古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秩父市黒谷 和銅採掘遺跡を訪れました。

 11月下旬ですが、秋の風に誘われて、目的もなく、ぶらりと秩父路のドライブを楽しみました。長瀞の岩畳周辺の木々を鑑賞し、秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝、その後、埼玉県指定旧跡に指定されている「和銅遺跡」を訪れました。
「和銅遺跡」は別名「和銅採掘遺跡」とも呼ばれ、埼玉県秩父市黒谷地域に所在する、銅の採掘露天掘跡を中心とする遺跡であります。

 まずは秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝を行いました。
        
                   聖神社正面
        
                     拝 殿
        
       聖神社の石段手前には「和銅露天掘り跡と聖神社」の案内板がある。
  聖神社は和銅元年の創建といわれ、和銅献上に関係が深いと伝えられている社である。
 和銅露天掘り跡と聖神社
 和銅(自然銅)がここ黒谷で発見され、奈良の都へ献上されたのは慶雲五年(七〇八年)一月十一日のことでした。このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和同開珎」を発行しました。「和銅露天掘り跡」はこの先六百メートルほど、徒歩約十五分で到着します。
 祝典のために「祝山」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の二月十三日でした。
 和銅石十三個をご神宝として祀り、また蜈蚣が「百足」と書かれることにちなんで、文武百官(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣をご神宝として併せ祀りました。
 以来、里人は、黒谷の鎮守様として千三百年の長い歳月「この上なく耳聡く口すべらかな」(何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。
 その間、今までに五回、社殿建替えが記録に残っています。現在の社殿は、昭和四十年一月二十五日秩父市有形文化財に指定されたものです。
 境内には宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当地出土の蕨手刀などが見学できます(以下略)。
                                      案内板より引用

 
 聖神社から東方向に通じる山道を進むと、途中
5・6台分駐車可能な専用駐車場があり、そこに停めてから遺蹟に通じる地点に到着、そこから山道を降りるように進みました(写真左)。そこの降りる入口付近には和銅遺蹟の案内板も設置されています(同右)。
        
                             和銅遺蹟に向かう途中の様子
 最近の熊出没騒動の関係で、当初は心細く感じられましたが、聖神社の参拝客の中には、筆者と同じく、当遺跡に立ち寄る観光客も数名いたので、その点は心強かったです。
        
             和銅遺蹟に設置されているモニュメント
 飛鳥時代末の元明天皇の時代に武蔵国秩父郡(現:埼玉県秩父市)から自然銅(ニギアカガネ)が発見され、708年(慶雲5年)正月11日に朝廷に献上されました。これを大いに喜んだ元明天皇は、同日に元号を「和銅」に改元し、その後日本最初の流通通貨となる和同開珎を発行したといいます。当地には、銅の産出や献上・鋳造・運搬などにちなむとされている地名や言い伝えが多く残されているとのことです。
       
  沢沿いに岩肌があらわになった2か所の「和銅採掘露天掘跡」が見えます(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿 黒谷村』項では、「箕山 土人或は金山とよび、或は和銅山と云、往古和銅をほり出せしは、卽此山の内なり、元明天皇慶雲四年武藏國秩父郡より始て和銅を獻り、よりて改元和銅元年としたまう、此事は國史に載する所なり、さて其和銅を出せし地は、當村の箕山なりとも云へど凡千年餘の星霜を經ぬれば、其所も定に知りがたし、たゞ土人の傳へをとれるのみ、茲に銅山の形勢を見るに、東向して巖徑を〇ること八九町、盤回して頂に至る、巨岩往々に突兀として峙立せり、其色頗る赤氣を帯びて、銅色を含めり、往古〇ちしと云へる所は、盤岩の山を南北にほり盡して中斷し巨巖東西に對峙せり、中斷せし所を和銅澤とよべり」と載せていますが、現実ここの岩盤を仰ぎ見るに、嘗て1300年前の奈良時代の息吹を感じられるような不思議な感傷に浸ってしまいました。

              遺跡付近にある案内板(写真左・右)
 和銅遺跡
 慶雲五年(七〇八年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都に献上されました。これを喜んだ元明天皇は年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除がされたと「続日本紀」に書かれています。
 その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿禰老、津島朝臣堅石、金上元(金上无とも)の名前も見られます。
 都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。
 催鋳銭司の長官に多治比真人三宅麻呂が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」が発行されます。国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることとなった献上和銅の初めての産出場所は、ここ「和銅露天掘り跡」なのです。地質学上「出牛―黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗堀まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。
 近くには和銅元年に創建され、和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小二個の和銅石(自然銅)・和銅開珎・和銅製の雌雄一対の蜈蚣(ムカデ)がご神宝として収められています。なお、付近に散在する地名に和銅献上時を偲ばせるものが多いのも歴史の深さを物語っていると思われます(以下略)。
                                      案内板より引用
 また、この地には不思議な羽をもつ家来の助けにより、飛ぶ鳥より速く毎日奈良の都へ和銅を送り届けた「羊大夫の伝説」が残されていて、歴史のロマンが今尚広がる地でもあります。
        
             和銅遺跡周辺から見た秋の風景を撮影
 奈良県の遺跡から和同開珎よりも古いとされる「富本銭(ふほんせん)」が出土し、1999年に教科書を書き換えるニュースとなって、日本最古の貨幣が和同開珎ではない可能性がでたとはいえ、古代日本において、貨幣経済の流通を広めたという意味において、和同開珎の意義は非常に大きいことには変わりはないと考えます。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」「採掘遺跡案内板」等

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