古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

二ッ小屋町稲荷神社・武蔵島町二柱神社・武蔵島町花見塚神社

【二ッ小屋町稲荷神社】
        
             
・所在地 群馬県太田市二ツ小屋町1
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧村社(推定)
 埼玉県深谷市と群馬県太田市との境を雄大に流れる利根川の左岸に位置する太田市二ッ小屋町地域。嘗て平成の大合併前には新田郡の最南端に当たっていたようだ。国道17号上武道路を北西方向に進み、利根川に架かる新上武大橋を渡り、群馬県に入った土手の袂に二ッ小屋町稲荷神社は鎮座している。
 但し、社は新上武大橋の下にあり、一旦利根川を渡り切った先にある「尾島パーキング 下り」から一般道に移る道に移動し、そこから右回りに回り込み、国道17号上武道路を潜るように向かう。その後、群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を南東方向に進行し、突き当たりの丁字路をまた右折、二ッ小屋町地域の集落方向に進むと社が背を向けた配置で見えてくる。
 車両で進行するとこのようにまどろっこしい説明となるので、「尾島パーキング 下り」の専用公衆トイレで車を停めてから、国道から下がる階段があるので、そこからアプローチしたほうが良いかもしれないと痛切に感じた次第だ。
        
                
二ッ小屋町稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「二ッ小屋村」の解説
 新田郡の最南端、利根川左岸に位置し、東は前小屋(まえごや)村、西は武蔵島(むさしじま)村、南は武蔵榛沢郡高島村・同幡羅郡石塚村(現埼玉県深谷市)と利根川中央の国境を限り、北は前島村および堀口村の耕地。北方を早川が東流する。寛文郷帳に村名がみえ、幕府領で畑方のみ。慶応三年(一八六七)前橋藩領となる。大間々(現山田郡大間々町)、木崎(現新田町)より武蔵高島、熊谷(現埼玉県熊谷市)に至る往来があり、村西方の武蔵島境に高島と結ぶ渡船があった。

 
         正面鳥居                     境内にある社号標柱
      鳥居の社号額には「正一位 稲荷五社大明神」と刻まれている。
          由緒書き等が見当らないのでその詳細は不明
        
                    拝 殿
 
右の祠は大杉神社。左側の石祠二基の詳細は不明        社の北側にある地蔵堂 
        
                 社を本殿側から撮影
             国道17号上武道路がすぐ近くを通る。

武蔵島町二柱神社】
        
              ・所在地 群馬県太田市武蔵島町1
              ・ご祭神 不明
              ・社 格 旧村社(推定)
 二ッ小屋町稲荷神社から群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を北上し、早川に架かる「前島橋」を越えた西側に鎮座している。所在地は「太田市武蔵島1」、つまり当地域の中心に位置している社といえよう。
 因みに早川は、群馬県東部を流れる利根川水系利根川支流の河川であり、群馬県桐生市新里町奥沢付近に源を発し南へ流れ、太田市堀口町付近(地図上では埼玉県熊谷市)で利根川に合流している。利根川水系で直接利根川に流入する河川としては、赤城山南麓でもっとも東端に位置し、渡良瀬川水系に関係しない河川である。このため水利権調整上の制約から、利根川上流から取水している群馬用水、大正用水の放水河川となっているという。
        
                 武蔵島二柱神社正面
『日本歴史地名大系 』「武蔵島村」の解説
 南東は二ッ小屋村、北東は前島村・亀岡村字本村、北西は阿久津村元地(現荒久)、武蔵榛沢郡高島村(現埼玉県深谷市)の飛地。北西阿久津村元地より、村の中央を横切り南東に早川が流れ、前島村にかかり、南東境二ッ小屋地先より古利根川に流入している。北方亀岡村字軽浜の銅問屋より銅山街道が村央を通り南方二ッ小屋に至る。早川河口付近に前島河岸の船積場があった。天正一〇年(一五八二)九月一一日の日付のある某判物(宮下文書)によれば、「武蔵嶋」四貫九〇〇文の地が宮下又左衛門に渡されている。
 
        境内の様子            境内道路脇に設置されている社号標柱
        
                    拝 殿
            創建・由緒等の案内板がないため、詳細不明。
       
                 左から湯殿山大権現・弁才天


武蔵島町花見塚神社】
 勾当内侍 (こうとうのないし)は、南北朝時代の女性。生没年不詳。後醍醐天皇に仕え,勾当内侍の職にあったので,その名をもって呼ばれる。一条経尹の三女,行房の妹。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3・暦応1)義貞が越前で戦死すると,尼になって洛西嵯峨に住み,夫の菩提をとむらった。これは《太平記》の伝えるところで,一説には琵琶湖に身を投げて義貞のあとを追ったともいう。
 江戸時代に講釈として『太平記』が広まると、各地に勾当内侍の墓所が作られ、そのうちの一つは当地である群馬県太田市武蔵島町の花見塚神社近くにある。
        
             ・所在地 群馬県太田市武蔵島町87
             ・ご祭神 後醍醐天皇 神武天皇
             ・社 格 不明 
 武蔵島二柱神社から早川の畔沿いに北西方向に進むと、「花見塚公園」が見え、その公園内北側端部に武蔵島花見塚神社が静かに鎮座している。 
        
                 武蔵島花見塚神社正面
 
           社殿の正面上部に掲げてある掲示板(写真左・右)
花見塚神社の由来
新田義貞は元弘三年(一三三三)五月八日生品明神の御前に旗を挙げ十五日鎌倉幕府を倒し建武の中興に大きな功績を上げた。義貞が入洛したのは元弘三年七月で、論功行賞で従四位上に叙せられ上野・播磨両国の国司となる。同年八月五日であった。此の頃から建武二年(一三三五)十一月十九日、義貞、尊氏追討のため、京都を出て鎌倉に向かうまでが国宣の発給や内部調整御所の警備など多忙であったので故郷を立って二年八ヶ月余りその間一度も帰国することは出来なかった。此の後は箱根、竹の下の戦に敗れて京都まで退却、各地の戦いを経て、比叡山で立て篭もり、和解による北陸落ち義貞は北陸の地で討死した。 匂当内侍は藤原の経尹(ツネタダ)の三女一条行房の妹、名前は不明、匂当内侍は単なる官女ではなく内侍を尚侍・典侍・掌侍に分け各正四人権二人、合計十八人其の第一位を匂当内侍という、匂当は事務を担当して処理する。奏請は天皇に奏上して裁可を請うこと、伝宜は勅旨を伝達すること等を掌る。女官の中でも天皇に一番近い重要な役職であった。
義貞と匂当内侍の出会いは義貞が入洛して建武二年義貞の尊氏の追討軍をだすまでの間で早い段階ではなかったか。年若く美人で教養が豊富、特に琴の演奏などには素晴らしいものがあった。気脈が通じ合うのも早かった。お互いに御所のなかでの勤務が幸いした。天皇の一声で目出度く結ばれた。
運命の悪戯か戦いが休みなく続き義貞最後の日がきた。例に依て都大路を引き回され晒首になっていた。匂当内侍は悲嘆にくれその場に崩れ伏した。お供の衆に助けられ首を持ち去った。髪を剃り墨染の衣に身を包み義貞の故郷えの旅は長かった。漸く目指す武蔵島ゆかりの地にたどり着き、柊の木を植え其の傍らに義貞の首を埋め、成仏を念じた。
その傍らに簡素な庵を建て以来三十年に及ぶ仏道修行の日が続く。毎日一本の躑躅の木を近くの山林から取り集め植えることにした。これが花見塚の基礎になった。
正平元年八月十六日(一三四六)宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死しその勢いが衰えるさまを心配され御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した花見塚神社を建てられ南朝の皇運を祈られた(宮下相伝記)
然し宝暦元年四月(一七五一年)火災により焼失して今日に至る。
このゆかりを以て昭和四十五年(一九七〇)下野入道南順の後裔宮下一族相集まって花見塚神社を再建するに至った。
以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族会議のうえ多数の賛助者、協力者を得、上屋の新築、宮殿改築完成の運びとなった。(以下略)

須賀神社由来
祭神 宮下筑後守正繁
   横瀬信濃守泰繁
宮下筑後守正繁公は天文十四(一五四五)年四月小田原の城主北條氏康の旗下武蔵国忍の城主成田下総守氏長の軍勢が当新田領へ侵攻して来た事を岩松の住人森隼人、古海の住人小島三郎両人より注進を受けた、依って直に幕僚長尾新六郎渕名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁と共に従えて武蔵国(現・妻沼聖天様南)堰宮に出陣した。防戦大いに努めると雖も敵勢剛強にして激闘遂に利なく堰宮の陣を退き払い、羽生より新田庄南田島東南武蔵島村の飛地、須賀山村に退いた。然るに俄に前後より伏勢起こり善戦遂に空しく正繁、泰繁の両将相共に此処に自刃して果てられた。
正繁公の嗣子又左衛門繁貞は天正元年(一五七三)年十月父正繁公と泰繁公の両霊を祀り須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。又泰繁公の嗣子由良成繁は社領を寄進した。其の寄進状には「須賀社領の事。新田堀口領分の内六石弐斗を祭祀料として…天正元年十月二日由良信濃守成繁(花押)宮下又佐尉殿」とある(以下略・宮下相伝記)
以来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが、弘化三年(一八四六)の利根川大洪水の為社殿も神域も荒廃に帰したので二柱神の境内に遷座されたが幾星霜を経るに従い社殿等は損壊して形を止めぬようになった。
昭和四十五年十一月三日(一九七〇)下野入道南順の子孫宮下一族相集まって花見塚神社を再建するにあたり同社に合祀した。
下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王の室(母は匂当内侍の女山吹姫となり宮の一字を賜り下野の下と合わせて宮下となり国良親王の第一子正治の時始めて宮下を名乗りました。(宮下家正系図)以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族合議のうえ多数の賛助者、ご協者を得た。そして上屋の新築、宮殿の改築、完成の運びとなった。(以下略)

 掲示板に載る宮下家は「群馬県立文書館HP」によると、中世以来の系譜を引く旧家として知られており、明治18年(18858月下旬には太政官修史館の編輯副長官重野安繹らが古文書調査に訪れ、戦国期から江戸初期の古文書の一部を借り出すと共に、その所蔵目録を作成している。安政2年の過去帳(宮下家所蔵)によれば、戦国期から江戸初期にかけて宮下筑後守正繁(天正元年没)などの名前が見えることから、宮下家の先祖はおそらく中世武士の系譜を引き、戦国期には金山城主由良信濃守の幕下として仕え、江戸時代に土着したと推定されているという。
 なお、
宮下家屋敷の南側には花見塚公園があり、園内には匂当内侍に縁のある墓石や花見塚神社などの史跡もある。なお、江戸時代は正徳年間に二家に分かれ武蔵島村の名主を務めている。
        
                 花見塚公園の案内板
 花見塚公園
 江戸時代初期の頃まで、この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていた。
 建武の中興に功績のあった新田義貞は、後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜った。当代一の美人と言われた内侍のために、義貞はこの地に新しい館を構え、その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言う。義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、柊塚とか花見塚と呼ばれていた。
 寛永四年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、今のつつじが岡公園の古木がそれで、樹齢八百余年を経ているのもあると言う。公園は、世界一のつつじの名所となっている。
 その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、わずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものである(以下略)。



参考資料「群馬県立文書館HP「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「ウィキペディア(
Wikipedia)」「境内案内板」等

拍手[0回]