両神薄両神神社
荒川水系の薄(すすき)川、小森川の流域を除くと、旧村域の総面積の約90%を山林が占める。採石や林業が盛んだったが、最近ではコンニャクイモ・シイタケ栽培とワイン製造が行われ、観光農園がある。
旧村域東部を主要地方道皆野両神荒川線が走る。村の最西端には標高1724mの両神山がそびえ、同山よりやや北寄りの東に延びる尾根上にある天理岳(1083.6m)、さらに東に向かう尾根が北の村境となり、南東方の御岳山(1080.5m)に続く尾根が南の村境となっている。この二つの尾根にほぼ並行して、両神山より分岐した尾根が東に延び四阿屋山(772m)に続き、村を南北に分断している。
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄2267
・ご祭神 罔象女神 他五十余柱
・社 格 旧両神村総鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭 9月28日
国道299号線と埼玉県道37号皆野両神荒川線が交わる「黒海土バイパス前」交差点を県道に合流して南方向に3.5㎞程進むと、進行方向右側に両神薄両神神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
両神薄両神神社正面
『日本歴史地名大系 』「薄村」の解説
四阿屋山の北、赤平川支流薄川の流域に位置する。現両神村域の北半を占め、南は小森村。「風土記稿」によれば、古くは薬師堂村ともいわれたという。村内は上・中・下の三郷と薬師堂組の四区に分れ、それぞれに名主が置かれ、高札場も上郷の竹平、中郷の穴辺、下郷の前原、薬師堂組の上宿と四ヵ所にあった。また承応二年(一六五三)当村新小森組分が分れ、同組分は小森村と一村になったという。地内法養寺薬師堂の天正一三年(一五八五)五月四日銘の棟札に「武州秩父郡薄谷盤戸村大檀那猪俣丹波守本願円覚」「願主竹内某」「大工荒舟藤五郎、同和田太郎等」などとみえ、盤戸村は現在の字坂戸にあたる。また同一五年一一月一五日銘の同堂鰐口には「秩父郡薄之郷薬師堂」「願主聖乗坊成範大旦那北条安房守氏邦」などとある。
近世初めは幕府領、天明四年(一七八四)から同七年まで下総関宿藩領となるが、その後再び幕府領となり幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」など)。
石段上に鎮座する社
当社は、はじめ「丹生明神」と称し、丹党薄氏の氏神社であった。一方、四阿屋山中腹に「四阿屋明神社」及び「四阿屋権現社」の二社があり、明治期に、四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称した。その後、山上のため氏子が不便を感じていたことと、大正六年に、国策により、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の「丹生明神」に合併して村社とした。その結果、奥社は四阿屋山に、里宮は薬師堂に置くこととし、大胡桃耕地の稲荷神社の社殿を移し、更に社務所、神楽殿を造り両神神社と改称したという。
当社の眷属が犬といわれるのは、四阿屋山権現及び四阿屋山明神のお犬様の信仰が合祀と共に当社に集合したからという。
因みに、隣接する法養寺薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山・四阿屋山(あずまやさん)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といった。
拝 殿
両神神社 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄二二六七(薄字並木)
四阿屋山(771.6m)の名は、その山容が東屋のような形をしていることによる。古くから「お犬様」の信仰を伝えるこの山は修験を感じさせる。『風土記稿』は四阿屋山中腹に四阿屋明神社及び四阿屋権現社の二社があり、日本武尊・乙橘姫尊、あるいは伊弉諾・伊弉冉の二柱を祀るという。
一方、四阿屋山の麓には、丹党の薄氏が祀ったと伝える丹生神社が鎮座していた。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で、水とかかわりのある信仰であったと思われる。なお、薄氏の館跡は、一説には当社近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)としている。
明治期、まず四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称し、村社として長く当村繁栄の祭祀を行うことを定め、祭りは山上で執行していた。しかし、山上のため氏子が不便を感じていたことと、当時の時勢により、大正六年、村社両神神社も含め、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の丹生神社に合祀、丹生神社を両神神社に改称、山上に残された社は、両神神社の奥社となり、現在の当社が成立した。なお、この時当社覆屋として字大胡桃(おおぐるみ)の宇賀神社覆屋が移設された。
当時の合祀の模様については古老の話に、猿田彦の面をつけた者が神輿の戦闘をし、笛や太鼓を奏しながら神様を迎えにいったという。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額 境内に設置されている案内板
当地で大正期実施された合祀の経緯についての詳細は明らかではないが、村内各耕地の社を四十四社合祀する大規模なものであった。しかし、この時、合祀祭は行ったものの遷座したのは御幣のみで、各耕地には依然社が残り、昔ながらのお日待が続けられていた。なお、当社の祭事には、戦前までは両神村総鎮守として、村内各耕地より氏子が参列したが、戦後は宮本である字薬師堂の氏子が中心となっている。
年中行事
元旦祭 節分祭 祈年祭 春祭り 大祓 例大祭 新嘗祭 大祓の計8回。
春祭りは4月16日。以前は15・16・17日と3日間かけて行っていた。
15日は「お旗立て」と呼び、幟立ての後、社務所で前日待と称して会食する。夕刻から境内に丹生神社と書いた行灯を飾り付けて灯をともす。
16日は「本祭り」で祭典があり、この後、薬師堂耕地内の役員引継ぎを行う。
17日は「お旗返し」といわれ、幟を納める。
例大祭は9月28日。
花火が打ち上げられ、盛大に祭りが行われる。以前は付け祭りとして柏沢と浦島の太々神楽を一年交替で頼んでいた。
社殿に向かって右側手前には神楽殿 神楽殿の参道を挟んで反対側には社務所
社殿から参道方向を望む。
嘗て、畑作地の多い当地では、6月から7月にかけて降雨が少ない時、雨乞いの行事があった。これには二通りのやり方があり、薬師堂の境内に村人が集まり、輪になって親方が幣を担ぎ、鉦や太鼓を鳴らしながら「雨だんべい、竜王なあ、降るだんべい」と唱えてぐるぐる回る。
もう一つは、白井差(しろいざす)の不動滝まで、お水をもらいに出かけ、リレー式に竹筒に水を入れて運び、当社に供えてから境内に水を撒くものである。
更にこれでも雨が降らない時は、小森の諏訪神社の氏子と合同で四阿屋山に登り、祈雨祈願を行ったという。
雨乞いとは逆に、雨が降り続くと、小麦がダメになるので、「天気祭り」を薬師堂で行った。この時は、薬師様に麦こがしを供え、止雨祈願の後、男衆が境内で百万篇の数珠を回しながら「サンセン、ショウブツ、ナンマイダ」と唱えた。
両神神社と法養寺薬師堂は隣接している。法養寺薬師堂は秩父十三仏・第7番札所でもあり、日本三大薬師尊ともいう。
法養寺薬師堂仁王門 小鹿野町指定有形文化財
法養寺薬師堂 埼玉県指定有形文化財(建造物)
法養寺薬師堂の案内板
埼玉県指定有形文化財(建造物)
所在地 秩父郡小鹿野町両神薄二三〇一番一
指 定 昭和四十九年三月八日
法養寺薬師堂 一棟
薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山(一七二四メートル)・四阿屋山(あづまやさん・七七一・六メートル)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といいます。山の薬師、目の病気に霊験あらたかな薬師として広く庶民の信仰を集め、日向薬師 (神奈川県伊勢原市)、鳳来寺薬師 (愛知県新城市) とともに「日本三体薬師」の一つに数えられています。
縁日は毎年一月八日で多くの参詣者で賑わい、秩父神社大祭、飯田八幡神社祭りと並び「秩父三マチ(祭り)」といわれていました。
建物は石積みの基壇上に建ち、間口十一・七メートル、奥行十一・二七メートルを測り、外廻りに幅一・三九メートルの縁・勾欄が付く三間四面の堂です。構造は、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも三間、一間の向拝(ごはい)が付きます。屋根は、建造当初は茅葺きと推定され ますが、享保年間(一七一六~三六)に向拝を付けた際、瓦葺きに改められ、その後昭和五十三年に銅板葺きに改修しています。
建築様式は和様に唐様が入り交じり、寄棟造りで円柱が立ち並ぶ軸部の木割りは太いものですが、斗供(ときょう・柱上にあって軒を支える組み物)は繊細なものといわれます。木鼻(きばな・柱の上部をつなぐ貫の端)の文様や外壁に打ち付けられていた天正年間(一五七三~九二)の納札から天正頃の移築改造と推定されています。床は槍鉋(やりがんな)で仕上げられ、堂内外に残る墨書が注目されます。古い柱配置などの特徴をもち、県内に残る中世の代表的な建造物の一つです。
薬師堂の由来については明らかではありませんが、永禄十二年(一五六九) から元亀元年(一五七〇)にかけての武田信玄の秩父侵攻の際、兵火で焼失したといわれています。その後、北武蔵の有力な軍事拠点であった鉢形城主の北条氏邦が由緒ある薬師堂を再建したといいます。(以下略)。
案内板より引用
法養寺薬師堂内部(写真左・右)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等