古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

出塚町飯霊神社・出塚町大和神社(行者堂)

【出塚町飯霊神社】
        
             ・所在地 群馬県太田市出塚町122
             ・ご祭神 保食神(宇気母智命)(推定)
             ・社 格 旧村社(推定)
             ・例祭等 不明
 国道17号上武道路を伊勢崎市方向に進み、「阿久津」交差点で左折、群馬県道298号平塚亀岡線を1.4㎞程西へ向った丁字路を右折すると、周囲一帯田畑風景の中、ポツンと社の社叢林が見えてくる。
  社叢林の手前に鳥居が建ち、その手前は参道が伸びていて、一般道と参道の間には細長い路肩がある。よく見ると、その空間は駐車スペースにもなっていて、そこの一角に停めてから参拝を開始する。  (参拝日 2023年7月11日)
               
                 出塚町飯霊神社正面
『日本歴史地名大系』 出塚(いでづか)村」の解説
 北境を石田川が東流し、東は粕川(かすかわ)村・安養寺村、西は世良田村・徳川郷。南方の出塚本村(いでづかほんむら)、北方の出塚新田からなる。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)には、空閑の郷々一九ヵ郷の一として「いてつか」がみえ、義重の庶子らいわう(義季)の母へ譲られている。同所はその後大館(おおたち)郷に属したらしい。観応三年(一三五二)六月一八日、尼了観は大館郷内出塚村半分北方の所当一八貫文の地を長楽寺へ寄進した(年月日未詳「長楽寺寺領目録案」長楽寺文書など)。
 寛永二年(一六二五)当村内三〇〇石が天野小三郎に与えられる(記録御用所本古文書)。
                
                 鳥居の左側にある社号標柱
 この標柱の側面には「鎭座地 上野國新田郡世良田村大字出塚字飯靈壹〇貳番」と刻まれている。
        
                                     拝 殿 
             案内板等がないので、由緒等の詳細は不明
     拝殿右側奥に境内社があり、社殿奥にも石祠群があるが、これも詳細不明

 飯玉神社(いいだまじんじゃ)は、保食神(宇気母智命)を祭神とする神社である。旧上野国(群馬県)の利根川流域、利根川と烏川の分岐点を中心にこの川沿いに新田郡、那波郡、群馬郡東部にかけて分布する神社で、その他、旧武蔵国(埼玉県北部)に数社程度、旧信濃国(長野県東部)の地域に一社鎮座している。群馬県伊勢崎市堀口町四七二番地に鎮座する飯玉神社(那波総社飯玉神社)が先述の地域に鎮座する飯玉神社・飯福神社の総本宮である。
        
                          拝殿に掲げてある「飯霊神社」の扁額
 中世鎌倉時代に当地域を領した那波氏が飯玉神社(伊勢崎市堀口町鎮座)を氏神とし、領有した地域に分霊を勧請したと推察されている。江戸時代には九十九社の分社が存在していたとされるが、明治時代に神社の統廃合が政府によって行われており、現存する神社数は減少しているが、伊勢崎神社(伊勢崎市本町鎮座)は旧飯福神社、倉賀野神社(高崎市倉賀野町鎮座)は旧飯玉神社であり、行政の流れの中で社名を変更した神社も存在する。
 上野国神名帳には「国玉明神」と掲載されており、主祭神はおそらく保食神との二柱と推察できる。
 太田市出塚町に鎮座する飯霊神社の「飯霊」も「いいたま」といい、位置的にも那波郡から近く、飯玉神社系列の社と考えられる。
       

【出塚町大和神社
(行者堂)
        
             
・所在地 群馬県太田市出塚町641
             
・ご祭神 役君小角
             
・例祭等 八丁〆 71日 夏祭り 867
 国道17号上武道路を伊勢崎市方向に進み、「阿久津」交差点で左折、群馬県道298号平塚亀岡線を1.4㎞程西へ向うと進行方向左手に出塚町大和神社が見えてくる。
        
                 
出塚町大和神社正面
        
               境内に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 大和神社(行者堂)案内
 所在地 新田郡尾島町大字出塚字本村六四番地ノ一
 祭 神 役行者 疫病除け・子育ての神
 もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置する。役行者は役君小角・役小角・役の優婆塞・神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳呪術者で、修験道の祖とされる。僧衣をまとい、頭巾をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、足には一本歯の高下駄をはき、左右には、前鬼・後鬼という二体の鬼を従者として伴う。
 寛平年間、大和から来た僧が、この像を背負って長福寺に入ったという。其の後文化十二年(一八一五)、徳川から発した大火災で長福寺は全焼し、この像も半焼となったものを家中から搬出した。そこで村民相談の結果、新たに同じ像一体を彫刻させ、半焼の古い像は御隠居様と呼んで、別に厨子に保存し、現在にいたっている。
 行者堂は、もと現在地より南西役五十メートルの地にあり、萱葺の東向き建物だったが、明治二十九年(一八九六)いまの堂が南向きに建てかえられ、さらに昭和十四年(一九三九)もと揚伝寺敷地である現在地に移築された。この際、大和から運ばれた像に由来するところから、大和神社と呼ばれるようになったが、村民の間では古くから行者堂、行者様の名で通っている
 祭日 七月一日   八丁〆
    
八月六~七日 夏祭り
 八丁〆は珍しい祭りで、竹縄(若竹を薄く割り、より合わせた縄)を輪にして、中央に修験者が坐り、般若心経を唱えながら太鼓を打つ。村人はそれを囲んで竹縄の輪を左に回しながら「ナイダー、ナイダー」と唱えて三まわりし、一同総立ちになる。つぎに竹縄を柱の角で、「ナイダー、ナイダー」と唱えながら交互に引き合い、摩擦して短く切る。その切れはしを各戸に一片ずつ持帰り、それを輪にして入り口や床の間に書け、疫病除けのお守りとする。疫病にかかって高熱が出た時、これを煎じて飲むとふしぎに熱が下がるという。竹は本来、漢方の解熱剤でもある。
 八月六日の宵祭りは、かつては大変な人出でにぎわい、七日には神輿が各戸を巡って、疫病除けを願ったものである。(以下略)                       案内板より引用
       
                                   拝殿内部
     「大和神社」と書かれた社号額の奥には「
役行者小角」の奉納額もある。
   
      拝殿の右側から県道沿いにかけて、L字状に庚申塔や二十二夜塔、
       馬頭観音、青面金剛などが並んでいる。(写真左・右)



参考資料「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
         

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