下小鹿野小鹿神社
もう一社は小鹿野地域の西側に接している下小鹿野地域に鎮座する小鹿神社である。この社は「紫陽花神社」と表記したほうがより有名な社のようで、社の近辺でアジサイの植樹活動している地元有志のみなさんの日々の努力で、町のHPにも7月の第1日曜日に開催される「あじさい祭り」が掲載されている。
余談ではあるが、この「あじさい祭り」には歌舞伎も奉納されるようだが、その役者の中には現小鹿野町町長も参加されていて、なんでもこの町長は約25年の役者歴がある方だそうだ。
小鹿野歌舞伎は、1975年には埼玉県無形民俗文化財の指定を受けている。
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1302
・ご祭神 諏訪尊(推定)
・社 格 旧下小鹿野村泉田鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月3日 秋祭り 10月10日
*どちらも祭典日に近い日曜日
小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程東行すると、国道沿いで進行方向左手に木製の鳥居と「小鹿神社」と表記された社号標柱が見えてくる。
社の周囲が「あじさい公園」となっていて、近郊には専用駐車場があるようなのだが、今回は正面鳥居の東側200m程先にあるコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
国道沿いに鎮座する下小鹿野小鹿神社
『日本歴史地名大系』には「下小鹿野村」の解説があり、「赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた」との記載がある。
参道入口の右側に安政6年に建てられた 「安積良斎の小鹿野碑」案内板
「安積良斎の小鹿野碑」が立っている。
小鹿野町指定史跡(昭和三十七年九月二十日指定)
安積艮斎(あさかごんさい)の小鹿野碑
両神山は、秩父を代表とする名峰として古くから親しまれ、人々の長く尊い信仰の歴史を伝える山です。山頂部には鋸(のこぎり)の歯のような険しい姿を見せますが、周囲の山々を従えて四季折々に美しい山容を見せる様は、地域の象徴的なものといえます。標高は一七二三m、一帯は秩父多摩甲斐国立公園として指定を受けています。両神山は古くは「八日見山(ようかみやま)」といわれ、その由来を伝える碑が下小鹿野の小鹿神社参道入口にある「安積艮斎の小鹿野碑」です。巨香郷と呼ばれた小鹿野・両神地域の美しい伝説を伝える石碑として知られ、
「日本武尊神詠 つくばねをはるかへだててやふかみし つまこひかぬるをしかのの原(筑波嶺を遙か隔てて八日見し妻恋いかぬる小鹿野の原)」
と刻まれ、裏面に碑を建てた由来が漢文で記されています。これによると、安政6年(一八五九)下小鹿野村の森為美が日本武尊神詠の由来を伝えるため、安積艮斎に撰文を依頼し、碑を建てたものといいます。同じ歌を刻んだ碑は河原沢の龍頭神社境内にも建てられています。
秩父地方には日本武尊に関する伝説が多く残されています。日本武尊は伝説上の人物で、景行天皇の命で東国の征伐におもむき、戦勝祈願のため常陸国筑波山に登りました。その折、西の方角に剣の形をした秀でた山が見え、この山を八日間眺めながら西へ向かい、秩父へたどりついたということから両神山は八日見山と名付けられたといいます。また、日本武尊が秩父に入る途中、道に迷った折、どこからか神鹿があらわれて一行の先頭に立って導いた後、小鹿野に至って精魂尽きて倒れたのでこれを哀れんで塚を作ったのが「小鹿塚」であるといいます。
さて、碑の書と撰文を記した安積艮斎(一七九一〜一八六〇)は、江戸時代後期の儒学者で、岩代郡山安積(福島県郡山市)の出身で、佐藤一斎・林述斎に学び、詩文に長じ多くの著書を残しています。江戸幕府が江戸湯島に開いた官立の学問所「昌平黌」の教官になり、多くの門人を育てました。私財を投じて碑を建てた森為美は熱心な安積艮斎の門人で、当代一流の学者である安積艮斎に撰文を依頼し、永く後世に伝えようとしたものです。書は、幕府に仕える川上由之によるものです。当時名声の高い儒学者の撰文とともに、美しい小鹿野の伝説を伝える碑として広く親しまれています。
昭和十七年三月三十一日に埼玉県史蹟として指定されましたが、現在は小鹿野町指定史跡となっています。幅六七㎝、高さ一二二㎝。
令和三年三月三日 小鹿野町教育委員会
案内板より引用
周囲が長閑な田畑風景の中、真っ直ぐに伸びる参道の先に社殿が見えてくる。
安積安積艮斎の小鹿野碑に載っている「小鹿塚」とは、下小鹿野小鹿神社から南東方向で直線距離にして600m程の場所にあり、同じ下小鹿野地域内にある「小鹿塚古墳」で、小鹿原古墳群を構成する1基といわれている。
古くから日本武尊の伝説を顕彰する聖地として親しまれていて、昭和29年(1954)には秩父宮の染筆による「小鹿野碑」が建立され庭園として整備され、その際に大刀が出土している。また嘗て墳丘西側の畑から平板石が大量に掘り出され、大刀が出土したとの記録がある。小鹿野の歴史の深さを物語り、町民の誇りとする美しい場所でもあるという。
小鹿塚古墳が前方後円墳であるか否かについては、現状では公園化され不明であるが、1994年(平成6年)12月21日付けで町指定史跡に指定されている。
境内に入る手前にあるあじさい公園のマップ マップの近くにある「黒澤の池」
拝 殿
小鹿神社 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野一三〇二(下小鹿野字春日山)
天正十八年、東から前田利家、南から上杉景勝、西から本多忠勝、更に対岸の寄居から真田昌幸らの大軍に包囲された鉢形城は、籠城1ヵ月を経てついに落城し、多くの武士たちは散り〃に落ち延びていった。
この落ち武者の一人に、当地の泉田耕地に住んでいた「小菅(こすげ)」氏がいる。小菅氏は、敗戦後土着し、氏神としてここに諏訪神社(当社)を祀った。この小菅氏の子孫は、「お諏訪氏子」と称する小菅一家で、先祖の徳を偲びつつ祭りを行っていた。
当社について『風土記稿』は、「諏訪社 祭神諏訪尊、例祭二月二七日、七月二七日、小名泉田の鎮守なり、同配下、泉蔵院持」と載せている。なお、文中の「同配下」というのは、入間郡越生郷にあった本山派修験山本坊配下を示す。
明治に入り、神仏分離により当社は泉蔵院から離れ、明治六年に村社となり、社名も小鹿(おじか)神社と改められた。次いで同四十一年には、小鹿原(おかはら)の八幡社・豊受社、金園の山の神社、春日山の豊受社・春日社・高良社、西宿後の山の神社、同天山の十二天社を、大正二年には黄金平の琴平社、東宿後の納蔵社を合祀した。また、大正九年には、神饌幣帛料供進神社に指定され、境内整備を進められた。しかし、終戦を機に、各耕地持ちの合祀社は次々と旧地に戻され、統合された氏子も離れてしまった。
「埼玉の神社」より引用
社殿右側並びに鎮座する境内社・諏訪社
当社は、明治期に社名を変更し、下小鹿野にある各耕地の社を合祀して村社となったが、終戦を機に社格も廃され、合祀された社も戻っていった。しかし、当社は元来お諏訪氏子と称する一族が氏神として祀っていた社であるが、所謂「一村一社制」によって形式的に村社にされたことを考えると、今日の姿が本来に近いともいえる。
年間の祭事は、春祭りが四月三日、秋祭りが一〇月一〇日と定められていたが、昭和五五年からは氏子の都合により、祭典日に近い日曜日が祭日とされている。
春祭りには、氏子から赤飯や煮しめを重箱に入れて持ち寄り、赤飯は、作物が良く実ることを祈って柏の葉に盛って神前に供えられる。付け祭りは村社であったころは盛んで、境内に麦藁屋根の立派な歌舞伎舞台を掛け、長若の大和座などを頼んで歌舞伎を行っていた。お日待(おひまち)と呼ばれる直会は、社務所で行われ、二十人鍋と称する大きな鍋を掛けて、煙い思いをしながらまぜ飯を作った。一人宛三合の米を集めるが、以前は、すぐに食い帰ってしまい、三合では足らない程であったという。こうした、本来のお諏訪氏子の祭りの名残を留めたお日待も、昭和五〇年を最後に行われなくなった。なお、秋祭りにもお日待が行われた。
社殿の左側から斜面を登るルートがあり「名石参道」という立札が設置されていた(写真左)。暫く道なりに進むと縄で巻かれ、注連縄で祀られている「カメ石 オカメ石」と表記されている石も置かれていた(同右)。不思議な空間である。
社殿から参道方向を望む。
当社が鎮座する泉田地区には、上・下に分かれており、上にはお諏訪氏子の祀る当社が、下には高橋一家で祀る高良社が鎮座している。当地区の夏祭りは、七月二〇日に行われ、祭りの日になると氏子は「お祇園」と称して当社の社務所に祭壇を設け、これにキュウリを供えて無病息災を祈る。また、以前は神興を担いで各耕地を回って厄を祓い、最後は赤平川の中に入る「お川瀬行事」も行われていた。
なお、その祭場は赤平川から一〇〇メートル上流の所であったという。
一の鳥居の延長線上に聳える武甲山
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等