古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

千手堂春日神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町千手堂585
             ・ご祭神 天津児屋根命
             ・社 格 旧千手堂村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祭日 415
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0390956,139.3103105,16z?hl=ja&entry=ttu
 平沢白山神社から南方向に伸びる道路を750m程進み、丁字路を右折する。その後道なりに進むこと200m程先に「千手院東墓宛」の看板がある路地があり、そこを右折し暫く行くと、進行方向左手に千手堂春日神社が背を向けたような配置で見えてくる。
 駐車スペースはその「千手院東墓宛」が管理するスペースが道沿いにあり、そこの一角をお借りして参拝に臨んだ。
 
       駐車場付近の風景             進行方向正面左手の社叢林の中に、
 路地一面に咲く「カンシロキク」可憐で清楚だ。      春日神社は鎮座する。  
        
                   社に通じる裏路地があり、そこから正面へ回り込む。
 一旦正面鳥居に位置する場所まで遠回りに移動しなければならないが、そこは土地勘もない事でもあり、仕方がない事だ。後で正面からのルートをグーグルマップで確認すると、どうやら民家の間を通らなければいけないようなので、結果的にはむしろこのルートで正解だったと、改めて確認した次第だ。
        
                                 千手堂春日神社正面
         正面に廻り改めて参拝を行う。やはり社の正面は威厳がある。
『日本歴史地名大系 』「千手堂村」の解説
 [現在地名]嵐山町千手堂
 槻川を挟み鎌形村の北に位置し、東は菅谷村、西は遠山村、北は平沢村。松山領に属し、村内に千手観音堂があったことが地名の由来という(風土記稿)。現入間市蓮花院の寛正二年(一四六一)一〇月一七日銘の鰐口に「奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本」「願主釜形四郎五郎」とみえる。田園簿では田高四二石余・畑高五〇石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の田畑屋敷御検地帳(関根家文書)によると高一一二石余、反別は田五町一反余・畑二二町二反余・屋敷七反余。
        
                  石段上に立つ鳥居
      個人的にこのようなアングルから仰ぎ見る鳥居がたいへん好きである。

 千手堂春日神社のご祭神は天津児屋根命である。社は千手堂地域の中央部よりやや北西に離れた所に位置する大平山の麓に鎮座している。参道及び社殿の周囲は、欝蒼とした山林に包まれており、民家とは隔絶された世界が広がっているようにも感じた。
 創建年代等は不詳だが、『風土記稿』千手堂村の項に「春日社 村の鎮守なり、村持」とあるように、当社は創建こそ不明であるが、村の開発以来、鎮守として奉斎されてきたという
 
      境内左手にある手水舎       「春日神社拜殿建設記念碑」等の石碑が並ぶ。
 春日神社拜殿建設記念碑  平成元年四月十五日
 建設の主旨と概要
 嵐山町大字菅谷字女堀四九六番地他一筆の四十三人共有地(畑五二五七平方米)七十年間にわたり千手堂字民の食糧生産青年部農場共同桑園として共有の役割を果して来たが市街地区域農地養蚕業の衰退という条件を重なって昭和六十二年遂に売却されるにいたった
 共有者たちは夫々拾万円を拠出して老朽化した春日神社拜殿の建設を発願したのである それは敬神の誠をいたすことであり 同時に約四分の三世紀前共有地を設定し 活用護持してきた我々の祖先たちへの崇祖の思いでもあった 建設の議は大字内外に多数の賛同者を得て多大の寄進をいただき(中略)
 によって昭和六十三年十月完成の運びとなり秋の大祭に落成の式典を挙行することが出来た 茲に建設の大要並びに寄進者の芳名を記し永く後世に留めんとするものである。
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
『比企郡神社明細帳』
 埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字千手堂(せんじゅどう)字明神前(みょうじんまえ) 村社
 祭神 天津児屋根命
 由緒 宝暦(ほうれき)三年(1753)三月本社再建 其他創立年度不詳
 由緒追記
 大正十年(1921)五月二日隣接山林五畝歩、境内編入許可
 大正十四年(1925)
一月八日本殿新築、旧本殿ヲ拝殿ニ引直し、出願許可同年四月十五日竣工
        
                                       本 殿
 
   境内に祀られている境内社・八坂社       本殿脇に祀られている石祠二基
                               詳細不明
        
                                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」GO! GO! 嵐山 3
    「境内記念碑文」等
 

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平沢白山神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町平沢9682
            
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菅原道真公
            
・社 格 旧平澤村鎮守・旧村社
            
・例祭等 113日 99
     
*例祭日…113日は「武蔵国郡村誌」、99日は「菅谷村の沿革」を参照
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0502142,139.3037822,16z?hl=ja&entry=ttu
 志賀八宮神社から一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点に戻り、そこを左折する。国道を750m程南東方向に進み、「平沢」交差点を右折、その後350m程進んだ進路方向右側に平沢白山神社の鳥居が見えてくる。
志賀八宮神社からはこの社まで、南方向で、直線距離でも760m程しか離れてない。
        
                  平沢白山神社正面
『菅谷村の沿革』での武蔵国比企郡平澤村の解説によれば、
地勢 西北山岳ヲ賓ヒ南面傾斜シ東一方田地多シ。北隅ヨリ入、村ノ中央竪切リ、東方菅谷村ヘ至ル秩父往還及東京縣道アリ。埴土多ク通路困難。地内ニ二ケ所坂路アリ。水旱両害アル地ナリ。
所属 古ヘ枩山領(まつやまりょう)、玉川郷(たまがわごう)、大河原ノ庄(おおかわらのしょう)ニ属ス。明治五申年(1872)二月大小區ヲ置キ六大区四小区ト称ス。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ、同年十七年(1884)
七月本村外八ケ村ヲ以テ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク、
と記されている。因みにこの『菅谷村の沿革』は、埼玉県撰の村誌といわれ、明治八年(1875)六月、太政大臣三条実美の示達に基いて県が調査編纂し、地理寮に提出したものの複本という『武蔵国郡村誌』作成のため、村々が調査・記述した資料を県に提出した際、各村にはその複本が保管されており、町村制施行により菅谷村が発足した後、それらの複本が集められ加筆・修正等をされて出来上がったものが、この「菅谷村の沿革」ではないかと考えられている
 
 鳥居を過ぎ、石段を登った正面にある不動堂     不動堂から更に石段を登ると拝殿が見える。

 いつも利用させて頂いている『日本歴史地名大系』での 「平沢村」の解説によれば、「千手堂村の北の山地・丘陵部に位置し、東は菅谷村、北は志賀村。玉川領に属した(風土記稿)。中世には菅谷(須賀谷)から北上する鎌倉街道上道が通っていた。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)七月一三日条に「武蔵国平沢寺」とみえ、当地の平沢(へいたく)寺院主職に永寛が補任されている。長享二年(一四八八)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争は本格化し、顕定方にくみした太田資康は当地に張陣した。同年八月一七日、万里集九は「須賀谷之北平沢山」に入り、資康の軍営を訪れている」と記されている。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平澤村』
 七社權現社
 村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合殿して、七社と號す、されど古は白山のみの社にや、【梅花無盡蔵】の詩社頭月の自註云、九月廿五太田源六於平澤寺鎮守、白山の廟詩歌會、興敬壘相對、講風雅叶西俗無比様と、その詩に、
一戰乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、皆知次第有神助、九月如春月自花、
依て按るに、古へ平澤寺の鎮守白山は、當社のことにて熊野三嶋を合せ、今七社と號するは、長享より後のこと知べし、
『武蔵国郡村誌』
 白山社 村社々地東西六間三尺、南北十一間、面積六十二坪、村の西方にあり。伊弉諾尊を祭る。祭日一月十三日
『菅谷村の沿革』
 白山神社
 所在 村ノ西方字入
 祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 社格 村社
 創建年月日 末詳
 祭日 九月九日
 氏子 四十六戸
 末社 熊野三社、三嶋神社
 現任宮司若クハ祠官ノ名 高坂榮衛
 雑 古ハ熊野三社、三嶋三社、白山一社合殿シテ七社ノ権現ト唱ヒ平澤寺ノ地中ニアリシヲ、神佛混淆スルヲ以テ御一新ノ際今ノ所ニ移シテ改殿シ悉ク末社ニ付ス
 
      拝殿に掲げてある扁額         社殿左側に鎮座する境内社・天神社
 平沢白山神社の創建年代等は不詳ながら、吾妻鑑の文治四年(1188)の条に、武蔵国平澤寺の院主に求寛という僧が任ぜられたと「風土記稿」に記してあり、当社はこの平澤寺の鎮守として創建されたと伝えられている。
平澤寺は、永正年間(1504-1521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後一時的に廃寺となり、本山派修験の持正院が地内に移り住み、当社の別当となった。
『新編武蔵風土記稿』に当社は「七社権現社村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合祀して、七社と号す、されど古えは白山のみの社にや(以下略)」と記されている。恐らく熊野社は持正院により勧請されたのであろう。明治に入り、社名も白山神社に復し、明治四十三年に現在の高台に移され、四年後に社殿が新築された。本殿北側にある石祠は、往時の社であるといわれている。
        
                        社殿北側にひっそりと祀られている石祠
                  元の白山社であるという。

『日本歴史地名大系』「平沢村」の解説で登場する太田資康(おおた すけやす)は、扇谷上杉家の家臣・武蔵国江戸城主太田備中守道灌(資長)の嫡男である。
文明18年(1486年)、父が扇谷上杉家当主である上杉定正に謀殺されると資康は江戸城に戻って家督を継ぐが、定正の追っ手に攻められて甲斐国に逃れる。
長享2年(1488年)、定正と山内上杉家・上杉顕定の間の内紛・長享の乱が勃発すると、同じく定正に追われていた三浦高救(定正の実兄)と共に顕定軍に加わった。これが縁で後に高救の孫(義同の娘)を室とした。この頃、生前の道灌と親しい万里集九が資康の見舞いに訪れて句会を開いている。
 そしてこの平沢の地が、埼玉県指定旧跡である「太田資康詩歌会跡」といわれている。

 埼玉県指定旧跡 太田資康詩歌会跡
 太田源六郎資康は太田道灌の子である。道灌は、江戸城築城等で知られる知将であったが、扇谷、山内両上杉氏の争乱の犠牲となり暗殺されてしまう。/資康は、父の仇敵上杉定正を撃つべく、この地平澤に布陣したという。
 その時、道灌の友であった詩歌の大家で元京都相国寺の僧、漆桶萬里集九は、はるばるこの地を訪れた。時に長享2(1488)817日であった。/萬里が陣中に36日滞在したとき、資康は、萬里のために送別の詩歌会を敵と対峙しながらここ白山神社で催した。/その詩歌会で萬里は社頭月と題し作詞したことが梅花無尽蔵という書に次のように残っている。
 一戦乗勝勢尚加 白山古廟沢南涯
 皆知次第有神助 九月如春月自花

        
                   社殿からの様子
 明応3年(1494年)、定正が事故死し、舅・三浦義同が相模三浦氏の家督を奪還すると、資康も扇谷上杉家への復帰が許されて新当主である上杉朝良に仕える様になった。初め菅谷城に居たが、長享の乱が終結した永正2年(1505年)頃に江戸城へと帰還したという。
 永正10年(1513年)、舅・三浦義同が伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められると援軍に駆けつけるが、相模国三浦郡にて早雲の軍勢に敗れ戦死したとされる。一説には資康の勢力を疎ましく感じていた主君・上杉朝良によって謀殺されたとも言われており、その年次も明応7年(1498年)・永正2年(1505年)などの異説が存在する。 
        
                       平沢白山神社に隣接している平澤寺
 天台宗寺院の平澤寺は、成覺山實相院と号し、当寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に「文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付」とあり、文治4年(1188)には、不動明王を本尊とする有力寺院だったと伝えている。永正年間(15041521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後廃寺となっていた当寺を、慈光寺住職重永(寛永91632年寂)が天正年間(15731592)に中興したという。
 旧本尊の不動明王が奉安される不動堂は、覺長(永禄8年・1565年寂)が創建したと思われる修験持正院が、明治中期まで別当として管理、慶安2年(1649)には65斗の御朱印状を受領していた。当寺所蔵の経筒は、享保年間に長者塚から掘り出されたもので、埼玉県有形文化財に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山Web博物館
    「Wikipedia」「平澤寺内案内板」等

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志賀八宮神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町志賀1512
             
・ご祭神 天照大神御子五柱命・月読命御子三柱命・下照姫命
                  
建御名方命・保食命・素戔嗚命
             
・社 格 旧志賀村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祭日315日・919日 天王様 76日
     
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0515036,139.3084399,18z?hl=ja&entry=ttu
 東武東上線武蔵嵐山駅から菅谷神社方向に南下し、一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点を右折し、小川町方向に進路をとる。その後右手にベイシア嵐山店が見えるすぐ先の交差点を右折し、東武東上線の線路を潜り、丁字路を左折すると、正面に森の覆われた小高い丘陵地面に達し、そこから細い路地に入ると志賀八宮神社の社殿が見えてくる。
        
                    志賀八宮神社正面         
『日本歴史地名大系』 「志賀村」の解説
 菅谷村の北にあり、村域は市野川右岸の低地・丘陵部を占める。北は同川を隔てて杉山村。村内を南北に川越秩父道が通る。古くは四ヶ村・志ヶ村・鹿村などとも記した(「風土記稿」など)。地名の由来は、河岸・川畔にみられる砂地を表す言葉「スカ」が転訛したものという説もある(埼玉県地名誌)。「風土記稿」では寛文年間(一六六一―七三)に菅谷村から分村したといい、「菅谷村の沿革」に寛文五年の検地帳がみえることから、同年頃の分村と考えられる。

 確かに筆者も『新編武蔵風土記稿 
志賀村』を確認してみたところ、「村名古へは四ヶ村と書たりしと、いつの頃より今の文字に改りしとは云は詳ならず」と「四ヶ村」の表記があり、『武蔵国比企郡村誌 巻之七 志賀村』にも「元菅谷村と一村たりしが寛文(かんぶん)の頃分れて二村となり四ヶ村と称せしか後今の文字に改む」と同じような内容であった。但しどのような経緯で「四ヶ村」という村名となったのかについては確認できなかった。
 対して「志ヶ村」「鹿村」に関しては名称自体、確認に至らず。
        
           鳥居の先にある石段を登り終えた先に拝殿が鎮座。
 鳥居の南側正面には東西に走る東武東上線の線路があり、時折電車が走る音こそ聞こえるものの、志賀地域の集落からは離れていて、また山の中腹に鎮座している地形から、境内一帯は静かで落ち着いた雰囲気が漂う。
        
           石段右側に祀られている「大国主大神」の石碑等
        
         石段を登るその中段付近で、段右側に鎮座している境内社。
                           社名を記した木札等が無く、詳細不明。
       
                                         拝 殿
              拝殿の社号額には「「志賀神社 五柱大神」と表記されている。
『武蔵国郡村誌 志賀村』
八宮社 村社。社地東西二十一間南北十七間、面積百五十坪。村の坤(ひつじさる)の方にあり下照姫命(したてるひめのみこと)を祭る。祭日三月十五日、九月十九日
 本村は元五社明神と唱ひ、村民五組分れて氏子となる。明治五年(1872)八月舊入間縣に出願許可を得て今の八宮社合併ス。則天照大神、保食神、諏訪明神、上、下照月女の命の二神を以て五社明神と唱ふ故に五柱大神と尊号す、
『神社明細帳 八宮神社』
 従前五社明神ト唱ヒ五ヶ所ニ鎮座在ス明治五年(1872)八月旧入間縣廳ニ出願許可ノ上合併明治四年中(1871)村社届濟、
 明治四十五年(1912)
三月二十七日同大字字北町裏無格社八雲神社ヲ本社ニ合祀ス、
       
                                     本 殿
     修繕工事中であったらしく、入り口鳥居付近には、多くの工事関係者がいた。

       
                        社の東側にある「志賀の庚申塔」

 志賀の庚申塔
 今から二八一年前の元文五(一七四〇)年の秋、徳川吉宗の時代の直後に、武蔵国志賀村下宿(しもじゅく)の百姓たちが、庚申様の石仏(石塔)を建てました。庚申様は、インドの猿の神様が中国を経て日本に渡来した民間信仰です。鎌倉時代、猿は馬の守り神で、武士の館に飼われていました。村人は庚申様を供養して五穀豊穣などを祈願し、「お日待」をして親睦を深めました。
 元文五庚申十一月吉祥日
 武州志賀村下宿講中
 令和三(二〇二一)年三月二八日修復 志賀一区
                                    「案内板」より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「庚申塔案内板」等 

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遠山八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町遠山263
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧遠山村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春季・秋季例祭 4月・113
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.0397861,139.2877655,16z?hl=ja&entry=ttu
 小川町・下里八宮神社から蛇行する槻川沿いに通る道路で、2.6㎞程進むと、進路方向左手に遠山八幡神社が見えてくる。
 ときがわ町の田黒日枝神社からもこの社は近く、田黒日枝神社沿いで南北に通っている道路を北上し、槻川に架かる谷川橋を渡ったすぐ先の丁字路を左折し、南西方向に750m程進むと進路右手に遠山八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 
境内東側に駐車可能な駐車スペースも確保されているので、参拝前の心配事もなく、安心して散策に望める。
        
                  遠山八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「遠山村」の解説
 外秩父山地東縁の山地に囲まれた槻川左岸に位置する。東は千手堂村・平沢村、西は下里村(現小川町)。交通不便で周囲から遠い山中にあることが地名の由来という(嵐山町誌)。
 玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高一三石余・畑高三五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の御縄打水帳(杉田家文書)によると高七九石余で、反別は田一町九反余・畑一〇町余。名請百姓は二三名おり、寺一。一戸平均の所持田畑は五反ほどであった。
       
                        石段を登り終えた先に社殿は鎮座している。
         社は槻川の左岸段丘上の狭い平坦地を望む山麓に鎮座している。

日本歴史地名大系』による「遠山村」の解説において、交通不便で周囲から遠い山中にあることが「遠山」の地名の由来という。
 加えて社の鎮座地の小字は「蛇跡」。何と読むかも皆目見当もつかないが、地形を鑑みるに、槻川は下里地域から流れが南西方向に変わり、同地域南部でまた流れを東方向に大きく変化して、嵐山渓谷方向に蛇行しながら流入している。
 槻川は清流で有名だが、一度洪水になると、暴れ川に変貌したという。当然、河川流路も変わったのであろう。そして氾濫後の旧河川の跡地を「蛇跡」と命名したのであろうか。
 因みにこの地域内には「蛇谷」という小字も存在していて、他にも「滝守・井上・中沢・茗荷沢」という河川に関連している小字もある。
 
 鳥居手前右側に立つ社郷標柱。その並びに祀られている大黒天と聖徳皇太子の石碑(写真左)。
                        石碑の拡大写真(同右)。
       
                                       拝 殿
 八幡神社 嵐山町遠山二六三(遠山字蛇跡)
 遠山の地は山間の盆地である。地名は他地域との交通が不便で、周囲から隔たった遠い山中の意に由来する。当地の南西方、槻川を隔てた丘陵上には戦国期、小田原北条氏の家臣遠山右衛門太夫光景の居城と伝える小倉城跡がある。当地も同氏の所領であった。
 当社はこの遠山氏にかかわる社と考えられ、隣接する曹洞宗遠山寺は天正八年(一五八〇)に光景が父政景の追福のために中興開基したと伝えられている。当社もこのころには既に祀られていたものであろう。ちなみに北条氏滅亡後、遠山氏の子孫は山下を名乗ってこの地に土着したと伝える。
『風土記稿』には「八幡社村の鎮守なり、遠山寺持」と記されている。最も古い史料としては「八幡宮増成就・宝永六年(一七〇九)十二月廿日・武州比企郡遠山村」と刻む石碑が残されており、この年に参道石段を築いたことがわかる。
 神仏分離によって遠山寺の管理下から離れた当社は、明治四年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用 

             
                  拝殿から見た風景
『新編武蔵風土記稿 田黒村』
 田黒城は村の北の方にて、小名小倉の内にあり。遠山右衛門大夫光景が居城と云ふ。西方二町許の地にして、東北の二方は、都機川、槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年五月卒せし人なれば、爰に住せしも、元亀天正の頃なるべし、

『新編武蔵風土記稿 遠山村』
 八幡社 村の鎮守たり、遠山寺持、
 遠山寺
 曹洞宗、上野國緑野郡御嶽村永源寺末、長谷山と號す、寺領十石の御朱印は慶安二年賜ふ所なり、開山は漱怒全芳永正十五年十二月十五日示寂、開基は遠山右衛門大夫光景と云、過去帳を見るに、當寺開基無外宗關居士、其父政景也、天正八年三月廿三日開基桃雲宗見大居士、遠山右衛門大夫藤原光景、天正十五年五月廿九日とあり、按に此二人ともに開基とのせ、宗關居士の下に此父政景也とあるによれば、其實光景が父政景の追福のために、當寺を草創して父を開基とせしを合せて、二人共開基と記せるに似たり、又開山の寂永正十五年なれば、是も勧請開山なるべし、又按に隣村田黒村に、遠山右衛門大夫光景が城蹟と云地あるを以考れば、當時此邊彼が所領なりしこと知らる、光景が事蹟は他の書に所見なけれど、此人も甲斐守綱景の等の一族にて、共に北條氏に仕へし人なるべし、
 鐘。本堂の軒に掛く銘文中に遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼と云者、大檀那として鑄造せし鐘なりしが、彼破壊せしにより、元禄十一年當寺十一世(山へんに圭)峻和尚の代に再造せしことを載す、

        
                             遠山八幡神社遠景

 武蔵遠山氏(むさしとおやまし)は、藤原利仁を祖とする加藤氏一門・美濃遠山氏の明知遠山氏の一族で、後北条氏家臣として、江戸城代をつとめた。
 元は室町幕府に出仕し、足利義材(後の義稙)の家臣で、奉公衆であったとも伝えられる。
 伝えによれば、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の武蔵遠山氏初代にあたる遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。
 元々この直景と早雲は、同じく幕府に申次衆として出仕していた伊勢新九郎(後の北条早雲)と親密になったと考えられており、遠山氏と同じく関東に下向して重用された。彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。『小田原衆所領役帳』によれば、比企郡野本(現・東松山市野本)・入間郡苦林(現・毛呂山町苦林)などに領していた。
 永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男の隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。『新編武蔵国風土記稿』では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城に拠った遠山直親だとする。直親が江戸城に移った後、小倉城は遠山光景が入ったという。
その後、松山城の支城小倉城主遠山光景の子光房は、同城落城後に本名山下氏に復姓して、曹洞宗遠山寺隣の山下本家屋敷に帰農したという。

 嵐山町・遠山地域のような、小さい地域の中でも調べてみると、確かに深い歴史は存在する。だからこそ、社の散策はやめられないのだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「Wikipedia」等
 

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将軍沢日吉神社

  岩殿丘陵のほぼ中央に位置し、鳩山町と嵐山町の行政境にある「笛吹峠」。標高は80m。かつて鎌倉街道の中で唯一の峠で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所でもある。
 北方に上州の山々、西方に秩父連山、眼下に須江の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は、慈光観音と岩殿観音の巡礼道も交差する鎌倉街道で一番の難所であり、要衝の地であったようだ。正平7年(1352年)閏2月新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍勢と戦った(武蔵野合戦)が、最終的に戦いの決着がついたのがこの峠であった。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後へ、親王らは信濃国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうで、当時の合戦が如何に激戦だったかを裏付けるものである。
 峠の由来については正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が、南朝の宗良親王を奉じてここに陣をしき、足利尊氏と戦った。このとき親王が名月の陣営で笛に心を慰めたことによると伝える。

 笛吹峠から北に1.5㎞程行くと、日吉神社が鎮座する「将軍沢」という地名があり、平安初期には、坂上田村麻呂が地に寄った時に一堂を建立したことに由来するという。
        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 春季大祭410日 秋季大祭102021
 将軍沢日吉神社は大蔵神社の南方に位置し、経路途中は大蔵神社と同じである。国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子線に合流する「上唐子」交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進むと埼玉県道172号大野東松山線になるので、県道に沿って南西方向に進路をとり、都幾川を越えて400m程行くと、信号のある交差点となり、直進すると右手に大蔵神社となり、そこを左折し700m程進むと左側に将軍沢日吉神社の鳥居が見える
        
 将軍沢地区は、嵐山町の最南端に位置して中央を旧鎌倉街道が通り、歴史的にも坂之上田村麻呂氏の伝説があり、みどり豊かな環境の農村集落を形成している。
 春と秋には日吉神社に宮司と遺幣使をお迎えして、五穀豊穣を祈願する。かつて昭和30年代迄は、秋の大祭はササラ獅子舞が奉納されて、賑わっていたが、現在は獅子頭を奉納するのみに留まり、静かなお祭りになっているという。
        
                                将軍沢日吉神社 正面鳥居
 将軍沢日吉神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂が東征の際の延喜10年(910)に天台宗明光寺を建立、明光寺の鎮守として山王社を創建したのではないかとも推測されている。将軍沢の鎮守として祀られ、明治維新後地内の大宮権現社(現将軍神社)、神明社、愛宕社、稲荷社を当社境内へ遷している。
 
 参道がほぼ東側に伸びていて(写真左)、参道の先には将軍沢農村センターが見える(同右)。そして農村センターの左隣には、境内社・将軍神社が鎮座している。
 因みに将軍神社から左側へ直角に曲がった先に将軍沢日吉神社社殿が鎮座しているので、社殿は南側という位置関係となる。
        
                              境内社・将軍神社
 将軍社 祭神 坂上田村麿
 由緒

 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚キテ暖ヲ與ヘリ。其后土人将軍ノ功徳ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋当社ニ因テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷シ将軍社ト改称セリ
                                   嵐山町Web博物館より引用

『新選武蔵風土記稿』においては違った記載もある。
 大宮権現社
 高さ三尺許の塚上にあり、利仁将軍の靈を祭れり、相傳ふ昔藤原利仁、此地を經歴して、此塚に腰掛て息ひしことありし故、かく號すと云、明光寺の持
        
                                         拝 殿
日吉神社 嵐山町将軍沢四二五(将軍沢字東方)
大山咋命を祀る当社は、鎌倉街道上道と呼ばれる街道脇に鎮座する。住宅やゴルフ場などの開発が進み、樹木が次々と伐採される中にあって、当社の境内は杉を主として樹木が多く、緑豊かな環境を守り続けていることから、平成三年には町の保護木の指定も受けている。また、社殿の裏手には、松の大木があったが、近年、松食い虫にやられ、枯死してしまった。かつて、当社の付近は『風土記稿』に「此辺二町許の松林あり、不添の森と云」と載るように、松林であったが、開発や松食い虫の害のため、既に当時の面影はない。
当社の創建の年代は定かではないが、江戸時代には山王社と呼ばれ、明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社は、その寺鎮守として創建された可能性もある。
将軍沢の地名は、村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』よれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し、明治七年に当社の境内に移された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 社殿手前、左側に境内社・山神社・神明社・稲荷社が鎮座している。
 
           山神社                                   神明社

          稲荷社
                 
                 参道に聳え立つ巨木群
  今なお古き武蔵野の面影を残している自然豊かなこの景観を何時までも残して頂きたいものだ。

*追伸として
 将軍沢地区にある笛吹笛吹峠は古くは「ウスエ峠」といわれて、古代人が須惠器を峠越しに運んだ土器の道であったともいう。というのも奈良・平安時代前期のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢地区からときがわ町・鳩山町にかけての丘陵地は「須恵器」の一大生産地帯で、関東でも最大規模であったとの事だ。
 数多く築かれた須恵器の窯は、比企地方の南部丘陵地帯に広く展開し、「南比企窯跡群」と呼ばれていて、この地域で生産された須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物という。

 岩殿丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらに広がり、その丘陵地に奈良時代以降多くの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのための「集落」を形成し、関東屈指の須恵器生産地として発展した。
 将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源、そして地形などの好条件が合致し、沢山の登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていたという。また製品の出荷には丘陵の南北を挟むように流れる越辺川と都幾川が舟を通して利用され、同時に丘陵を縦断する東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道は、武蔵国府(東京都府中市)や国分寺に須恵器と瓦を届けるために開かれたものであったのだろう。


「嵐山町教育委員会」資料の中で、 将軍沢地域は13世紀半ばから新田系氏族である世良田氏の領地となっていたという。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。

 同時に「中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町」では将軍沢地域と世良田氏の関係について以下のように記している。
将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。
また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。

 熊谷市・万吉氷川神社の項でも触れたが、万吉地域周辺も嘗て新田氏の領地が存在していたりと、自分の母方の本家筋が本拠地である上野国・新田荘のみならず、武蔵国内に多くの所領を持っていたことに関心を持つ。新田氏本宗家は頼朝から門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになり、新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体していく一族、という今までの通説で語られてきた歴史観をもう一度再検討する良い機会ともなった。

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