小高い山を背にして鎮座している。
 古鷹神社 御由緒  小鹿野町三山一一九五
 ◇日本武尊を祀り古代上州との往来をうかがわせる
 当社は三角山と称する神名備 (神体山)を思わせる小高い山を背にして鎮座し、境には杉の大木が並び立ち、鎮守の杜にふさわしい景観を見せている。
 創祀については、口碑に「名主を務めていた斎藤家の氏神として祀られたことにはじまる」とある。この斎藤家は鉢形城主・北条氏邦の家臣だが、天正十八年(一五九〇)当地に落居したと伝える家柄で、氏邦の感状を所蔵している。
 本殿の造営について棟札に「奉建立小鷹大明神 宝暦十歳庚辰 八月吉日 当村名主斎藤儀右衛門」とあり、口碑との関連が窺える。
 当社は戦前まで「お諏訪様」とも呼ばれて、『新編武蔵風土記稿』にも「諏訪社 例祭七月二十五日 小名間明平の鎮守」とある。「こたか」の社名は埼玉では珍しいが、隣接する群馬県に多くあり、小高あるいは武尊と当てている。
 明治二年(一八六九)には諏訪社 (小鷹大明神)の社号を現行に改め、同五年(一八七二)村社となる。
 当地は往古より秩父と上州(群馬県)を結ぶ街道沿いにあり、人馬の往来が多かった為、この街道を経て入ってきた上州文化の影響で社殿の裏に神秘的な山頂()を立てる三角山の信仰が伝えられたと考えられる。(以下略)
                                      案内板より引用

       
        社殿の左側にもご神体と思われる大杉が聳え立つ(写真左・右)。
              
 鳥居を過ぎた先にある2本の杉と、社殿左側にある杉を加えたこの3本の杉は、小鹿野町指定天然記念物となっていて、その記念柱も立っている。
            小鹿野町指定天然記念物 古鷹神社の杉 3
                 昭和48110日指定
 
 社殿左側に祀られている境内社等、詳細不明。       神楽殿(歌舞伎舞台)
 この歌舞伎舞台は昭和初期の建造で、二重舞台や奈落・花道を具え、客席は約50坪、天井の高い木造平屋建、両側に桟敷(さじき)席が付いている。昭和時代、地芝居が華やかだった頃の熱気や雰囲気を感じさせてくれる建物である。
        
                 社殿方向からの一風景
            町指定天然記念物の杉の大きさが良く分かる。

 
 古鷹神社の右側隣に招魂祠が祀られている。         招魂祠



参考資料「新編武蔵風土記稿」「小鹿野町HP」「西秩父商工会HP」「ジオパーク秩父HP
    「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」等

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飯田天満神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田815
             
・ご祭神 天穂日命 菅原道真公
             
・社 格 旧下飯田村松坂鎮守
             
・例祭等 例大祭 225近い日曜日 秋祭り 8月最終日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0341131,138.9825815,17z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿神社の大鳥居が見える国道299号線を西行し、「黒海土バイパス前」交差点を直進し、400m程先の左方向へカーブし終えた三叉路を右斜め方向に進む。その後120m程先の路地を右折し、そのまま進んでいくと、「天満神社」と刻印された社号標柱が正面に見えてくる。
社号標柱の手前には駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                         社入り口に設置されている社号標柱
『日本歴史地名大系』 「下飯田村」の解説
 赤平川左岸の山間地に位置し、西は中飯田村、東は上小鹿野村、南は赤平川を境に薄(すすき)村(現両神村)、北は上吉田村(現吉田町)。上小鹿野村からの往還が村内を横断し、中飯田村に向かう。元文五年(一七四〇)それまでの飯田村が上・中・下の三ヵ村に分立して成立した(「風土記稿」「郡村誌」など)。
 しかし郷村帳類では分村後も飯田村一村で高付されることが多かった。田園簿では飯田村として高五〇七石余・此永一〇一貫四一七文とある。天保郷帳では飯田村の高は四三八石余。飯田村は元文四年まで幕府領。同年、当村の村高一四〇石余のうち七七石余が旗本深津領となり、明和二年(一七六五)残余の高六四石余が旗本松平領となって、両者の相給で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。

 
 社号標柱左側に見える舗装されているが道幅が狭いゆるやかな勾配のある上りの道路を徒歩にて進む(写真左)。この道も参道であったのだろう。参拝時期は7月上旬の本格的に暑さが強まる晴天での参拝であったが、小道の両側には林の緑が勢いよく生い茂り、緑の木陰がこの周辺の気温を抑えてくれる効果があるようで、歩いていても心地よい。そのような気持ちに浸りながら進んでいくと、ほどなく飯田天満神社の鳥居に到着する(同右)。
 細い路地の先にあるためか、あまり目立たず、静かに地域住民を見守っているという印象。
        
                        城を思わせるようながっしりとした石垣
                  石段上にある鳥居
        
                       石段の手前で左側に設置されている案内板
 天満神社  御由緒 小鹿野町飯田八一五
 ◇古くは末社の諏訪社が松坂の鎮守であった
 当社は飯田の一耕地である松坂の北端の高台に耕地を見下ろすように鎮座している。境の裏には吉田町の上吉田へ通じる峠があるが、この峠は当社に因み天神峠と名付けられている。創建は「正遷宮 謹請天満宮鎮座守護」とある棟札の年紀によれば文化四年(一八〇七)であり、以来、松坂耕地の鎮守として厚く信仰されており『新編武蔵風土記稿』にも「例祭正月二十五日、七月二十五日小名松坂の鎮守なり、村持」と記されている。また末社として、伊勢太神宮が安政二年(一八五五)、産泰社が明治四年(一八七二)に勸請され、今日に至っている。
 一間社流造りの本殿には天神座像が納められている。杉木立に囲まれた境内には、社殿のほかに「お日待堂」と呼ばれる社務所や、神楽殿をはじめ、末社(前記二社および諏訪社、但し産泰社は稲荷社との合殿になっている)などがあり、道真公ゆかりの「飛梅」の故事に倣って梅の木も植樹されている。
 なお、創建の年代が比較的新しいことと、現在は末社の一つとして祀られている諏訪社が古くから大切にされていることから、往古は諏訪社が松坂の鎮守であったと伝えられている。
 ◇御祭神
 天穂日命 菅原道真公
 ◇御祭日
 ・例大祭(二月二十五日に近い日曜日)
 ・秋祭り(八月最終日曜日)
                                      案内板より引用
        
                           数段の石段を登り終えると社殿に達する。
         境内の回りには深き森に囲まれていて、気持ちも和む社。
        
         鳥居を過ぎてから石段を登ると参道左側に見える神楽殿。
        
                    拝 殿
 創建時期は「正遷宮 謹請天満宮鎮座守護」とある棟札の年紀によれば文化四年(一八〇七)であり、それ程古いわけではないが、社に漂う雰囲気は、かなり歴史の深さを感じる。
 
   社殿の左側に祀られている境内社           境内社内部
 境内社内部には、左から「伊勢大神宮」「稲荷神社」「諏訪神社」が祀られている。
 創建の年代が比較的新しいことと、現在は末社の一つとして祀られている諏訪社が古くから大切にされていることから、往古はこの諏訪社が松坂の鎮守であったともいう。
        
                  拝殿からの一風景

 ところで、飯田天満神社のすぐ西側には「光源院」という寺院がある。『新編武蔵風土記稿』によれば、「坂松山と號す、曹洞宗、甲州山梨郡落合村永昌院の末なり、天正十九年十一月寺領三石の御朱印を賜ふ、本起立し、元亀二年四月廿三日示寂す、末寺二十五ヶ寺あり、」とあり、そのあと、「高札」の掲載がある。
高札 高源院
 當手甲乙之軍勢、於于彼寺中不可亂妨狼藉、若背此旨者可被行罪科者也、仍如件、
 永祿十三年庚午二月十八日
  山県三郎兵衛尉奉之」
 この「高札」は「武田の高札」といわれ、本高札は、武田軍の高源院(光源院)に於ける乱妨・狼藉を禁じ、背いた者を罪科に処するという掟書きである。永禄13年(1570228日の日付と武田家重臣山県三郎兵衛の名が記され、二重円の中に龍を描く武田家の朱印がある。また光源院は武田氏重臣逸見氏が開基と伝わる。(縦30.2cm、横40.4cm軸装)。
 この「高札」は、小鹿野町・町指定有形文化財[古文書]で、昭和34824日指定を受けている。
 小鹿野町のこのような辺境の地においてにも、このような戦国時代の歴史の一端を示す文献・資料が存在する。不思議なものである。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「現地案内板」等




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長留松井田琴平神社

 大物主神は、記紀の神話にみえる神で、「国津神」の代表的存在で国譲り後たくさんの国津神を率いて皇孫を守った等、多くの説話をもつ。大物主神の神名の「大」は「偉大な」、「物」は「鬼、魔物、精霊」と解し、名義は「偉大な、精霊の主」と考えられている。
「古事記」神武段では美和の大物主神と記され、大神(おおみわ)神社の祭神とする。御諸(みもろ)山(三輪山)の神として海上から来臨し、大国主神の国造りに協力した。「日本書紀」一書では大国主神の別名とし、「出雲国造神賀詞(かんよごと)」では大己貴神の幸魂・奇魂とされる。崇神(すじん)天皇のとき祟り神として現れ、また丹塗矢・蛇・雷などとして顕現してもいる。
 後代において、明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の「金刀比羅宮(琴平宮)」は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して「金毘羅三輪一体」との言葉が残る大物主を正式な祭神とされたという。
 長留地域の鎮座する松井田琴平神社のご祭神も、勿論「大物主神」である。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3211
            ・ご祭神 大物主命
            
・社 格 旧村社
            ・例祭等 例大祭(松井田神楽) 44
  地図 https://www.google.com/maps/@36.010904,139.0422431,17.08z?hl=ja&entry=ttu
 下小鹿野八劒神社から国道299号線を東行する。1.4㎞程先で、南北に流れる赤平川を渡り、そのまま道沿いに右カーブして、東方向から南方向に向きが変わった地点左側のなだらかな斜面上に長留松井田琴平神社は鎮座している。
 社の南川には「長若一区集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
            
             国道沿いに鎮座する長留松井田琴平神社
『日本歴史地名大系』 「長留村」の解説
 [現在地名]小鹿野町長留
 赤平川支流長留川流域の山間地に位置し、西は般若村、東は別所村・田村郷(現秩父市)、南は久那村(現秩父市・荒川村)など、北は下小鹿野村など。三峰に向かう道が長留川に沿い南北に通り、下小鹿野村と秩父大宮(現秩父市)を結ぶ道が村の北部を横切る。
 慶長三年(一五九八)の地詰帳(坂本家文書)では「秩父郡長留之郷」とみえる。また慶安五年(一六五二)の検地帳(同文書)では「長留上郷」「長留下郷」とあるが、「風土記稿」などによると村内は長留川の上流から上・中・下の三郷に分れていた。
 因みに、地域名「長留」は「ながる」と読む。この地名の由来は『新編武蔵風土記稿』においても「村名の起こりを詳にせず」と記載されていて、筆者も出来得る限り調べてみたが、結局は分からなかった。不思議な地域名だ。
 1889年(明治22年)41日、町村制施行により、長留村・般若村が合併して秩父郡長若(ながわか)村が成立、その後、1955年(昭和30年)41日に小鹿野町と合併し小鹿野町を新設したという。
            
           石段を登って行く目線の延長線上に社殿が見える。
        社殿までにもう一段高い場所に鎮座していることを直感で感じた。
            
                石段上に鎮座している社殿
          境内は夏時期にも関わらず、綺麗に手入れされている。
          陽光もたっぷりと差し込み、参拝も気持ちよく望めた。
        
                                       拝 殿
       
          拝殿上に掲げてある扁額     境内に設置されている案内板
 琴平神社の由諸
 御祭神 大物主命 何事も願えば叶えてくれる神
 御創立 天保十年十月十日
 沿革
 松井田耕地が 上下に分かれ対立していることを憂えた有志が計って 天保十年十月十日 琴平山の山頂に社殿を造営し(何事も願えば叶う)といわれる琴平の神を勧請し上松井田下松井田の総鎮守としたのが始まりという 口碑によると 琴平山は古くは(山の神山)と呼ばれ その昔大きな山津波があり 山頂に大きな瘤が生じた 村人はこれを山の神の仕業だとして小祠に祀ったという これは当社の勧請後 攝社となっている山野神社である 山頂では不便であるとの理由から 拝殿の造営を企画し 山野神社々地(現在地)に昭和十一年三月新築工事完成する
 上松井田の守護神 聖天様が明治二年の神佛分離により琴平山頂に遷座されていたが その後新社殿が造営され 元の地に遷座されたので 山頂の旧聖天宮を本殿として移築し 御祭神 大物主命が遷座し給う その後昭和四十五年 麦藁葺きの拝殿 神楽殿の屋根を亜鉛鍍金鉄板(トタン)屋根に改修する
 境内神社  御祭神
 山野神社  大山祇命 山の御神霊 無限の山の幸を恵み給う
 秩父大神社 八意思兼命 政治 学問 工業 開運の神
       
知知夫彦命 地方 郷土 開拓の神
 八坂神社  素盞鳴命 勇猛で情が厚く悪疫除けの神
 棚機姫神社 棚機姫命 織婦の神
 神日本磐余彦神社 神武天皇 我が國肇國の神
 大雷神社  大雷命 かみなり除けの神
       高龗命 雨乞いの神
       大山祇命
       八雷神
 明治十一年夏から毎年の旱魃で田畑は乾き果てた これを憂えた農民達は雨乞い祈願を思いたち 当時有名な群馬県佐波郡赤堀村(現在の赤堀町)西久保八五十九番地 大雷神社の御分霊を 明治十四年六月二日 琴平山の山頂に社殿を造営して勧請した それから夏の日照りには農民は山頂に登り雨乞い祈願を行なったところ その度ごとに雨が降ったので 松井田の雷電様と稱し農民の作神様として有名である(以下略)
                                       案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 長留村』には、「山神社 村民持」しか記されていない。このようなしっかりとした由緒書きがされている案内板があると、大変ありがたい。
            
            拝殿の左側に祀られている境内社・合祀社
 案内板に記されている「山野神社・秩父大神社・八坂神社・棚機姫神社・神日本磐余彦神社・大雷神社」等であろうか。
        
                 境内にある神楽殿
 長留松井田琴平神社では毎年4月4日の祭りに、「松井田の神楽」が奉納される。松井田太々神楽とよばれる。明治23年頃から、吉田町井上の貴布弥神社神楽から教えを受け、現在まで伝えられている。神楽の構成は18座あり、楽は大太鼓、小太鼓、鼓、笛からなる。神楽面や衣装は、平成11年に新調されたという。
        
           境内に設置されている「松井田神楽」の案内板
 小鹿野町指定無形民俗文化財  
 松井田神楽
 昭和五十五年四月十八日指定
 天保十年(一八三九年)の創立という琴平神社の祭礼は毎年四月四日で、神楽殿では神楽が奉納される。
 明治十四年(一八八一年)雨乞いの神社として知られる群馬県赤堀村の大雷神社を勧請した後、雨乞い祈願を行うことが多かった。以来、松井田の雷電様として親しまれ、祭礼が盛んになっていったという。
 明治二十一年頃は、秩父市大田の熊野神社神楽を頼んでいたが、明治二十三年頃から吉田町井上の貴布祢神社神楽師から神楽を習ったと伝えられ、現在、十八の座が伝承されている。神楽を舞う人々の熱意は高く、後継者への受け継ぎも盛んである。
 地元の小中学生は小さいうちから練習にとり組み、祭礼には熱心に神楽を舞っている。
 平成二十八年四月吉日(以下略)
                                      案内板より引用

       
              境内に聳え立つ巨木(写真左・右)

 話は変わるが、長留地域の北端、赤平川右岸には、「ようばけ」と呼ばれる白い岩肌を見せる大きな崖がある。この崖は、「古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群」(国指定天然記念物・平成283月指定)の6つの露頭のうちの1つであり、「よう」は 巌(岩)(いわお→よう)、「はけ」は崖のことで、岩の崖という意味で、また「よう」は夕陽のあたる様子だという説もある。
 この崖は,奈倉地区をとり囲むように曲流する赤平川の浸食を受けてできた、高さ約100m・幅約400mの大露頭で、秩父盆地の基盤をなす海成層(古秩父湾堆積層)を広く観察でき、カニ化石の産地として知られている。
 ようばけの地層は今から約15001600万年前(新生代新第三紀中新世)の海底につもったもので、当時は日本海が誕生し、日本列島の大部分は海となり、暖流に洗われていた。その後、現在の地形が形づくられてくる過程で陸地となり、地層は傾き、川に侵食されて、地層が現れたという。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「山川 日本史小辞典 改訂新版」
     「Wikipedia」「境内案内板」等

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般若秩父大神社

 法性寺は、曹洞宗派の寺院で、奈良時代、行基によって開山されたといわれている。行基は当地で観音菩薩像を彫り、岩場に安置した。これが当寺の起源である。その後、延暦年間(782年- 806年)に弘法大師空海が大般若経600巻を奉納したと伝えられる但し、文献上では1232年(貞永元年)での眼応玄察の中興の記載が初見となり、その頃は密教系の宗派であったと推測されている。その後江戸時代の智外宗察の再中興の際に曹洞宗に転宗した
 なお、本堂から100m奥に行くと「観音堂」があり、更に奥へと進むと「奥の院」があるが、鎖場もあるため、一種の登山をするつもりで、装備と体力と気力を持って臨む必要があるとのことだ
 この法性寺に1488年(長享2年)の秩父札所番付(長享番付)が残されており、室町時代の後期には秩父札所が定着していたと考えられている。これによると当時の秩父札所は1番から33番までの33ヶ所で20番以外は全て現在とは番付が異なっている。長享番付の1番は現在17番の定林寺、33番は現在の34番の水潜寺であり、現在1番の四萬部寺は長享番付では24番、現在2番の真福寺は番付外である。因みに長享番付での法性寺は、第15番で、今の番付(32番)と異なっていた
 その後、16世紀後半に百観音信仰の風潮がおこり西国・坂東に比べて歴史が浅く地域的にも増設の条件にも恵まれた秩父の札所が増設されて34ヶ所になり、番付も江戸からの参拝者の便を考えて現行の番付になったと考えられている
 般若秩父大神社の創建時期は明らかではないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称されたという。
        
            ・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町般若2690
            ・ご祭神 八意思兼命 知知夫彦命 天之御中主命
            
・社 格  不明
            ・例祭等 例大祭 415日(聖天神楽)
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9974929,139.019078,17z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町般若地域に鎮座する日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を500m程南下し、「長若」交差点を右折する。その後道なりに西行1.6㎞程先で、進行方向右側に般若秩父大神社の広い境内が見えてくる。
         
          広い境内の中央付近にポツンと立つ般若秩父大神社の鳥居
『日本歴史地名大系』 「般若村」の解説
 赤平川右岸の山間地に位置し、西は山嶺を境に伊豆沢村、東は長留(ながる)川を境に長留村、南は贄川(にえがわ)村(現荒川村)、北は赤平川を境に下小鹿野村。近世初めは幕府領、寛文一一年(一六七一)常陸下館藩領となったが、天和二年(一六八二)幕府領に復する。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。田園簿では高二八四石余・此永五六貫九三一文とある。「風土記稿」によれば、家数一六三、村内は「上中下三部ニ別レテ」名主も三人置かれていた。
 
     道路沿いに立つ社号標柱          鳥居の東側にある社務所
        
                   鳥居の東側正面には、拝殿や神楽殿が見える。
        
                    神楽殿
 毎年4月15日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなるという。
        
                    拝 殿
        
             境内道路側に設置されている案内板
 小鹿町文化財案内
 1,聖天宮(秩父大神社本殿)
 昭和三十四年八月二十四日指定有形文化財聖天様と親しまれるこの神社は創立時期は明らかでないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称された。
 現存する棟札には寛政八年(1796年)の再違と記されている。桁行16m、梁間13mで奥行13mの向拝が付く。欅材の入母屋造、柿茸きで四面に千鳥破風と唐破風が付き、柱、軒周りなどに精巧な彫刻と彩色が施され、装飾的な社殿建築である。
 1,聖天神楽
 昭和五十四年二月二十一日指定無形民俗文化財
 毎年四月十五日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなる。
 地元では神楽の保存会がつくられ、祭礼には大人と共に小中学生も熱心に神楽を舞っている。
 昭和五十八年三月三十一日
 小鹿野町教育委員会
 小鹿野町文化財審議委員会
                                      案内板より引用
       
            精巧に彫刻を施されている本殿(写真左・右)
        
              境内社務所側に祀られている石祠群



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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下小鹿野八劒神社

 秩父郡にある小鹿野町は埼玉県西部で、秩父盆地の北西部に位置している。小鹿野町の歴史は古く、今から1,000年以上前の平安時代中期に編纂された「和名妙」においては、古代の秩父郡「巨香(こか)郷」が小鹿野の始まりといわれていて、一方、丹党系図(諸家系図纂)では丹党中村冠者時重の裔時景が当地の開発領主となって小鹿野氏を号している
 小鹿野町の中心市街地は、嘗て江戸と信州を結ぶ上州街道が通り、国道299号を軸として産業・経済・交通・文化が開け、明治大正の頃は、絹織物を運ぶ重要なルートとして栄えていた。そのため今も街道筋には絹を扱っていた商家や旅籠などが軒を連ねている。西秩父の物資の集散地として繁栄した小鹿野町の基礎が、約400年前のこの時代に築かれたことが分かる。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1380
            
・ご祭神 日本武尊
            
・社 格 旧下小鹿野小名信濃石鎮守
            
・例祭等 例大祭(4月第1日曜日) 秋季大祭(10月第1日曜日)
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0131909,139.0252661,18.25z?hl=ja&entry=ttu
 下小鹿野八劒神社が鎮座する下小鹿野地域は、小鹿神社が鎮座する小鹿野地域の東側にあり、国道299号線及び、国道の南側を沿うように流れる赤平川の左岸までの狭く細長い低地面に住宅街を形成している。
 途中までの経路は小鹿神社を参照。国道沿いに立つ大鳥居を左手に見ながら、3㎞程東行する。左側に「鳳林寺」の看板を過ぎた場所に「信濃石会館」があり、そのすぐ東隣に隣接して下小鹿野八劒神社の鳥居、及び社の境内が見えてくる。上記会館には適度な駐車スペースも確保されており、そこの一角に停車させてから参拝を開始する。
        
               国道沿いに鎮座する下小鹿野八劒神社
『日本歴史地名大系』 「下小鹿野村」の解説
 赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留(ながる)村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林(ほうりん)寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた。
 元和元年(一六一五)の年貢割付状(田家文書)には「小鹿野之郷」とあり、下小鹿野村と合せて本高は二一四貫三六八文。

 
      鳥居の左隣に置かれている巨石(写真左・右)。信濃石という。
 この巨石には前面に四角いくぼみがある。また鎮座地から西側にある三叉路は「信濃石」交差点といい、『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』の「小名」にも同名の字がある。
『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』
 信濃石 
 此石の有る所を、小名信濃石と唱ふ、凡一丈四方の大石にして、一尺四方許の穴有り、此穴に耳を入れ聽ときは、人語の響ありと云、往昔信濃國より馬に荷物を駄し來りしに、かたヾ荷物の輕く傾くかたへ、此石を挟み來り、
 此所に捨置しが、今はかゝる大石となりしと、土人の伝傳へなり、
        
        「信濃石会館」前に設置されている「信濃石会館建設記念碑」
「信濃石会館建設記念碑」
 信濃石は古墳時代のひなめ塚があり、桑畑からは多くの須恵器の破片が出土されている。
 この地は往時から下小鹿野の中心地で、長慶山鳳林寺や高札場があり、武州街道のゆききが多く市が立つ程の盛況ぶりで「しなのいち」ともいわれた。当時宿場であったころ信濃の国から商人が馬の背鞍のつり合いにと、運ばれて置いた石が、今はかゝる大石となりしといわれ、この一丈四方の大石のあるところから地名がつけられたといわれている。
 近年、人口の増加に伴い昭和四〇に建設された八剱神社々務所兼集会所が老朽化したヽめ撤去し、区民の総力で地区発展のよりどころの場として信濃石会館及び消防器具置場を昭和五十六年に建設した。
 これを祈念してこの碑を建立する。(以下略)
                                                                            案内板より引用
『まんが日本昔ばなし データベース』には、「信濃石」の伝承・伝説として「石の中の話し声」を紹介している。この「石」とは勿論「信濃石」である。
 =石の中の話し声
 毎年、草木が芽吹く季節になると、ここ秩父(ちちぶ)の里に山を越えて信濃の国から行商にやって来るお爺さんがいた。そして近くの家に住む兄妹が、いつものこのお爺さんを迎えるのだった。
 今年もお爺さんは、たくさんの荷物を馬に載せて山を越えてきた。ところが、里一番の急な峠に差し掛かった所で、おじいさんは急に胸を押さえ、苦しそうに倒れ込んでしまった。兄妹は慌てて、お爺さんを家まで運んで看病した。この兄妹、実は数年前に両親を病気で亡くしており、苦しむお爺さんを見て、他人事には思えなかったのだ。
 さて、それから三日経つと、お爺さんの容体は回復し、布団から起き上がれるようになった。兄妹がお爺さんにお茶を差し出すと、お爺さんはちょうど夢でガラガラと茶釜でお湯を沸かし、郷里のお婆さんと茶を飲んでいたと言う。
 しかし、それから数日経ったある日、お爺さんの容体は急変し、兄妹の看病の甲斐もなく亡くなってしまった。
 お爺さんは最期に、世話になった兄妹に馬と荷物をせめてものお礼に上げること。そして、馬の荷のつり合いを取るために載せてきた二つの石を、故郷の信濃の国が見渡せる所に置いてほしいと頼んだ。
 兄妹はお爺さんの遺言通り、この二つの石を峠の鳥居の前に置いた。すると不思議なことに、握りこぶしほどの大きさだった石は、だんだん大きくなり、とうとう大人が五、六人で抱えるほどになった。その上、何やら石の中からガラガラと音がするのだった。
 兄妹が石に耳を当ててみると、石の中からガラガラという音と、人の声が聞こえてきた。その声は、お爺さんが故郷のお婆さんと、仲良く茶を飲みながら話しているように聞こえるのだった。
 この石はその後、誰言うとなく「信濃石」と呼ばれるようになった。
 

   国道沿いながらも静まり返った境内       拝殿手前の石段左側にある案内板
 八劍神社  御由緒 小鹿野町下小鹿野一三七八
 ◇御神体の剣が埋められた伝承が残る古社
 当社は赤平川に沿って開けた農業地帯である信濃石地区に鎮座する。
 第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が東国平定の際に当地に立ち寄り信濃石の神木であった大欅の傍らで休息したという故事から、延暦二十年(八〇一)八月に土地の人々が日本武尊を偲んで祠を建てたのが当社の始まりといわれる。
 また一には、北条氏の家臣が兵火で当地へ落ちる際に、三種の神器のひとつである剣を持参し、その剣を御神体として祀ったことから、八劍社の名がついたとも伝える。
 この北条氏の家臣の末裔とされる柴崎家にあった古記録(小鹿野大火で焼失)に、往時の御神体であった剣が村に埋められている旨が記されていたため、総代による発掘調査が試みられたが剣は発見出来なかった。尚、陣には御神体のほかに、石棒と阿弥陀如来を表す梵字を刻んだ板碑が納められている。
 明治以前は本山修験の寿宝院(通称を護摩堂と云い、大正初期まで残されていた)が別当として当社を管轄していた。
 昭和十九年(一九四四)の小鹿野大火に際しては、社殿全焼の被害を受けたが、同二十三年に三田川小学校の旧奉安殿を用いて本殿が再建され、同四十四年には拝殿が落成し、今日に至っている。
◇御祭神 日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 秩父郡下小鹿野村』
 八剱社 
 例祭八月八日、小名信濃石邊の鎭守なり、本山修驗入間郡越生鄕山本坊の配下、壽寶院ノ持なり、

 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
             拝殿左手前に祀られている境内社・石祠
        
           「信濃石」の左隣にある「高札場(こうさつば)」
      小鹿野町指定史跡  高札場(こうさつば)1棟 昭和37920日指定
 江戸時代、上意下達の方法として各村々の中央・代官・名主等の屋敷前に高札場が設けられていた。この高札場は、下小鹿野村の高札場で江戸時代末の建造と推定される。間口2.65m、奥行1.56mを測り、栗材が使用されている。屋根は切妻造で高さ約2.7m、柱は欅材を用いている。平成7年に復元修理されたという。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「小鹿野町観光協会」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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