古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高萩白鬚神社

『新編武蔵風土記稿 高萩村』
 
往昔は上下高萩の分ちなく一村なりしが、寶永の頃上下の二村となれり、然れども元一村の地を分ちしなれば、上下の界區定かならず、民家田畠ともに打交れり、又上下に分鄕せしとはいへども、上高萩村は上の字を冠せず、唯高萩村と唱へ、下高萩のみ下の字を冠せり(中略)
 水田少く陸田多し、用水は村の西の方女影村千丈ヶ池より出る水を引沃げり、又村の巽にあたり溜池あり、これも用水の助とす、旱損場にて水損なし、

        
             
・所在地 埼玉県日高市高萩1608
             
・ご祭神 猿田彦大神
             
・社 格 上・下高萩村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 310日に近い日曜日
                  
秋祭り 1015日前後の日曜日
 森戸新田八幡神社から国道407号線を南下し、3㎞程進んだ「高萩東」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、東行すること500m程で、進行方向に対して左手に高萩白鬚神社が横を向くように見えてくる。
 旧高麗郡には多くの白鬚神社・白髭神社が祀られていて、この高萩白鬚神社もそのうちの一社。
 久しぶりに見る西向き社殿。県道に対して並行に参道や境内等が配置されていて、丁度社殿付近に県道から駐車スペースに入る脇道があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  高萩白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「高萩村」の解説
 上大谷沢(かみおやざわ)村・下大谷沢村の北にあり、東は下高萩村。小畔川が北部を東流、その南方を同川支流下小畔川・南小畔川が北東流する。日光脇往還がほぼ南北に通り、小名宿(しゆく)には同往還の宿駅が置かれていた。東方の下高萩村に対し、上高萩村とも称された。文安元年(一四四四)一二月一三日の旦那譲状写(相馬家文書)に「筥根山御領属高萩駒形之宮二所」とみえ、相模箱根山領である高萩駒形宮二所の旦那職が山本坊(現越生町)から豊前阿闍梨へ譲渡されている。永正一四年(一五一七)五月一四日には「高萩之実相寺」等に入西(につさい)郡の内出戸より上の修験支配の権利を返したことが山本坊に伝えられている(「出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写」同文書)。同一六年四月二八日の伊勢宗瑞知行注文(箱根神社文書)では、宗瑞(伊勢長氏)から子息菊寿丸(北条長綱)に譲られた箱根山領のうちに「むさしたかはき」五一貫文があった。
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
 高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
        
                   結構長い参道
   参道右側は民家が建ち並んでいるが、対する左側は昔ながらの緑豊かな杉並木が並ぶ。
 
 参道途中左側に祀られている境内社・愛宕社  参道の先の境内に入ったすぐ左側にある手水舎
                         手水舎の右奥には社務所も見える
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下高萩村』
 八幡白髭兩社相殿 上下高萩村の鎭守にて、例祭九月二十九日なり、本山修驗白鈴寺持、
 愛宕社 神明社 山王社 村持なり、不動堂
 白鈴寺 吟松山と號す、本山修驗、上高萩村高萩院配下なり、相傳ふ當寺の持なる八幡白髭の社を勸請せし時、社の上を鶴が〇翔するを以て、山を吟松、寺を鶴齡と名づけしが、いつの頃かいかなる故にや今の寺號にあらためしと、いとおぼつかなき説なれど、姑く傳のまゝを記す、

 白鬚神社(みょうじんさま)  日高町高萩一六〇八(高萩字白髭)
 高萩は小畔川上流域に位置する。地名の由来は丈の高い萩が茂っていたことによる。村は地形平坦で地質は赤土である。このため水田は少なく陸田が多い。しかも、用水は村の西方、女影村千丈ヶ池から引水するとともに南西の溜め池も利用していた干損の地である。
 当社はこの村の字白髭に鎮座している。
『風土記稿』には、八幡白髭両社相殿とあり、上高萩村・下高萩村の鎮守として祀られ、例祭は九月二九日であったことが記されている。なお、当時の別当は本山派修験白鈴寺であった。
 白鈴寺は、上高萩村の聖護院末寺で、吟松山と号していた。同寺の伝承では、往古、八幡白鬚社を勧請した時、社殿の上を鶴が飛び交ったため奇瑞として、鶴瑞寺と名付けたが、いつのころか現在の寺名になったという。
 祭神は猿田彦大神である。本殿は一間社流造りで、内陣に金幣を祀る。また、社務所には、白鬚明神座像と騎乗の八幡明神像を奉安しており、祭りの時のみこれを社殿に祀る。
 明治期の神仏分離によって、別当は廃され、当社は社名を白鬚神社と改めた。また、これとともに神職を置くようになり、当社の初代神職は、村人から法印と呼ばれていた人物が奉仕することとなった。明治五年に村社となった。
   
                               「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 氏子区域は下高萩と上高萩の小字上宿・中宿・下宿・富士見町(六郎ヶ谷戸)の御組である。氏子は、当社を明神様と呼び、村鎮守、又は氏神として親しみ、祭りを続けているという。
        
               境内北側に祀られている金精様
 金精神(こんせいしん)は、男根に似た自然木や自然石を神体として信仰する性崇拝の一種である。金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされていて、子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。
 金精神を祀った神社は全国各地にあるが、特に東日本の東北地方から関東地方にかけての地域に多くみられる。
 高萩白鬚神社の境内社には、愛宕社と金精様の二社がある。愛宕社は火防の神として信仰され、金精様は子授けの祈願・縁結び・夫婦円満の御利益があり、願がかなうと穴あき石を奉納する。金精様に安置する石棒は、ある氏子の方のは畑から出土し奉納されたものである。元はこれとは別の、長さ30㎝程の石棒があったが、終戦後盗難に遭い、現在はないという。
        
                                社殿から参道への眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

                 

拍手[1回]


森戸新田八幡神社


        
                        ・所在地 埼玉県日高市森戸新田31
                        ・ご祭神 誉田別命(推定)
                        ・社 格 旧森戸新田村鎮守・旧村社
                        ・例祭等 元旦祭 春の例祭 315日 秋の例祭 1123
 国道407号線を坂戸市から鶴ヶ島市方向に南下し、日光街道との交点である「高倉天神」交差点を直進する。国道407号鶴ヶ島日高バイパスを更に1.5㎞程進み、道が大きく左カーブに入り始めるすぐ左側に森戸新田八幡神社が国道を背にしてポツンと佇んでいる。
        
                 森戸新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「森戸新田」の解説
 下高萩(しもたかはぎ)新田の西にあり、本村は北方二〇町ほどの所にある入間郡森戸村(現坂戸市)。入間郡河越領に属した。享保年間(一七一六―三六)に原野を開墾して成立した(風土記稿)。明治期の始めは高麗郡となり、高萩村に属し、二十九年入間郡に復す。
        
       すぐ後ろ側には国道が走っているにも関わらず、至って静かな境内
  
享保年間(1716―36)まで原野であったというのも何となく理解できるような、長閑な風景
        
                    拝 殿
 八幡神社  日高町森戸新田三一(森戸新田字熊野)
 当地は入間川の支流である小畔川の流域に開ける。
 口碑に「万治のころ近江源氏の流れをくむ吉野氏の先祖がこの地に土着し、氏神八幡社を祀る」という。更に別の口碑に「この村の開発は享保のころで、現坂戸森戸の人たちが新田開発に移住したのに始まり、開発の折、森戸に祀る鎮守熊野社を勧請した」という。
『風土記稿』森戸新田の項には「八幡社 村の鎮守にして、村民の持」とあるだけで熊野神社についての記載はない。更に『明細帳』には、八幡神社の境内社として熊野神社を載せている。
古老は、当社の鎮座地には、大正の頃まで「オクマンサマ」の社もあり、祭り日も決まっていて、子供たちが太鼓をたたいたと伝えている。
 以上のことと、当社の鎮座地の小字を熊野と呼ぶことを勘案するに、新田開発に当たり、親村の鎮守であった熊野神社の分霊を枝村に祀り、下って一村を形成するに従い、氏子の吉野家の氏神であった八幡神社が信仰を集めるようになり、いつのころか鎮守が入れ替わったものと推察される。
 明治五年に村社となり、明治末期に村内鎮座の軻遇突智神社を合祀する。なお、現在では熊野神社の所在については不明である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は森戸新田の字熊野で、一五戸程。氏子は当社の信仰を「村が平和に暮らせるのが一番の御利益」という。終身性の濃い氏子総代四名と年交替で努める行事当番一名が神社運営に当たり、運営費は、昭和末期時点で一戸1,000円宛を神社費として支出し、充てているという。
        
                 東側より境内を撮影
 氏子の年中行事は、115日の繭玉、同20日のお恵比須様に始まる。また、節分の唱え言葉は「マメモナン二モムシタカンナ」で、古い姿を残しているという。
 119日・10日は「亥の子」で、まず、9日の夕方には、おはぎを作り一升枡に入れて縁側に設けた机の上に進ぜる。10日には、うどんを上げる。ただし、おはぎとうどんとどっちが旨いか神様に比べてもらうためにと9日のおはぎも10日の夜まで下げないで飾って置く。なお、これを供える机には、菊の花を飾ることになっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

拍手[0回]


北平沢天神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市北平沢620
             ・ご祭神 菅原道真公 春名大神 八幡大神 大山祇神 木花咲耶姫
             
・社 格 旧平沢村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例大祭 425日 1123
 毛呂山町市街地を南北に貫く埼玉県道30号飯能寄居線を日高市方向に進む。「埼玉医科大学国際医療センター」を左手に見ながら更に南下し、1㎞程先の十字路を左前方向に進むと、左側に北平沢天神社の境内と長い参道が見えてくる。
        
                北平沢天神社の社号標柱
            ここから境内まで150m程の長い参道が始まる。
『日本歴史地名大系』 「平沢村」の解説
 原宿村の北にあり、北は入間郡多和目村(現坂戸市)・同郡葛貫村(現毛呂山町)、南は新堀村。ほぼ中央を高麗川が北東流し、北境を東へ流れてきた宿谷(しゆくや)川が合流する。上野国方面から川越へ向かう道が北東へ、同道から分れて南下し相模国へ向かう道(鎌倉街道)がほぼ南北に通る。宝治二年(一二四八)二月二八日の高麗景実譲状(新渡戸文書)に「むさしのくにこまのこほりひんかしひらさわのうちきやふつかやしき」がみえ、娘の「とよいや御前(景実女土用弥)」に永代を限り譲与された。この所領は正慶二年(一三三三)三月二八日以前に尼蓮阿(土用弥)とその娘尼慈照から慈照の子曾我左衛門太郎入道光頼へ譲られ、光頼は「東平沢内田畠屋敷」などの安堵を申請し、同日高麗太郎次郎入道に事実確認のため下文等の備進などが命じられている(「某奉書」「曾我(高麗)系図」遠野南部文書)。 
                参道の様子(写真左・右)
 社号標柱から境内まで気にならない程度の         参道の途中に建つ鳥居
   ゆるやかな上り坂となっているようだ。
        
              境内の梅の花も咲き始めていている。
           少しずつだが、季節は確実に春の到来を告げている。
        
                 石段上に鎮座する社殿
        
              石段手前に設置されている案内板
 天神社    所在地 日高町大字平沢
 天神社は、祭神に菅原道真公、春名大神、八幡大神、大山祇神、木花咲耶姫を祀ったものであり、創立年代は不詳であるが、道真公画像が伝えられている。明治四十一年には村内にあった諸神社を移転合祀し、当時の高麗川村の北半分を占める南北平沢の総鎮守となった。背面に社有林を配し、南面に広い境内があって地域を代表する景勝地である。現在の社務所の位置には、大正六年まで平沢地区の学校が置かれていて、文字どおり子供たちは天神様のふところで勉強した。
 例大祭は、毎年四月二十五日と十一月二十三日で、この日その年のお嫁さんがお参りする「嫁のまち」の習わしがあり、昔は村芝居なども上演されていたが、今では若者の演芸がそれに代って行われている。
 神社の西方にそびえる富士山には、浅間神社が祀られており、天神社と一体的なものとして村人から深い信仰を集めている。
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 社がある地は、高麗川左岸で、同河川がようやく平野部に出る地点でもあり、僅かに水田が広がっている。社のすぐ西側には小高い山が控えており、その裾に鎮座する。境内に設置されている案内板では、背面の山は社有林だそうだ。なだらかな斜面上に鎮座している社殿から南面を望むと、広い境内と長い参道の先に集落が密集していて、まさに当地の人々を守る鎮守様のような位置関係にあるようだ。
        
                    本 殿
 案内版にも載せているが、当社の祭事は、春秋二回の例大祭である。春は四月二十五日、秋は十一月二十三日に祭典を執行する。当社では春秋の例大祭を「嫁の待」と呼ぶ。これは前回の祭り以後に当地に嫁して来た者及び当地から他所へ嫁いで行った者が、花嫁姿で仲人に手を引かれて参拝する習わしがあるためだそうだ。但し、近年は結婚式場や貸し衣装で披露をおこなうため、このような行事は行われなくなったようだ
 また
嘗て当社の祭事では、戦前は秋川の芝居師を頼んでいたが、戦後は境内に仮設される舞台で地元の青壮年が芝居を演じていたようだ。芝居の演目は「菅原伝授手習鑑」「仙台萩」「太閤記」「奥州安達原」「本朝二十四孝」「義経千本桜」等。
       
            社殿前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
 
  社殿の左側に祀られている境内社・合祀社      七社権現社の右側に祀られている境内社
   左から八幡・稲荷合祀社、七社権現社         左から稲荷社、芝宮社

 当社の奥宮と呼ばれた、浅間神社の祀られている富士山は、江戸期には富士講の行者を中心に信仰を集め、現在でも「オシシ岩」等の名所が残されている。因みに「富士山」と書いて「ふじやま」と読む。また、同所にある「ウバ神社」は「ジジババ様」とも呼ばれ、花柳界の人々の信仰があった。
        
                        社殿右側に祀られている境内社・神明神社
        
                 石段下から境内を望む
 
 天神社  日高町北平沢七七〇(平沢村上組字天神峰)
 当社の創建については、現在、末社稲荷神社にある石棒(四三センチメートル)が、口碑に明治まで本殿内にあったといわれること、また、氏子の間では「天神様が終わるともう蚕やら田んぼやらだ」「今年も秋の取入れも無事に済んで天神様だ」などと語られており、当社の祭事が農事歴に組み込まれていること、更に明治四十一年、当社に合祀された富士浅間神社の鎮座地、つまり当社裏に当たる富士山(ふじやま)の位置などを考え合わせると、当社における天神の称号は古く、農耕の神として当地の開発とともに祀られたものと推察される。
『風土記稿』に、別当を天台宗清光院と記しているが、一間社流造りの見世棚の本殿内には、菅原道真公の「絵板」(縦八五センチメートル・横四九・五センチメートル)が奉安され、表は梅花の下に坐す束帯姿の菅公を刻し、裏に「武州高麗郡平澤村寄進松福院住職尊永 絵板絵師朴斉 元禄己巳暦五月吉日」とある。また、口碑には、当社近くの天台宗松福院が別当だったともいい、別当の移動があったことが考えられる。
 明治四一年、同字上組日影森の七社権現社、同字宮ヶ谷戸の芝宮、同字下組の神明社、字富士山の富士浅間社などを合祀したが、このうち富士浅間社は信仰を集めていたことから山上に石祠が残された。
                                  「埼玉の神社」より引用 




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

拍手[0回]


新堀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市新堀387
              
・ご祭神 伊耶那美命 速玉男命 事解男命
              
・社 格 旧本新堀産土神
              
・例祭等 例祭(お九日) 101819
 新堀稲野辺神社から「もくせい通り」を550m程南下し、丁字路を右折すると、進行方向左手に新堀熊野神社が見えてくる。
 この新堀地域には、大きく分けると、「荒井」「大宮」「野口」「本新堀(本来は新堀であり、通称として本新堀というのだが、大字名との混同を避けるため、通称の方を用いる)」「四本木」「吹上」「原の南」「原の北」の八つの集落があり、各々産土神として社を祀っていて、当社はそうした集落で祀られている社の一つである。
 因みに本新堀には「新堀」姓の家がたくさん多いという。
        
                  
新堀熊野神社正面
 当社は、始め新堀家の氏神として祀られていたが、村の発展に伴い、本新堀の産土神として祀られるようになり、今日に至っている。
 当社の管理や祭事の運営には、総代と当番が当たる。総代は、「オキノイエ」の当主が務めるのが慣例となっていて、当番は氏子が二名ずつ一年交代で務めるという。
        
                   境内の様子
 当地域の氏子の生業としては、養蚕と麦・甘藷・大豆・小豆などの畑作が中心である。農地の大部分は台地上にあるため、水利が悪く、戦前はしばしば干害に悩まされていた。そこで、作物の葉が萎えてくると、人々は雨乞いを行って、降雨を祈願したこともあったという。
        
                    拝 殿
 熊野神社  日高町新堀三七八(新堀字宮ノ前)
 往古、紀州の熊野からこの地へ来て村を開いたと伝えられる新堀某にちなんでその名がつけられた新堀は、高麗川に沿う農業地帯の一角を占めている。当社は、新堀の中でも最も早く開かれたとされる本新堀のほぼ中央に、高麗川を背にして鎮座している。祭神は伊耶那美命・速玉男命・事解男命の熊野三神、本殿は三間社流造りである。
 本新堀には新堀を姓とする家が多いが、中でも「オキノイエ」の屋号を持つ新堀家は、村を開いた新堀某の直系の子孫で、この近辺の新堀姓の家の総本家といわれ、当社はこの「オキノイエ」の氏神として創建された社であると口碑にある。ちなみに、同家の現在の当主は一七代目の米次郎である。
「オキノイエ」は、度々火災に遭っているため、当社の創建に関する資料は残っていないが、同家の当主が代々当社の総代を務めていることや、同家の墓地が当社境内に隣接していることなどを見ても、同家と当社の関係の深さは容易に推察されよう。
『風土記稿』には、当社は観音寺持ちの「熊野三神権現社」の名で記載されている。別当の観音寺は真言宗の寺院であったが、神仏分離によって廃寺となった。その後、いつのころからか旧観音寺の堂宇は薬師堂と称されるようになり、様々な会合の場として利用され、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側に祀られている石祠一基  愛宕社
                植木の奥に見えるのが本殿
        
          社殿の右側に並列して祀られている境内社・稲荷社
    稲荷社の右隣に待つあっれている「お仮屋」 大口真神の神札が納められている。

 祭事は年二回で、元旦祭と当社の例祭であるお九日(おくんち)がある。お九日の祭日は101819日の両日である。近年では幟を立て、祭典を行うだけであるが、以前は18日の宵宮(宵祭り)に、お籠もりをしていた。祭典については、古くから当社の祀職を高麗神社社家の高麗家が兼務しているため、本来の祭日である19日には、高麗神社の祭典と重なり、神職が出社できないことから、18日に行っている。
 また、明治期には、参道を使って、流鏑馬も行われていた。現在より広く、長かった参道を馬で駆け抜け、的を射る様は、子供心にも実に勇壮に映ったと古老は伝えている。
        
                社殿から参道正面を撮影
 参拝日は2月下旬の平日。天候も初春を思わせるような温かい陽気で、今や梅が満開な時期だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
  
                                

拍手[0回]


新堀稲野辺神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市新堀591
              
・ご祭神 武御名方命
              
・社 格 不明
              
・例祭等 例祭 4月第一日曜日(餅遊び)・1019
 JR八高線高麗川駅より駅前通りを西行し、「高麗川駅入口」交差点を右折する。埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、1.2㎞先の十字路を左折、通称「もくせい通り」に達する丁字路を右折すると、すぐ左手に新堀稲野辺神社の社叢林が見えてくる。
 専用駐車場はないので、社の北側の路地に一時的に路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                道路沿いに建つ社号標柱
『日本歴史地名大系 』「新堀(にいほり)村」の解説
 高岡村の東にあり、ほぼ中央を高麗川が蛇行しながら北へ流れる。北は平沢村、南は野々宮村・楡木村。東部を上野国から相模国へ向かう道がほぼ南北に通り、坂戸へ向かう道が北東へ通る。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。慶長二年(一五九七)九月の高麗郡新堀郷新井村地詰帳写(高麗家文書)があり、新井村は当村南部の小名新井にあたる。田園簿では田一一石余・畑一七八石余、幕府領。
        
                 
新堀稲野辺神社 遠景
 写真を見ても分かる通り、平均標高75m前後のなだらかな武蔵野台地一帯に広がる田畑風景の中、社の区域のみ真っ直ぐに伸びた木々に囲まれ、別次元の世界に入ったような錯覚すら感じさせる不思議な社。
        
                                 
新堀稲野辺神社正面
    鳥居の手前で右側には灯篭があり、そこには「石尊大権現」と刻印されている。

『入間郡誌』には、「字原にあり。 創立不明、元新堀新田稲野辺原にありしを今の地に移せり」と載せていて、当時の別当を務めていた建光寺や檀家等の努力により、宝暦11年(1761)現在の社地に移されたという。また当社は、古くは「諏訪大明神」と号していたが、いつのころからか「稲野辺神社」と呼ばれるようになり、現在では諏訪明神の社号は忘れ去られている。
 現在の氏子区域は、新堀のうちの原地区であり、生業の主なるものは麦作・茶の栽培・養蚕であったが、現在は兼業農家が多くなっているという。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 新堀村』
「傳へ云古へ紀州熊野より新堀氏の人、この地に來て草創せしゆえ、卽ち村名となせり、今も村民に其の氏族のもののこれり」
「稲ノ邊社 當社は鬼鹿毛(おにかげ)と云、名馬の霊を祀りし所にて、もとは囃明神と號せしを、土人訛りていなのへと唱へり、今新田の地に古松一株あり、是かの馬を繋し木にて、古は此社その木のほとりにありしを、後當所に移せりと云、」

 稲野辺神社  日高町新堀五九一(新堀字原)
 その昔、紀州熊野から移り住んだ新堀氏が開いた村であると伝える新堀の地に鎮座し、武御名方命を祀っている。当社は、かつて「諏訪大明神」と号し、現在の新堀新田に鎮座していたが、正慶二年(一三三三)に新田義貞が鎌倉幕府攻撃のために出陣の途次、社前に休んだところ軍馬が大いに嘶(いなな)き兵勢を盛んにしたことに伴い、「嘶明神」又は「嘶諏訪明神」と号するようになり、いつしか、この「嘶き」が訛って「稲野辺」となったと、その由緒が明治四年本社拝殿建立棟札の裏面に記されている。
 嘶ガ原は五百町にわたる広大な地で、馬草場として周囲の村々の入会地とされていたが、享保年中に当地の開発が行われ、その際当社の社地は狭まり、また嘶ガ原は村の中心から離れているため、当社は氏子から粗末に扱われ、その由緒も忘れられがちになった。そこで当時の別当を務めていた建光寺の法印常相がこうした現状を愁いて、これに代わる社地を強く望んだが実現せず、その後数十年の歳月を経て宝暦一一年法印尊印の時、檀徒及び村民の努力により現在の社地に遷座された。
 なお現在、祀職を務める高麗家に所蔵されている寛永年間の高麗神社絵図面には、覆屋内に本殿と並んで嘶明神が祀られているが、当社とこの社との関わりについては不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
         本 殿           境内にひっそりと祀られている御嶽社の石祠
        
                  静まり返った境内

     ところで、社の北側で道を隔てた場所に嘗ての別当であった建光寺がある。
 
川越市内の天台宗仙波中院の末寺である建光寺     道路沿いに設置されている案内板

 建光寺   所在地 日高町大字新堀
 建光寺は、福徳山地福院建光寺と称し、川越市内の天台宗仙波中院の末寺である。本尊に阿弥陀如来像(坐高49.5cm)を安置している。当時の創立年代等は不詳であるが、境内にある墓碑には、寛永11年(1634)僧尊慶建光寺を中興、承応3年(1654910日入寂と記されている。
 そのほか境内には地蔵堂があり、地蔵菩薩像(坐高26.4cm)を安置している。この地蔵菩薩像は子育地蔵、延命地蔵として崇められ、特に安産の折にはその御礼として、米一升を御供えとして捧げる習わしがある。毎年823日を縁日として現在でも近在の人々のお参りでにぎわい、建光寺のお地蔵様として親しまれている。
 昭和五十八年三月 日高市
                                      案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「案内板」等

        



拍手[0回]


        
  • 1
  • 2
  • 3