古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上鹿山高麗川神社

 上鹿山地域は、新田氏あるいは武田氏の家臣が住み着いて開発した村であるといわれ、南北朝時代には家も六軒しかなかったと伝えられている。当社が隣接する猿田の人々によって勧請された社であることから推察すると、上鹿山よりも猿田の方がより早く開けた場所であったと思われる。
 当社は、武運の神として知られる日本武尊を主祭神とし、また、武士によって勧請されたとも伝えられていることから、創建当初は土着の武士の氏神として、あるいは守護神として信仰されたものと思われる。その後、村の発展に伴い、村の鎮守としても性格を強め、今日においては、明治42年に合祀した諸社が旧地に復したにも関わらず、旧高麗川村の鎮守として広く信仰されている。
 もともと、この辺り一帯は、中世においては鹿山村と呼ばれていたが、近世に至って現行の大字に相当する上鹿山・中鹿山・下鹿山・鹿山の四つに分かれた。しかし、この分村の理由は明らかでないという。
        
             
・所在地 埼玉県日高市上鹿山170
             
・ご祭神 日本武尊 橘姫命
             
・社 格 旧上鹿山村鎮守・旧指定村社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春祭り 41415日 祇園祭81415
                  
秋祭り 111415
 JR八高線「高麗川駅」ロータリーから駅前通りを西行し、最初の十字路である「高麗川駅」交差点を左折し、道なりに南下する。途中、埼玉県道15号川越日高線の高架橋を潜るのだが、そのまま200m程進むと、進路右側に上鹿山高麗川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場は境内北側隣に確保されていて、わかりやすく便利である。
              
                道路沿いに建つ社号標柱
       
                 上鹿山高麗川神社正面
『日本歴史地名大系』による「上鹿山村」の解説
 野々宮村・猿田(やえんだ)村の東にあり、東は女影・中鹿山・鹿山・原宿の各村。ほぼ中央を小畔(こあぜ)川が北東へ流れる。南北に相模国から上野国への道が通る。古くは中鹿山村・下鹿山村・鹿山村と一村であったといわれる。小田原衆所領役帳には、他国衆の三田弾正少弼の所領として高麗郡の「賀山」がみえる。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田七四石余・畑六四石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本雨宮領。
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 高麗川神社
 当初は八剣神社と称し上鹿山村社でしたが、明治11年に同じ上鹿山の八坂神社、稲荷神社が移されました。明治42年には中鹿山村社の熊野神社、下鹿山村社の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿村社の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改めました。しかし、昭和15年ごろに旧村社を分祀したため、合祀前の状態に戻りました。
 高麗川神社は、日本武尊、橘姫命の2柱、八坂神社には素戔嗚尊、稲荷神社には倉稲魂命を祀っています。
 境内の中央に四方に広げてたたずむ「タブの木」は、根本近くから二股に分かれ、2本の木のように見えます。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mです。樹高はともに約22mをはかります。樹齢は約300年と言われ、御神木として大切にされています。
 境内入口には大正5年頃に青梅農林学校より当時の上鹿山青年会が苗木を分けてもらい植樹した「ゆりの木」があります。北米原産の木蓮科の樹木で、成長が早く平成21年に伐採しました。現在の幹周りは3.4m、樹高は約10mをはかり、樹齢は90年になります。

 八坂神社の祭ばやし   市指定文化財 無形民俗文化財
                 昭和62427
日 指定
 毎年81415日に行われるギオンマツリと呼ばれている八坂神社の例祭で、豊作祈願と安全祈願、悪疫退散の願いを込め、祭りばやしを奉納しています。
 本社の囃子は、福原村中台(川越市)に伝わる王蔵院(世田谷区)の王蔵院流旧祭囃子を教わったのが始まりだと云われています。
 お囃子は山車の上で演奏され、子どもたちが曳き綱を引いて上鹿山地区を一巡します。山車は江戸時代末から明治時代の半ばに北多摩郡砂川村(立川市)で使われていたもので、飯能市宮本町に渡り、大正時代になり上鹿山で使われるようになりました。
 編成は笛1、締め付け太鼓2、大太鼓1、金15人で演奏します。代表的な曲は屋台、昇殿、鎌倉、子守、ニンバなどです。獅子、三番叟、にんば、おかめ、ひょっとこ、外道、白狐などの踊りに合わせて次々と曲が変化しています。
 平成222月 日高市教育委員会
                                      案内板より引用 

        
               上鹿山高麗川神社 境内の様子
 高麗川神社の創建年代等はハッキリと分かっていないが、『新編武蔵風土記稿』において「八劔社」と称し、猿田村のものが日本武尊を讃えて祀ったとも、元亨2年(1322)に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請したとも伝えられ、どちらの伝承にしても猿田村の人が創建に関わっていたとされている。
 江戸期には上鹿山村の鎮守として祀られ、慶安2年(1649)には江戸幕府より社領3石の御朱印状を受領している。明治11年に上鹿山の八坂神社・稲荷神社を当社境内へ遷座、明治42年には中鹿山の熊野神社、下鹿山の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改称したとの事だ。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上鹿山村』
 八劔社 日本武尊・橘姫命を祭ると云、慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、村の鎭守なり、例祭九月廿九日、社の傍に橘の樹あり、圍二丈許、神職田中賴母吉田家配下なり、
 稲荷社 西光寺持、下皆同じ、天王社 山神社 二月初午の日例祭あり、辨財天社 丹生社
 花木明神社 中鹿山村泉乘院の持、
 愛宕社 村持
 
 拝殿にある廻りの外廊下正面左側には4枚のパネルが展示されていて、左側から県知事より神饌幣帛供進神社の指定を受けた書面(写真左)、その右隣には高麗川神社(旧社号 八剱神社)の案内板(同右)が設置されている。
        
  高麗川神社の右隣には、明治23年10月30日に発表された「教育勅語」の全文が、一番右側には「八劔神社」の由来・案内板が展示されている。
   
         本 殿               本殿右側にある「山車庫」
 当社において、最も賑わっているのは、8月14・15日に行われる「八坂神社の祭ばやし」である。八坂神社の例祭でもあり、嘗ては「天王様」と呼ばれていた。この行事は、本来は疫病除けとして執行されていて、境内社の八坂神社の例祭でもあった。しかし、現在では夏の風物詩的な行事となり、祭り本来の意味は薄れてしまったようだは、年々賑わいを増しており、氏子のよき親睦の場となっているようだ。
 
    拝殿から一番左側に祀られている       八坂神社の右隣に祀られている
       境内社・八坂神社              境内社・稲荷神社
        
                   境内中央に孤高の如く聳え立つ椨(たぶ)の古木
 この古木は、根本近くから二股に分かれ、如何にも2本の木のように見える。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mで、樹高はともに約22mをはかる。樹齢推定400年とも推定され、老樹の根株のひこばえから成長したものであると伝えられている。勿論当社のご神木である。
        
           
椨(たぶ)の古木の根元に祀られている丹生宮の石祠



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
 

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女影霞野神社

 中先代の乱 (なかせんだいのらん)とは、1335年(建武27月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱である。当時執権北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」とよぶのに対し、その再興を図った時行を「中先代」と称された。この年6月、北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが、公宗と呼応するはずであった時行は、旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し、武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。直義は監禁中の護良(もりよし)親王を殺害したのち三河まで退去し、時行軍は鎌倉を占拠した。最終的にこの反乱は、東下した足利尊氏に討たれ、20日程鎌倉を占領しただけで敗走した。乱後、尊氏は朝廷からの帰京命令に従わず、関東にとどまり、南北朝内乱の端緒となった。
 日高市女影霞野神社境内には、嘗て鎌倉幕府復興のために信濃で挙兵した北条時行軍が、武蔵国へ入り、鎌倉将軍府軍と最初に戦った女影ヶ原古戦場跡碑がある。720日頃に女影ヶ原にて鎌倉将軍・成良親王の近衛組織である「関東廂番」の筆頭である渋川義季や関東廂番の二番頭人を務める岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を破り、両人はそれぞれ自害・打死をしている。この女影原の合戦の場となったのが、現在の女影霞野神社周辺と言われている。
        
             
・所在地 埼玉県日高市女影444
             
・ご祭神 建御名方命
                        
・社 格 旧女影村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例祭 1010 
 鶴ヶ島市立中央図書館から国道407号線を南下し、2.5㎞程先にある「高萩北杉並木」交差点を日光脇往還(にっこうわきおうかん)道方向に進む。因みに、日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号線沿いには「日光街道杉並木」という名称で杉並木が今でも残っている場所がある。その後、JR川越線踏切を越えた「高萩」交差点を右折、同県道15号川越日高線に合流し、西行すること1㎞程先にある「女影」交差点を左折し、暫く道なりに進むと、女影霞野神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。 
        
                  女影霞野神社正面
 社が鎮座する地域名「女影」は「おなかげ」と読む。『新編武蔵風土記稿 女影村』によると、当地域の南西にある「
千丈ヶ池(現仙女ヶ池)」に投身して死んだ「せん」という女性の影が時として池に映ることから起こったという伝説じみた話を載せている。
新編武蔵風土記稿 女影村』
「村内に千丈ヶ池と云池ありて、往古せんと云ひし女此池に身を投げて死せしが、その後いう女性の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより、村名も起りしといへり、最妄誕のなることは齒牙を待ずして知られたり、千丈の名義據をしらず、この邊古戦場なれば、直ちに戦場ヶ池と號せしを、後世文字をかきかへしとみゆ、」
「千丈ヶ池 一に仙女ガ池とも云、西の方にあり、その名の起りは村名の條に辨ぜり、長六十間、幅四十間許、池中蓴菜を生ず、」
 また、
承久の乱の際、承久3年(1221)6月13日―14日の宇治橋合戦で死傷した幕府方の武士のうちに「女影四郎」・「女景太郎」の名がみえ(「吾妻鏡」同年六月一八日条)、ともに当地名を名乗る武士と推定されている。
「【東鏡】承久三年(一二二一)六月十四日、宇治橋合戦打死の中に、女影四郎と出し注に、武藏と書たり、是恐くは當所の人にて、在名を氏に名乗しならん又同時手負人の中に、女景太郎ありて假名をめかけと注せり、是恐らくは女影の誤寫にて、此人も四郎が一族なるべし、又女影原の事は【太平記】等にも載たれば、とにかく古き地名とみえたり、」
        
             歴史を感じながらも静かに鎮座する社
     100m程の参道の両側には大きな杉の木が立ち並ぶ。社殿は珍しい西向きである。
 社の入口には南北に走る道は「鎌倉街道上道」である。鎌倉街道には、信濃、越後方面を結ぶ「上道」、奥州方面を結ぶ「中道」、下総、常陸方面に向う「下道」の三本の幹線道路があり、日高市を通過している「上道」は狭山市柏原から入り、大谷沢、女影、駒寺野新田を経て毛呂山町大類へと向った。特にこの地は、周囲の展望が見渡せる交通の要地でもあった為、度々中世の合戦の舞台となった歴史ある道であった。
        
                   境内の様子
 もとは女影村鎮守社・諏訪神社であり、承久3(1221)年、信濃国諏訪頼重家臣の春日刑部正幸が兜の八幡座を祀り、その後、明治43年に中沢・女影地区の12社を合祀し霞野神社と称したという。「霞野」という社名は、「埼玉の神社」では、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによるといい、『風土記稿』には「霞郷 合村六、今栢原村の内霞ヶ関の名跡あり、これより起りし名なるべし、」と載せている。
 
 社殿に通じる石段の手前左側にある手水舎    参道右手に設置されている幾多の案内板
                        当地の歴史の深さを物語る案内板でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
『新編武蔵風土記稿 女影村』
 諏訪社 村の鎭守とす、例祭は七月廿七日、常光寺の持なり、下同、天神社 稻荷社
 八幡社 長楽寺持、下同じ、 辨天社 八幡社
 白鬚社 これも村の鎭守なり、清泉寺持なり、下同じ、八幡社
 天王社 夏福寺持、下同じ、雷電社
 荒神社 此社の後に槻一株あり、圍三丈九尺餘、神職鈴木土佐吉田家の配下なり
 愛宕社 村持、

 霞野神社(おすわさま)  日高町女影四四四(女影字諏訪山)
 鎮座地女影の地名は、地内の千丈ヶ池に投身した女「せん」の影が池中に現れたことに由来するという。鎌倉と奥州、上州との交通の要所にあり、展望のきく地であるため、しばしば合戦が行われた。主なものに建武二年七月の北条時行軍と足利直義軍の激突、観応三年の南朝・北朝の合戦などがある。
 社記によると、当社は、承久三年五月一〇日に信濃国諏訪頼重の家臣春日刑部真幸が宇治川の出陣に当たり、この地に来て、守り神である諏訪明神に武運長久を祈って兜の八幡座を祀り、武門の神として社を建立したことに始まり、その後、領主逸見光之丞が武運長久を祈り毎年供米一俵ずつ奉納した旨が記されている。
『風土記稿』には「諏訪社 村内の鎮守とす、例祭七月廿七日、常光寺の持なり」とある。
神仏分離により別当の天台宗常光寺住職貫如は復飾して松浦頼清と名乗り、神職となる。明治五年、旧来の産土神であることから村社となり、同四十三年に地内の神社一二社を合祀、社号を霞野神社に改めた。霞野の名は、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによる。
 主祭神は建御名方命である。内陣には、厨子内に岩山を模した神座を設けて銅製の神像(高さ二・一センチメートル)を祀るが、この神像は、普段は神職家で保管し、祭りの時だけ本殿に安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当地方一帯で養蚕が盛んであった戦前まで、当社は養蚕の守護倍盛の神として信仰され、その信仰圏は地元を中心として飯能の平松・川崎あたりまで及んだ。戦後、養蚕業は廃れてしまったが、代わって茶の栽培が盛んになったという。
       
         石段上で、社殿の両側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        
            拝殿に掲げられている「霞野神社」の扁額
        
            拝殿左側手前には、幾多の記念碑が建つ。
一番右側には「女影ヶ原一の宮霞野神社合祀記念碑」、その左並びには「伊勢講記念碑」が2基。
        
                 社殿左側にある宝物殿
 当地には獅子舞があり、415日の春祭りに奉納されたという。獅子頭が竜に似ているところから「竜頭舞」また、雨乞いの霊験から「雨乞い獅子」とも呼ばれている。獅子頭は太夫・男獅子・女獅子の三頭で、曲目は「太刀」「願獅子」「追獅子」などである。14日は「ブッソロイ」と称し、神職家が保管する神像を神社へ納めて一同で拝み、午後同家から行列を組んで神社に向かう。まず「宮回り」を行い、次に境内中央に移り、若手・隠居の顔でそれぞれ太刀を舞うとのことだ。
 現在、獅子舞は行われていないが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝など使われていた諸道具が、氏子によりこの宝物殿に大切に保管されているのであろう。
        
                          社殿右側奥に祀られている境内社三社
               左から天神社・疫神社・御嶽社 
       
           境内社三社の右側にもご神木あり(写真左・右)
     またご神木の根元には「山〇〇」「雷神宮」と表記された石祠が祀られている。
   このご神木の奥にある「女影原古戦場碑」の撮影を忘れてしまったことが悔やまれる。
        
               境内より一の鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日高市HP
    「改訂新版 世界大百科事典」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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高麗神社

 高麗郡は武蔵国のほぼ中央部、外秩父丘陵地帯に位置し、入間郡の中に割り込んだ形になつている。四囲は、入間・多摩・秩父の各郡と接していておおむね現日高市および飯能市(もと秩父郡に属していた北西部の吾野地区を除く)の地域である。
  奈良時代霊亀2年(716年)に時の朝廷が駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野等7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初であるという。当時高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。『和名抄』は「古末」と訓じている。
 また武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで、不思議とかつての朝鮮半島に実在した、または朝鮮の国土を統一したれっきとした国の名前である。
  ある説では北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれているが事の真相はどうだったのだろうか。
        
              ・所在地 埼玉県日高市大字新堀833
              ・主祭神 高麗王若光 猿田彦命  武内宿禰命                                      ・社 格 旧県社 別表神社                
                ・例 祭 1015                                                                  
 
 高麗神社は、埼玉県日高市にある。最寄り駅は西武池袋線の高麗駅で、関東平野の西の端、奥武蔵の山々の先端にあたり、付近を流れる高麗川と山々をめぐるハイキングコースはこの地域の観光資源でもある。そして、高麗神社はこの地域の史跡として、観光地としても賑わっている。
            
                                          高麗神社社号標とその奥にある一の鳥居
 
            正面一の鳥居                   綺麗に整備された長い参道が続く
駐車場の北西方向で二の鳥居の近くには。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものという。今回は撮影できず残念。
 
       参道を進むと二の鳥居がある               二の鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水社           
                 

                                     手水社の手前には高麗神社の由来の案内板がある。

  高麗神社   所在地 日高市大字新堀 
 高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
 高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された
 高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。
 郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。
                                                            案内板より引用
                     
                                                  神  門
 
       高麗神社扁額「高句麗」と記載                      祓所(はらえど)
 この神社を語るとき7世紀の朝鮮半島の歴史を抜きに語れない。7世紀当時の朝鮮半島は激動と政略の混迷した時代だった。新羅、百済、高句麗の3国が朝鮮半島の覇を競い、戦乱に明け暮れていた。それに中華帝国の隋、唐も干渉し、いつ果てるともしない様相となっていた。
 高麗と記載されているが、正式に言うと高句麗でもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。

高句麗(こうくり、紀元前37 -668年)
 現在の東三省( 遼寧省・吉林省・黒竜江省)南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は5世紀、「広開土王碑」で有名な「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐(新羅)の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

 581年南北朝を制した隋帝国が誕生し、2代目皇帝煬帝は、3度に渡る高句麗遠征を行うが、すべて失敗。結果的にこれが隋帝国の滅亡につながった。そして大唐帝国の度重なる遠征。唐は新羅と同盟を結び、百済を滅ぼす(661年)。そして百済救援のため軍勢をむけた倭国を白村江の戦いで破り、高句麗も度重なる遠征に国の力は衰え、高句麗の宰相であり、名将でもある淵蓋蘇文(?ー665)死後、淵蓋蘇文の子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐(新羅)軍は高句麗の都の平壌を攻め、668年ついに滅亡した。
                    
                       
            拝 殿
 666年(天智5年)高句麗国の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(日本書紀より参照)。
 その後朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(続日本記)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
            
                      ご神木である樹齢300年の彼岸桜        
 716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(続日本記)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
 武蔵国には「白鬚神社」と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから「白鬚さま」と尊ばれていたことから、のちに当社を「白鬚明神」と呼称したともいう。

 
        拝殿の前方にある神楽殿              律令時代当時の衣装が色鮮やかに展示     


 高麗神社の拝殿の奥には、高麗神社の社家・高麗家の住居であり、国指定重要文化財である高麗家住宅がある。入母屋造、茅葺屋根で、山を背に東を正面として建てられていて、江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。

  高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。
                                                     「日高市公式HP」より引用
 

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