古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上日出谷氷川神社

 江川は鴻巣市、北本市、桶川市、上尾市を流れ、流域面積約 17km2、流路延長約 5km の荒川に注ぐ一級河川である。流域には豊かな自然が残っており、サクラソウをはじめとした多くの湿地性動植物が生息・生育している。また、江川流域は、埼玉県の中でも遺跡が多く分布する地域であり、縄文の時代から住み良い地域であった。
 近代では、台地からの湧水や伏流水に頼った昔ながらの水田耕作が昭和 40 年代まで行われていたが、中流域及び上流域において土地改良事業が行われた結果、安定した農耕が可能となった。その後、上流域の台地や北本市付近は急速に開発が施され、流域の市街化率は平成 6年度で 42.3%に達している。
 江川はもともと農業用水路であったことから、沿川には水田が広がっていて、沿川は主に水田利用。左岸側に位置する上日出谷地域周辺は市街化が進んでいるが、それに対して右岸側は主に畑や緑地が広がっている。
 行政側も、この江川を境として東側(そこからJR高崎線までの間)を「桶川西地区」、西側を「川田谷地区」と分けている。「桶川西地区」の管轄内である上日出地域は近年の土地区画整理事業により、宅地化が進み、日常生活に必要な公共施設、医療・福祉施設と広域的交通網を生かした商業施設などを集約した「地域生活拠点」を形成している。
 同時に、地域の西側に広がる江川周辺の農地をふくむ身近な自然は、市民農園や生産者と消費者のネットワーク化、雑木林の管理のためのボランティア活動などの農業の活性化と農地・雑木林の保全のための市民参加の支援活動を展開し、緑の風や美味しい空気の供給地と、せせらぎと緑が息づく身近な生態系を次代に伝えようとの試みも行われているようだ。
 この江川とその北側にある舌状台地の先端に位置しているのが上日出谷氷川神社である。行政側もこの社を「まちつくりに生かした地域資源」と捉えていて、この社を含む江川東側の斜面林を江川流域と一体的に捉え、緑の連続的な保全とその活用策を検討しているという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市上日出谷13
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧上日出谷村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祈祷 315日 祇園祭 714
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0003919,139.5397969,18z?hl=ja&entry=ttu
 上日出谷地域は、南北に広い川田谷地域の東側で、JR桶川駅の西側辺りにあり、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んだ地域である。その南西方向で、南北に流れている江川とその北側にある舌状台地の先端に鎮座しているのが上日出谷氷川神社である。
 途中までの経路は北本市・石戸八雲神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を1.3㎞程南東方向に進み、「セブンイレブン桶川山店」のすぐ先の丁字路を右折する。首都圏中央道路を越え、更に南下し、「日出谷小学校」を左側に見ながらその先にある「日出谷小学校入口」交差点を右折する。因みに首都圏中央道路を越えて暫く進むと、民家が立て込んでいながら昔ながらの道幅の狭い道路となるので、対向車や人との接触には注意が必要だ。
「日出谷小学校入口」交差点を右折し、すぐ先にあるホームセンターの丁字路を左折。そのまま道なりに600m程南下すると信号のある十字路になり、そこを右折してすぐ左側に曲がる路地があり、その先に上日出谷氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
 但しここは正面ではなく、一旦南下して正面鳥居まで移動しなくてはいけない。因みに正面鳥居周辺には駐車スペースはない。車はここの一角に停めてから徒歩にて移動する。
        
       
 南側に移動して正面入り口に到着、ここが正面となる。地形を確認すると、社が鎮座している地は、舌状台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれ、正面鳥居からは三方向の広大な田園風景を拝むことができ、地形上でも目立つ場所に鎮座している。
 嘗て「白旗山」と呼ばれる小高い場所には氷川神社が建っていて、明確な遺構はないが社殿裏に土塁の痕跡のような地形にも見える。
        
 正面鳥居から見た南方向の風景。なだらかな斜面となっているのがわかる。低地面の水田の平均標高は11m程で、社が鎮座している台地面・社殿付近が19m程であるので、比高差は最大で8mから9m程。なだらかな斜面であるので、そこまでとは一見思えない。
 川田谷と上日出谷の境を北から南に向かって流れる江川を中心に幅400m程の谷津となり、湿地帯ないしは深田が広がっていたものと推測される。江川に合流する手前の水路は元々氷川神社の東側から流れていたようだ。したがってこの氷川神社の台地は、おそらく以前は東西を自然の谷津で挟まれた南北に細長い地形であったものではなかったかと思われる。
        
                     傾斜の緩やかな上り斜面で、両側が樹木に覆われた
                         深い緑の参道を抜けると明るい境内となる。

 この社は南側の落ち着いた社叢林に包まれた正面入り口と、近代的な住宅が立ち並ぶ北側の鳥居付近では見る風景が全く違い、別世界のような感覚にとらわれる。
 但し面白いことに、この鬱蒼とした南側の参道を越えた先に広がる陽光を浴びた境内、加えて程よく整備された境内の先にある北側の鳥居までの間に、不思議な融合反応が発生し、周辺の現代的な建物と違和感なくとけこんでいる。これも何千・何万年という悠久の歴史が作り上げた日本という世界から見ても稀有な国の風土が自然と備わってきた包容力というものなのであろうか。
 この国の特異な魅力は、古いものと新しいものが共存し、互いに影響を与え合う独自の文化風景にあろう。
        
              陽光が差し込み、広々とした境内 
『日本歴史地名大系 』での「上日出谷村」の解説によれば、天正18年(1590)9月7日の伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「ひてや」とあり、古くは下日出谷村と一村であったが、慶安3年(1650)牧野信成の死により采地が分割された際、上・下二村に分れ、上日出谷村は牧野永成領となったという。
 
   社殿に対して左側手前に建つ社務所        社務所の並びにある手水舎
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上日出谷村』
 神社 氷川社
 村の鎮守なり、社邊松杉生茂れり、其圍み一丈餘の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持、下四社同、
 山王社 愛宕社 天王社 七所社
        
             北側の鳥居の傍に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  桶川市上日出谷一三
 □御縁起(歴史)
 上日出谷と下日出谷は、元は一村であったが、慶安三年(一六五〇)に当時この地を領していた牧野信成の死によって領地が分割された際、上下二村に分かれたものと推測される。当社は、この上下の日出谷の境に位置し、『風土記稿』上日出谷村の項にも「村の鎮守なり、社辺松杉生茂れり、其囲み一丈余の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持」と載っている。ちなみに、この記事に見える「金松」は、本殿の後方にあった神木のことと思われるが、既に枯死しており、今では根株を残すのみである。
 当社の創立の時期は明らかではないが、こうした江戸時代における境内の状況や、別当であった知足院は正応年間(一二八八-九三)創立の真言宗の古刹と伝えられることなどから、鎌倉時代末期から室町時代にかけての創立ではないかと思われる。また、本殿には表に「正一位氷川大明神幣帛」裏に「寛政七年(一七九五)八月三十日神祇管領卜部良具」と墨書された神璽筥が納められている。
 台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれた当社の杜は、遠方からもよく望見できる。かつては鳥居の右手に「氷川様の池」と呼ばれる広さ一〇畳ほどの湧水池があり、渇水時には、新しい水がよく湧き出すようにと神職が祈願した後に村中総出で池の水を掻い出して雨乞いをしたが、これも台地上の天水場ゆえの苦労話である。(以下略)
                                      案内板より引用

      拝殿に掲げてある扁額               本 殿

      本殿奥に祀られている合祀社(写真左)、及び境内社・駒形神社(同右)
 合祀社は、左から、庖蒼社・三社稲荷社・天神社・七所神社・日枝社・愛宕社が祀られている。
        
   社殿と合祀社の間に聳え立つ巨木周囲にある礎石らしき石が気になり、とりあえず撮影。
       後日社の参考資料を確認すると、この場所が古墳であったことを知る。
 自分自身の直感力を信じて良かったと、つくづく感じた次第だが、その時はやや自信がなかったのか、近距離からの1枚のみで、もう少し広範囲に撮影したほうが良かったと少し反省もしている。

 氷川神社裏古墳は、直径約19m 、高さ約1mの円墳で、墳丘を囲む浅い周溝も合わせると直径約25mになり、日出谷地区で確認されている古墳時代終末期で唯一の古墳である。桶川市指定有形文化財・考古資料。
 南側に開口する横穴式石室が発見されており、石室は凝灰岩の切石により構築されていて、これは複室構造切石積石室と呼ばれる桶川市域で特徴的な構造の石室である。
 氷川神社裏古墳から出土した遺物のうち市指定文化財となっているのは、古墳の石室及び「墓道」と呼ばれる石室入口付近から見つかった鉄製品17点と須恵器5点。
 鉄製品では馬具(鋏具・飾金具・釣金具)、太刀、刀装具、刀子、鉄鏃、不明鉄製品が発見され、馬具と武器の良好なセット関係として特筆される。須恵器は平瓶、長頸瓶、台付埦、フラスコ瓶が出土している。これらは出土位置から墓道に置かれたものであり、瓶類を中心にした副葬品と考えられる。
 これらの出土品から 、氷川神社裏古墳は7世紀前半代の築造と考えられ、出土品個々の歴史性・希少性もさることながら、荒川左岸の古墳時代終末期の様相を知ることのできる貴重な資料といえよう。
        
                              社の北側に建つ鳥居
 また氷川神社の裏手で、北側鳥居付近周辺にかけて「宮遺跡」と呼ばれる古墳時代中期の遺跡も発掘されている。この宮遺跡は、西側に江川の谷を望む標高20m前後の台地上に存在する。この宮遺跡ではこれまで4回の発掘調査が行われ、古墳時代中期の住居跡が18軒、古墳時代後期の住居が1軒発見されているという。

 嘗て埼玉県南部域において、桶川市域は開発が最も早く、湧泉(ゆうせん)を中心とする制御の容易な小河川が初期の段階では農耕に適していたことがうかがわれる。
 江川両岸には幅200500m程の谷を形成し、東西にヤツデ状の支流が分かれ、更には台地に刻まれた谷部に発達した湧水泥炭地である「樹枝状谷」が発達したため、市内ではもとより大宮台地でも初期の農耕集落が出現していた可能性が強い。
 江川は弥生時代中期以降の農耕の蓄積の上に、最も早く有力な首長を登場させた、県内では有数の文化の母なる川であったといっても過言ではない。


*追伸として
 余談ではあるが、筆者の妻の実家は桶川市・上日出谷地域である。この数十年間、不定期ながらも実家には顔を見せに行くので、周辺地域も含めてかなり熟知していたつもりだったが、この地域に氷川神社があったことはつい最近まで知ることはなかった。灯台下暗し、とはこのことであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」桶川市都市計画マスタープランPDF
    「桶川市 江川流域づくり推進協議会PDF」「北本デジタルアーカイブスHP」
    「桶川市HP」「境内案内板」等

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