長留羽黒神社(宗吾神社)
惣五郎非実在説もあるが,名主を務めたという公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市)の名寄帳に惣五郎という高持百姓がいたこと,1660年に正信が改易されていることなどから事実であった可能性は高い。なお,惣五郎を題材としたものに歌舞伎《東山桜荘子(さくらそうし)》(3世瀬川如皐(じょこう)作,1851年初演),講談《佐倉義民伝》がある。
小鹿野町・長留地域には、佐倉惣五郎(宗吾)を羽黒神と共に主祭神として祀る社があり、通称「宗吾神社」ともいう。今でも宗吾への信仰心が中心となっていて、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多いという。
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3537
・ご祭神 羽黒大神 諏訪大神 宗吾大明神
・社 格 長留中郷鎮守
・例祭等 春祭り 4月28日 例大祭 10月体育の日(長留の獅子舞)
日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を2㎞程南下し、「蕨平」交差点を直進する。「Wikipedia」によると、「長若」交差点から「蕨平」交差点までは埼玉県道43号皆野荒川線との重複区間であるようだ。「蕨平」交差点からは県道43号線となり、南西方向に800m程進むと右手に立派な藁葺屋根の歌舞伎舞台が見え、その手前にどっしりとした長留羽黒神社の木製の鳥居が立っている。長留羽黒神社はその北側に伸びる参道の先で、山の中腹に鎮座している。
長留羽黒神社正面
鳥居の左側にある藁葺屋根の歌舞伎舞台 町指定文化財の標柱
小鹿野町・長留地域は、『新編武蔵風土記稿』に「土地西南東の三方は山ありて、北は自然と卑き村なり、土症は眞土多く又砂交りありて、野土は十が一ありと云ふ、水田は僅かにして陸田多し、山林は田畠にひとし、當村は南に山ありて除地の村なれば、雨多き年は作りものみのり惡く、又旱りする時は砂地の邊は痛み易しと云、又猪・鹿多くして耕地を荒すとなり」と記されているような土地であったため、氏子の困窮も並大抵ではなく、苦しい年がしばしばあった。農民の救済者であった佐倉宗吾郎に厚い信仰心が寄せられた背景には、このような事情も大きくかかわっていたと思われる。
因みに氏子数は、氏子区域長留仲組の世帯数が明治末年40戸あったが、その後過疎化が進み、現在では30戸余りに減少している。また全戸は農家で、現在養蚕・椎茸・しめじ栽培が中心である。
鳥居上部には「諏訪・羽黒・宗吾」と並列する この石柱から長い参道が山の中腹まで続く
社号額が掲げられている。 とは、当初は考えもしなかった。
参道手前に設置されている文化財の案内板
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の舞殿 平成2年11月26日指定
長留仲組の鎮守、羽黒神社は、一般に宗吾様と親しまれています。これは、幕末に下総の宗吾霊堂(義民・佐倉宗吾郎を祀る)から勧請し、占いがよく当たることで近隣に知られた宗吾大明神を合祀しているためです。仲組はもと蕨平の羽黒神社の氏子でしたが、慶応年間(1865-68)に獅子舞をめぐって争いが起こり、羽黒大神、諏訪大神を分祀し、宗吾大明神とともに3神を祀りました。それ以来仲組が獅子舞を継承し、参道中腹に舞殿を建造しました。建造年代は、明治初期と推定され、大正4年山崩れのため現在地に移転改築されました。
舞殿は、寄棟造・藁葺きの平屋の建物で、問口9.13m、奥行5.52m、棟の高さ7.57mを測り、南側に土間と八畳間の控えを付設しています。二重舞台の回転装置は、昭和3年に設けられました。歌舞伎上演時には花道が付き、舞台両側に桟敷席、前面には露よけの張り出し屋根と花が飾られました。4月と10月に年2回祭りが行われており、舞殿ではかつては、春は歌舞伎や映画上映、秋には獅子舞が行われたほか集会にも利用されました。現在は体育の日に獅子舞が、奉納されます。秩父地方には、二十数棟の歌舞伎舞台が残っていますが、藁葺きのものは数少なく貴重な建造物です。
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の笠鉾 平成2年11月26日指定
この笠鉾は、明治初年に大宮郷中村(現秩父市)の宮大工、久番匠(長留神の原出身)が建造したものです。当時秩父から長尾根峠を人の肩で運んだと伝えられています。4個の車輪は松材で、ひび割れを防ぐため池に浸して保存し、4月の春祭りでは、氏子の地域内を曳行していました。明治41年、長若小学校建設に際して土台部分を資材運搬に使用したところ、車輪が破損し、曳航が中断しました。昭和22年に車輪が復元され、春祭りに組み立てた後、翌年盆踊りの櫓として使われて以来、舞殿に保管されています。その後は、昭和63年に飾り置きされています。
笠鉾の反り木の長さは約3.5m、正面の幅1.45m、高さは約12mを測ります。勾欄下の腰支輪の彫刻は波に菊、登り勾欄下は波に亀・鯉でいずれも極彩色がよく残り、正面の4段の登り勾欄や勾欄は白木造りとなっています。笠に付く花は、上笠が48本、中笠が68本、下笠が78本で、各粒に緋羅紗の水引幕を付けます。その上に方燈、波形のせき台、天道が立ちます。笠鉾で建造当初の三層を残すものは少なく、保存状態も良好で貴重なものといえます。
・町指定無形民俗文化財 長留の獅子舞 昭和35年12月1日指定
この獅子舞は、毎年10月体育の日の羽黒神社の祭りに奉納されています。起源については、数百年前ササラ三平という人物が当地で教えたとの伝説が残され、嘉永4年(1851)の記録には、数代前から獅子舞が行われていたと記されています。獅子は、先獅子、中獅子、後獅子の3頭で、花笠を男性2人がつとめ、他に道化、増え、大太鼓、小太鼓、万燈持ちで構成されます。
祭り当日早朝、氏子区域内の詞や堂など6か所を順番に回って獅子舞を奉納する宮参りが行われます。この時、祠では、幣掛、堂では花掛を舞います。その後、山の中腹にある神社拝殿で幣掛の舞を奉納します。午後は、舞殿で座敷廻り、岡崎、骨っ返し、毬掛、太刀掛、竿掛、牝獅子隠し、曽状、平簓の9庭を舞います。獅子の衣装は、襦袢に袴を付けますが、拝殿では足袋、舞殿では裸足で舞います。獅子の優雅な舞いぶりから御殿ササラともいわれています。
長留仲組では地域をあげて獅子舞の保存伝承に取り組み、年1回の祭りのほか、町内外での催し物等で上演しています。
平成13年3月 小鹿野町教育委員会
案内板より引用
参道も当初は民家もあり、緩やかな緩やかな上り坂を進む。
手作業と思われる石段が注連縄 一対の柱付近から丸太材の階段が
の先まである。 暫く続く。
斜面は長い階段が続く。さすがに山岳修験の羽黒神社。
はっきりと分かる踊り場があるわけでもなく、自らの体力を計算しながら、
途中休憩を挟まないとさすがに筆者の体力が続かない。
拝 殿
羽黒神社 小鹿野町長留三五三七(長留字皆谷)
当社の鎮座地である長留は、荒川水系の上流部の長留川に沿って集落が点在する山村である。当社はこの長留の一耕地である仲組の中腹に奉斎され、伊氐波神(いではのかみ)・建御名方神・宗吾霊神(木内宗吾郎。俗に佐倉宗吾郎という)の三柱を祀っている。
当社は、幕末に当所の住人の倉林森造が、下総国佐倉から宗吾霊神を勧請したことに始まる。森造はこの神を邸内に祀り、占いを行っていたが、これが実によく的中した。そこで、この神の霊験あらたかなることを感じた仲組の人々は森造と話し合い、宗吾霊神を仲組の鎮守として譲り受け、竜神山中腹に境内を定め、仲組全体でこれを祀ることとなった。慶応元年のことである。更に慶応三年には、久那平仁田の宮大工による社殿も落成し、宗吾神社として広く信仰を集めるところとなった。
一方、仲組の人々は、蕨平(わらびたいら)・上ノ原の両耕地の人々とともに蕨平鎮座の羽黒神社の氏子として同社の獅子舞を奉納してきたが、慶応年間にはその継承権を巡って紛争が起き、その結果、仲組は同社の氏子を離れると同時に、羽黒神社及び、その境内社であった諏訪神社を分祀し、宗吾神社とともに祀ることになった。この際、神格が高いという理由から、明治二年に羽黒神社と改称し、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側にポツンと鎮座する境内社。詳細不明。
明治2年に社号が羽黒神社に改められても、宗吾霊神への信仰心が中心となっているため、通称は「宗吾様」であり、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多い。講組織はないが、多くの崇敬者を持ち、「長留の宗吾様」として、西秩父方面では広く知られている。
そのためか、多くの地図にも羽黒神社ではなく、「宗吾神社」と表記されている。
氏子、崇敬者の間では、「宗吾様が困っている農民の為に働いて死んだ立派な人だ」といわれ、様々な願いが掛けられている。今でも拝殿内には願い事が書かれた絵馬や願果たしに奉納された旗が多数みられるという。
社殿から眼下の参道を望む。
ところで、長留地域には「羽黒神社」がもう一社近くに鎮座している。「埼玉の神社」にもこの社に関しての説明はされていないので、詳細は全く不明。
所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3056
御祭神 羽黒権現(推定)
社格・例祭等 不明
*参拝日 2024年7月5日
鳥居の先の山の斜面入口からのスタート なかなか野性味あふれる登り階段
斜面を登りきると平坦な場所が広がり、真新しい拝殿が横を向くような形で鎮座している。
社の創建等は不明ながら『新編武蔵風土記稿 長留村』には、この社に関しての記述がほんのりと記されている。
『新編武蔵風土記稿 長留村』
諏訪兩社合殿 例祭七月廿七日、中鄕の鎭神なり、神職吉田家の配下、宮澤左門斎藤淡路、
羽黒社 宮澤左門が持、
羽黒社 例祭八月十五日、村民持、祀官斎藤淡路、
上段二社は通称「宗吾神社」と呼ばれている羽黒神社であるのだが、最下段の羽黒社は、当社ではないかと思われる。この二社は近距離に鎮座していて、神職・祀官は「斎藤淡路」という人物が共有しているため、何かしら関連性のある社ではないかと考えられる。
社殿の東側に祀られている境内社群
境内社が五社祀られていて、そのうち一番左側の社は狐の置物が多数奉納されている所から、稲荷社ではないかと思われる。また拝殿同様に境内社も改築もされている。よく見ると紙垂が巻かれていて、その巻かれ具合から、つい最近「祭り」の類が行われたと考えられるが、詳細が全く分からないのが残念。
拝殿の南側で、一段低い場所に鎮座している境内社・二社。
社殿からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「百科事典マイペディア」
「Wikipedia」「境内案内板」等