上唐子白山神社
全国約三千社にのぼる白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の社伝では、「白山比咩大神(=菊理媛尊)」として以下の言い伝えを記述している。
『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。(中略)菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。
白山比咩神社HPより引用
但し神話上において、この神は『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に「一書曰」と一度だけ出てくるのみであり、日本神話上の神でありながら、天津神であるか国津神であるか、どのような系統・系列の神様で、そもそもどこから来られたのか、全く謎の神様である。この説話でも日本神話らしい、曖昧で正直よく分からない流れである。因みに伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲介した際に、菊理媛神が何を言ったのか、伊弉諾尊はどうして誉め、なぜその後去ったのかは不明で、一切書かれていない。ただし、菊理媛神により、伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦喧嘩が収まったのは事実である。
伊弉諾尊・伊弉冉尊にとって菊理媛神はどのような立場に位置する神であったのだろうか。
現在では伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせたこの曖昧な説話をもって、菊理媛は縁結びの神として信奉されている謎多き女神である。
上唐子白山神社の創建に関して、どのような経緯で、謎の多い「菊理媛神」を主祭神とした白山比咩神社を勧請したのかは不明である。但しその当時、この神の力が必要であった何かしらの切実な理由が創建当時前、この地にはあったのであろう。
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1054
・ご祭神 菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉那美尊
・社 格 旧村社
・例 祭 春祭り 4月2日 夏祭り 7月23日 秋祭り 10月16日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0358701,139.3437236,18z?hl=ja&entry=ttu
神戸神社に隣接する神戸公会堂から東松山市市民健康増進センター方向に進む道路を北上し、今では懐かしい「冠水橋」である鞍掛橋を渡る。都幾川鞍掛橋周辺一帯は「くらかけ清流の郷」という緑豊かな自然が楽しめる場所で、埼玉県の「川のまるごと再生」事業で、川遊びや手ぶらでバーベキューが楽しめるスポットだそうだ。嵐山町「嵐山渓谷」の岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と自然環境を持ち合わせ、同時に川遊びやバーベキューが楽しめる観光地でもあるが、嵐山渓谷やくらかけ清流の郷の存在自体、都幾川が埼玉県でも屈指の清流であることの証明でもあろう。
因みに鞍掛橋の「くらかけ」という名前は
・近くの山の形が鞍に似ているから
・新田義貞が鞍を掛けた松があったから
・川によって岩が削られて、岸壁を意味する「くら」が「欠け」ることから
など、いくつかの話が由来だと言われている。
鞍掛橋を渡りきり、そのまま道なりに進路を取り、埼玉県道344号高坂上唐子線に交わる「白山神社(南)」交差点を直進し、200m程進むと上唐子白山神社の白い社が見えてくる。
社には駐車スペースはないが、南側近くに「上唐子集会所」があり、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
上唐子白山神社 一の鳥居
町中に鎮座する社。その為か二の鳥居までの参道途中に道路が横切る。
白を基調とした拝殿
白山神社 東松山市上唐子一〇五四(上唐子字引野)
社伝によると、当社の創建は寛文年間(一六六一-七三)のことで、当村の篠田三郎右衛門・堀越三右衛門の両名が尽力して加賀国の白山比咩神社を勧請し、社を建立したという。その後、享保年間(一七一六-三六)に社殿の再建を行った。嘉永二年(一八四九)の大火により類焼の憂き目に遭うが、安政四年(一八五七)に再興を果たした。
往時の祭祀状況については明らかでないが、当社の西方三〇〇メートルほどの地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていたことが推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。
現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられる。
明治六年に村社に列せられ、昭和四年には隣接の畑五歩と宅地六坪余を境内に編入し拡張を行い、神饌幣帛料供進神社に指定された。同五十三年には社伝の再建を行い、現在に至っている。
末社に三峰社がある。この社は、昭和四十年ごろまで氏子の間で結成されていた三峰講によって祀られていた社である。
「埼玉の神社」より引用
新編武蔵風土記稿、上唐子村条には
「当所は古く開けし地と見えて、【関東合戦記】永享十二年村岡合戦の條に、長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本・唐子に逗留し、八月九日小山庄祇園城に着玉ふ云々とあり、野本も近き邉の村名なれば、唐子は当村なること明けし」
上唐子村の小名として「原屋敷 大林屋敷 比企野」の3カ所の地名があり、「比企野 村の北を云、当所に白山社ありて、(略)此地は古くは太田道灌が陣所となりしことありという。」と記されている。
享徳3年(1454年)から文明14年(1482年)までの期間、古河公方足利成氏(しげうじ)と、山内・扇谷上杉氏との間で30年近くに渡って続いた享徳の乱では、上杉一門は一致協力して足利成氏と戦ってきた。しかし文明8年(1476年)山内上杉顕定(あきさだ)の重臣である長尾景春(かげはる)が叛旗を翻し、翌文明9年(1477年)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走すると、長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。
これを鎮めたのは扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(どうかん)である。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、抵抗を続けていた長尾景春も文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。
太田道灌は自ら30回以上も出陣しながら1敗もしていていない。不敗の理由の一つとして、兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたともいえ、また「築城の名人」とも言われ、戦において多くの計略をめぐらしてきたが、その要となる「城」が最も大事と気付いたのだろう。江戸のみならず、河越(埼玉県川越市)、岩槻(埼玉県さいたま市)など、多くの城を築いた。
太田道灌は戦の天才のみならず、和歌の名人としても知られ、「山吹の花」でのエピソードはつとに有名である。詳しい内容は省かせていただくが、潜在的な才能もあり、自ら実践し、吸収してしまう努力家でもある、いわば「有言実行型」の典型的な人物であったろう。
戦いに関しても、自ら現地に赴き、その場を視察し、その場での空気を読み、策を巡らし、果敢に勝利をつかみ取るような人物であったのではなかろうか。
「新編武蔵風土記稿・上唐子条」に記されている道灌が作った陣所もその類いではなかったのではと考察する。
拝殿左側には石祠が鎮座。三峰社か。 拝殿右側にある「白山神社建築記念碑」
白山神社建築記念碑
当社の御創建は古く、寛文年間(1661-1672年)当地在住の信仰厚き人々相集い、菊理媛命、伊邪那岐命、伊邪那美命を御祭神に迎え祭り白山神社を創建す。
享保年間(1716-1735年)更に再建されしが嘉永二年(1849年)大火により類焼の難を受く。安政四年新たに社殿を建立され緒人の信仰と崇敬を集め守護し来りしが百有余年の星霜を経て社殿の朽廃甚だしく氏子一同相計りて浄財を歓請し、昭和五十二年三月吉日 社殿を建築せしものなり。
碑文より引用
上唐子白山神社の道を隔てて南側にある、別当の常福寺にあったとされる阿弥陀堂。
当社の西方300m程の地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていた事が推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられるようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市公式HP」「埼玉の神社」「白山比咩神社HP」
「Wikipedia」等