新田上田中町・太奈荷神社
・所在地 群馬県太田市新田上田中1077-1
・ご祭神 宇気母智神(保食神)
・社 格 旧上田中村鎮守 旧村社
・例祭等 不明
太田市下田中・田中神社から一旦群馬県道315号大原境三ツ木線に戻り北上、「いずみ団地入口」交差点を左折する。群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に合流後、閑静な住宅街を愛でながら550m程進んだ「A・COOP新田店」のある丁字路を右折、県道292号線上に続いた住宅街から一転して田畑風景が周囲一帯広がる中、1㎞程北上した農道沿いにこんもりとした社叢林と共に新田上田中町・太奈荷神社が見えてくる。後日地図を確認すると、:境東新井神明宮や七母女天宮の東側に位置している。
因みに「太奈荷」と書いて「たなか」と読む。
道路沿いに建つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「上田中村」の解説
大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地にあり、北西の本村と南東の六供(ろつく)の二集落からなる。東境を石田川が流れ、北は大根村、東は上江田村、南は下田中村、西は東新井村(現佐波郡境町)・花香塚(はなかづか)村。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「たなか」とみえる(→田中郷)。寛文四年(一六六四)の武蔵忍藩領知目録(寛文朱印留)に上田中村とみえる。寛文郷帳では武蔵忍藩領と旗本小栗・榊原・妻木領の四給。田方五九一石五斗余・畑方一九六石九斗余。元禄郷帳では旗本領の六給。天保三年(一八三二)には旗本山岡・大岡・妻木・榊原・板橋・武藤領の六給(「山岡十兵衛知行所村々高帳」赤石文書)。東部の水田は石田川、中央部の水田は村北部にある天沼水系による。
新田上田中町・太奈荷神社正面
新田上田中町・太奈荷神社の創建年代等は不詳ながら、当社は村の鎮守様として建立され、当初は「飯玉神社」と称していたそうだ。ご祭神は五穀起源の神様である宇気母智命。下田中にも田中神社があったことから、区別するために「太奈荷」としたという。
拝 殿
源姓新田氏流田中氏は、上野国新田郡田中村より起こった一族であるが、上田中と下田中という小さな区域でその系統はハッキリと分かれている。新田下田中町・田中神社の創建には、同じ清和源氏ながら畠山氏流岩松氏が関与していたに対して、上田中は新田系里見氏一族である里見義俊(大新田竹林太郎)の次男・田中義清が上州新田郡田中(上田中)に移り住み、田中氏と称したという。当地域内には、上州新四国八十八ヶ所・三十四番札所・真言宗智山派田中山「長慶寺」があるのだが、その由来記によると、源姓新田氏流里見氏一族である田中五郎義清が高崎の里見から当地に居住し、長慶寺はその義清の館跡であるとしている。
この里見田中氏は、本家である新田義貞に従って転戦して、南北朝時期は南朝方として戦ったがゆえに、多くの一族が戦没しその勢力は徐々に衰え、義貞の孫の貞方(義邦)・貞邦(貞国)父子が挙兵しても、その麾下に加わらない一族も出たようだ。そのために北朝方で、同族の足利将軍家の当主の足利義満から安堵を得たようであり、新田郡田中郷に戻って、当地を拠点としたが、室町時代中期に起こった「上杉禅宗の乱」にて、上杉方として幕府方である同じく同族である足利氏一門の新田岩松家と抗争したが、上杉禅宗(氏憲)が大敗したために、一族は四散し、断絶したという。
なお、『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、田中五郎義清の子孫は田中与四郎であり、安土桃山時代の茶人・千利休のことであるというが確証はないとの事だ。
『千家系譜』「里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤」
『千利休由緒書』「利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候」
拝殿前に聳え立つ黒松のご神木(写真左・右)
境内に設置されている指定文化財の案内板
新田町指定天然記念物 太奈荷神社の松
指定 平成五年九月九日
所在地 新田町大字上田中一〇七七-一
太奈荷神社拝殿前の松を一号樹、社殿西にある松を二号樹として指定しました。一号樹は、目通幹囲三・八二メートル、根本幹囲五・三九メートル、株周九・八メートル、樹高二十六・五メートルを計ります。
二号樹は、目通幹囲三・八メートル、根本幹囲五・二メートル、株周七・五メートル、樹高二十七メートルを計ります。
この二本の松はクロマツで、樹齢は三百年から三百五十年と推定されます。新田町では、このような古木、大木はほとんどありません。群馬県内でも樹齢が三百年に及ぶクロマツは少なく、貴重な樹木です。(以下略) 案内板より引用
「水事碑」「社務所遷築寄付芳名」「喞筒購入紀念碑」等記念碑が5基纏めてある。
記念碑の奥に纏めて祀られる石祠・庚申塔・青面金剛
前列一番左側の石祠は稲荷、奥に並んである石祠三基は不明。
社殿裏にある宝篋印塔。奥の石祠は不明。 社殿右側に祀られている末社石祠二基。
右側の石祠は秋葉山
ところで、上田中地域にある長慶寺には由来記があり、その由来記では「古えは七堂伽藍荘厳にして大いなる山門ありしも新田氏滅亡の後は廃類し遂に取り崩し往時の面影は宝篋印塔を残すのみとなった」「長慶寺の名の由来は、南朝三代・長慶天皇を新田一族が報じて戦ったため、長慶寺はその伝承の御陵塚を祭る祭主なる以って、放光(宝)寺を長慶寺と改号せりと、伝えられている」と載せている。
長慶天皇は第98代にして南朝第3代天皇となる。史料の少なさから在位が確認できず、正式に皇統に加えられたのは大正15年(1926年)である。長慶天皇は後亀山天皇に譲位後も、南朝への協力を求めて各地を潜幸したという伝承がある。そのため長慶天皇御陵とされる場所が全国に数多く存在するのだが、当地もその候補地の一つである。
新田上田中町・太奈荷神社の西側にある湧水池「清水」。
周囲コンクリートに囲まれた小さい池である。
清水の案内板
新田の湧水地 清水(しみず) 所在地 太田市新田上田中町
清水湧水地は、大間々扇状地に起因する新田湧水群の一つで、数万年前から今に至る長い間、湧き続けています。
江戸時代中期に描かれた用水絵図を見ると、上中集落を南下する長溝川と、清水湧水をはじめ周辺に点在する湧水を引き入れ、上田中集落の南に広がる水田を灌漑した様子が分かります。
東には、太奈荷神社(旧飯玉社)が祀られており、水に関係した社であったものと考えられます。また南には中・近世の環濠館跡があり、濠にもこの水を利用しました。
このように、清水湧水地は古代から現代まで、地域の人々にさまざまな恩恵をもたらしている貴重な財産です。(以下略) 案内板より引用
参考資料「日本歴史地名大系」「「太田市観光物産協会HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板」等
