古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯田八幡神社

 小鹿野町の飯田八幡神社で開催される「鉄砲まつり」(県指定無形民俗文化財)は、江戸時代から秩父地方で数々行われる祭りの締めくくりの祭りともいわれ、地域の人々に親しまれてきた祭りである。
「鉄砲まつり」の始まりは200年以上前の江戸時代に遡ると言われている。当時、畑を荒らす鹿や猪に困っていた人々がそれらの獣を追い払う豊猟祈願として始めたという説や、猟師の試し撃ちが起こりとの説など、その起源には様々な言い伝えがある。
 1日目の宵宮(よみや)では、八幡神社への「若衆の宮参り」、笠鉾や屋台の曳き廻しが行われ、町の郷土芸能である、小鹿野歌舞伎も上演される。
 祭りの本番である2日目には、街を練り歩く大名行列や境内で奉納される神楽が見られる。夕方になると、メインの「お立ち」という、参道の両脇から火縄銃と猟銃の空砲が発せられる中、二頭の御神馬(ごじんば)が社殿への石段を一気に駆け上がるという名場面を見ることができる。
 因みに2日目に行われる「大名行列」は、元文年間(1740頃)上飯田領主の旗本古田大膳が行列を仕立てて参拝したのが起源とされている。
 その後も御輿渡御・川瀬神事が執り行われ、夜には歌舞伎の奉納、花火の打ち上げも行われ、秩父地方で開かれる一年間の祭りは幕を閉じる。
 このお祭りを一目見ようと例年、県内外から多くの参観者が訪れるという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2756
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上飯田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 315日 大祓 731日 新嘗祭 1123
                  
例大祭(鉄砲祭) 12月第2土・日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0286479,138.9648692,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程西行すると、進行方向右手に社の社号標柱がみえ、そこを右折すると、飯田八幡神社の石製の鳥居が見えてくる。
 概略としての国道299号線について、一般国道の路線を指定する政令に基づく起点は長野県茅野市であり、群馬県多野郡上野村、埼玉県秩父市を経由し、入間市が終点となる総延長 204.6 kmの国道である。しかし小鹿野町にとってこの国道は、地形的に見ても町の主要部を縦断している。またこの国道から何本もの県道や町道が枝分かれしていて、いわば町の大動脈的な役割があり、町民にとっても生活するための欠かせない重要な幹線道路となっている。
        
                県道沿いに立つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「上飯田村」の解説
 赤平川流域に位置し、北は中飯田村、東から南にかけて山の峰を境に薄村(現両神村)、西は三山村。中飯田村からの往還が村の中央を通り三山村に向かう。元文五年(一七四〇)飯田村が上・中・下の三ヵ村に分村して成立したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。同年、当村は旗本古田領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数六三、農間稼には男は山稼、女が養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。
          
                            
飯田八幡神社 石製の大鳥居
 
  長閑な西秩父の風景を愛でながら200m程の     参道途中からやや上り斜面となり、
   長い参道を進むと社に行きつく。       進行方向右手に社務所が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 上飯田村』
上飯田村は、郡の中央より少し西北に寄れり、矢畑庄三山鄕に屬す、上中下飯田村は元一村なり、正保元祿の國圖にも一村に見へ、御入國より御料所にて正保の頃は伊奈半十郎支配し、慶安五年伊奈半左衛門檢地して貢を定む、夫より御代官遷替ありて、元文五年飯田村を上中下の三村に割て、上飯田村を吉田大膳采邑に賜ひ、中飯田村及び下飯田村の半を割て、深津彌七郎采邑に賜ひ、其半は元の如く御料所なりしが、明和二年松平因幡守采地に賜はり、今は上中下飯田の三村皆私領所となり、上飯田村は吉田大膳が子孫、吉田平三郎今も知行せり、元文五年の分鄕なれば、上中
の二村は民戸及び田畠駁雜せり、下飯田村は一村に區別せり、江戸日本橋を距ること中山道通り三十里、川越通り二十八里の行程なり、四比東より南に廻り、山を界として薄村に隣り、西は三山村に續き、北は中飯田村に接す、東西凡十町、南北七町許、民戸六十三、多くは北の方川根に因て所々に散住す、陸田多く、水田は陸田に比すれば、十が一なり山林尤多し、土症は東南の方は石交りの眞土、西北は黒眞土なり、地形西の方高く、東の方へ漸下し、南北に山々連れり、農の隙に男は山稼、女は蠶を養ひ絹織ることを業とす、土産には絹・煙草・大豆等なり、村内に一の街道係れり、北の方中飯田村より來り、凡十町許をへて西の方三山村に達す、道幅凡六尺、此道上州山中領にかゝり、信州への往來なり、村の西の方三山村界に、上中下飯田村三村の入會秣場あり、
        
                境内に入る手前にある石段
 飯田八幡神社が鎮座する飯田地域は、荒川水系赤平川の支流である河原沢に沿って位置し、その地名については『秩父志』に「八幡社、神饌田(しんせいでん)有之称」とある。
 この地域は、地形上、川が集落の下方を流れているため、『郡村誌』に「水利不便時々旱(ひでり)に苦しむ」とあるように、水利の整備がされるまでは干損の地であった。この為古くから雨乞いが盛んにおこなわれていたようだ。
「埼玉の神社」にはその経緯が記されてあって、雨乞いに当たっては、まず「お水借り」といい、武甲山か両神山に竹筒を持参し、水を受けに来る。これは夜中に行われ、若衆が三班に分かれ、一番手・二番手と中継地点を定めてリレー方式で水を運ぶものである。
 若衆が村に着くと、この水を八幡社の本来の社地であった「八幡淵」に注ぎ、藁で作った竜を入れ「アーメダンベエ、リュウゴーナー、アノクロクモヲコッチニヒキヨセロ」と叫び、鉦で囃し立てたという。
        
                     拝 殿
 当社は『新編武蔵風土記稿 上飯田村』の項に「八幡社 例祭二月・十一月十五日、村中の鎭守 神職近藤紀守吉田家の配下なり」とあり、『郡村志』には「八幡社、村社々地東北廿間南北十五間面積三百坪村の西にあり応神天皇を祭る、祭日一月十一日十五日」とある。
 創建を伝える社蔵文書としては、文化十三年に神主近藤紀守が差し出した『八幡宮由来並官職覚』があり、その中に次の文が見られる。
「大同年中播磨国より御鎮座有之と申伝謂三山郷半平村休石有之其村当社之氏子夫より一里程下村に休石有之其所に七軒当社の氏子夫より村内百姓万之助地内休石有之此所より当社江御鎮座毎年十一月十五日川瀬江鎮座之神事有之右万之助地内石に上下御休有之神轡伝母之犠者住 昔より播磨国より御供之氏子当村に七軒有之此者供其謂を以家名を播磨と申来り云々」
 
拝殿正面上部には細やかな彫刻が施されている。 側面部上部にはまだ彩色も残り、奉納された
                            額等も飾られている。

 一方、当社「鉄砲祭」の鍵取を務めている播磨家本家の播磨義男は、その私記である『昭和四六年 我が家の言ひ傳へと八幡様のお祭り』の中で、「吾祖先は平家の落人で、修験者となり、信州路・上州路と安住の地を求めて流浪し、やがて主従は当地に落ち着いた。氏神八幡神社は平氏の信仰した神で、落人となり神体を笈に入れ、「懺悔 懺悔」と唱えつつ旅したという」と、その創始を伝えている。
 大同年中(806年〜810)と平家の滅亡した文治元年(1185)とでは四百年近い隔たりがあるが、それは平安前期に勧請されたものに、平家落人伝説が付会したものであろうか、または大同年中がまったくの作為なのであろう。
        
                 重厚感のある神楽殿
           例大祭等では、歌舞伎が奉納されるのであろう。

 当地に着いた八幡神は人目を恐れて八幡淵の岩屋に密かに安置され、一族で祭祀を行って来た。その後風風雨の為、その岩屋が崩れたのを機に現在地に近い所に移し、更に月日が流れ、周囲の人も不審に思わなくなったので、天狗様の境内に社を移したものが現在の社殿である。
 この時、神社の傍らに「サフリト」と称し、代々神に仕える家があったので祭礼を依頼した。これが現在の「近藤宮司家」の祖先であるという。   
 神体については、戦後まで鍵取りであった播磨家に拝むと目が潰れるという言葉が残り、やむを得ず拝む時は片目を閉じるという。また明治期に御神体がどこかに飛んでしまったという話が伝わり、改めた時に御神体は尺二寸ほどの立像であったともいわれている。
        
             社殿の奥にある「神興庫」と「神札授与所」
        
                     社殿の右手奥に祀られている境内社・合祀社
 左より「住吉神社」「琴平神社」「正一位稲荷神社」「諏訪神社」「高根神社」「稲荷神社」。
       
           合祀社の右側に聳え立つ御神木の大杉(写真左・右)
 社殿に向かって右側に、注連縄のついた御神木である大杉が見える。樹齢は1,300年と伝えている。幹の中央部には、大きな焼け跡ある空洞が見える。昭和19813日の落雷により、中央部は裂けてしまい、幹下部は洞となったようだ。
 以来この813日を神木祭りとして祀っているとの事だ。
        
                              社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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