古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

松原八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷1329
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 例大祭(松原の簓獅子舞) 915
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9781015,139.5305383,17z?hl=ja&entry=ttu
 樋詰氷川神社から北西方向に通じる道路を500m程進むと松原八幡神社に到着する。ブログにも既に紹介している川田谷熊野神社や樋詰氷川神社と松原八幡神社は共に一本の道路によって結ばれているが、これらの社の他、沿道には古墳・城館跡や寺社などが多く残されていて、歴史の宝庫ともいえる。この道路は嘗ての主要街道で、江戸時代には中山道の脇道として、多くの人の往来があったと考えられる。樋詰氷川神社にある「樋詰の道しるべ」は、通行する人々の案内役として重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
        
                  
松原八幡神社正面
        
         道路沿いに設置されている「八幡神社 御由緒」の案内板
 八幡神社 御由緒  桶川市川田谷一三二九
 □御縁起(歴史)
 口碑によると、当社は鎌倉の三崎が落武者となって川田谷の各所に土着し、背負って来た八幡様の御神体を祀ったのに始まる。三崎とは山崎・岡崎(のち磯田姓)・田崎の三家を指し、山崎家が薬師堂に、岡崎家が田向に、田崎家が松原にそれぞれ居を構えたという。このうち、田崎家は御神体を背負ってきた縁で、近年まで「鍵元」と称して当社の扉の鍵を所持していたほか、当社の正月飾りなどをする役を担っていた。同家は当社の東北三〇〇メートルほど離れた所にあり、屋敷に大人三人抱えもある杉の大木がそびえていたことにちなんで「一本杉」の屋号で呼ばれる.
 現在、本殿には、先の口碑に伝えられている神体とされる騎乗の八幡大明神像(全高四五センチメートル)と、「八幡宮御奉前下川田谷村」と墨書される金幣が奉安されている。ほかに、元禄十一年(一六九八)に領主牧野氏から奉納された神鏡(牧野氏の家紋「三つ柏」が刻まれる)や享和二年(一八〇二)に龍泉谷実顕により揮毫された「八幡宮」の社号額があり、いずれも当社の歴史を語る貴重な史料として大切にされている。
 明治初年の社格制定に際して、当社は無格社とされた。下って昭和五十二年に社殿を再建した。
祭神は誉田別尊である。(以下略)
                                      案内板より引用
        
        
「八幡神社 御由緒」の並びに設置されている「松原の簓獅子舞」の案内板
 松原の簓獅子舞
 松原の簓獅子舞は、毎年九月十五日に行われる八幡神社の祭礼において奉納されている。この獅子舞は、戦時中から昭和四十年代まで一時中断していたが、地元の若者、有志によって復活し、現在に至っている。
 本来は、旧暦八月十五日夜の日に演じられ、十二の場によって構成されていたという。現在では、短縮されてはいるが、囃子によって舞の庭に獅子を迎え入れることや、「草むしり獅子」と呼ばれるほど低い姿勢で舞う姿に、松原の獅子舞ならでわの味わいがある。
 また、祭礼では、「万作踊り」、「はやし」、「げんた踊り」も上演されている。万作踊は、簓獅子舞の合間に演じられており、戦前には獅子舞と同様に男性がその担い手であったが、戦後は女性を中心として演じられるようになり、近年ますます盛んとなっている。(以下略)
 
              社殿に続く参道(写真左・右)
        
                                      拝 殿
 西向きに鎮座している社。その視界の先には雄大な荒川が流れている。この社は河川による水害等の自然災害から土地の方々を守る為にこの場所に鎮座しているのであろうか。
 それとも滝馬室氷川神社のように、別の何か神聖な対象がその遥か先にあるのだろうか。

          本 殿            境内に祀られている境内社。詳細不明。
       
                               社殿から眺める風景
 ところで松原八幡神社が鎮座する松原地域は、弥生時代から人々が生活し、古くから開発されてきた地域だったようだ。その代表的な遺跡が、昭和 56 年に発掘調査が行われた「八幡耕地遺跡」である。
 昭和56 年、松原八幡神社の境内に、集会所が新設されることになり、その折、松原地域の方々の協力を得て、発掘調査が行われたのが、「八幡耕地遺跡」の調査の始まりである。
 この遺跡から、弥生時代後期の住居跡の一部が発見され、ほぼ完全に復元できる土器が発見され、その中には、29 個の壺形土器が含まれていた。大きなものは 90 センチを超え、また、比企地方に主に分布する吉ヶ谷式土器と、南関東に広く分布する弥生町式土器という異なる系統の土器が発見されたという。
 やはり社がある場所には長く語られる歴史の物語があるのであろう。
        
           河川敷の先にはホンダエアポートの滑走路がうっすらながら見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「境内案内板」等

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