今泉浅間神社
・所在地 埼玉県深谷市今泉51
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 格 不明
・例 祭 不明
今泉浅間大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「本郷駐在所」交差点を過ぎて、藤治川を越えた「本郷農産物直売所・緑花センター岡部」がある手押し信号のある十字路を左折し、道幅の狭い道路を南方向に700m程進む。この道路を挟んで進行方向左側は藤治川流域の田園風景が広がり、右側は民家が所々連なったりするが、その後緑深い丘陵地の先端部が見え、その入り口付近に今泉浅間大神社の奉納のぼり旗柱ポールや、案内板等が見えてくる。
地図を確認すると、この今泉地域の西側は、森やゴルフ場があり、河輪神社や関浅間神社が鎮座する諏訪山も近隣にあり、古墳も多数ある古くから開けた場所であるようだ。
今泉浅間大神社正面
入口左側にある案内板
浅間神社
所在地 岡部町大字今泉五一番地 祭神 木花咲耶姫命
沿革
創立年代は明らかではないが、古くより大字今泉の鎮守として崇敬されている。西暦一九〇八(明 治四一)年には、字大明神より稲荷神社を転居し合祀されている。大字今泉の地は、江戸時代以前は、榛沢郡藤田郷(現在の寄居町)を本拠とする藤田氏の勢力下におかれていたと考えられており、字大明神にある高取山は、この藤田氏が当地方を治めた頃、この山に登り稲作の豊凶を見定め、石高を計り年貢を取ったため山の名がここに起因していると伝えられている。江戸時代に入ると、徳川家康の家臣菅沼小大膳定利の領地となる。菅沼小大膳は後に、上州(現在の群馬県)吉井藩主となり、西暦一六〇三(慶長七)年死去した。 案内板より引用
思っている以上に石段は角度があり、鳥居を撮影するのも苦労した。
丘陵地に鎮座していて、石段を登る。途中、灯篭があり、テラス上に平らに馴らしている場所もある(写真左)。その後石段を登るわけだが、両側の路面を掘り込んだ断面も見ることができ、少しワイルドな気分となった。
石段を登り終えると、やや横長の広い空間があり、社殿・境内社が鎮座している。
社殿の奥に鎮座する境内社。
正面はガラス張りとなっていて、中に境内社・本殿が祀られている。写真撮影はせず。
案内板に記されている稲荷神社かもしれない。
藤治川流域付近撮影
武蔵七党の一派である横山党・猪俣党には「今泉氏」が存在していたが、榛沢郡藤田庄今泉村より起っているという。小野系図(畠山牛庵本)に「藤田能国―伊与僧都(今泉)」との記載があり、藤田氏がこの地を治めていた時期には、今泉氏もその配下として勢力下にあったのであろう。
今泉浅間大神社正面
入口左側にある案内板
浅間神社
所在地 岡部町大字今泉五一番地 祭神 木花咲耶姫命
沿革
創立年代は明らかではないが、古くより大字今泉の鎮守として崇敬されている。西暦一九〇八(明 治四一)年には、字大明神より稲荷神社を転居し合祀されている。大字今泉の地は、江戸時代以前は、榛沢郡藤田郷(現在の寄居町)を本拠とする藤田氏の勢力下におかれていたと考えられており、字大明神にある高取山は、この藤田氏が当地方を治めた頃、この山に登り稲作の豊凶を見定め、石高を計り年貢を取ったため山の名がここに起因していると伝えられている。江戸時代に入ると、徳川家康の家臣菅沼小大膳定利の領地となる。菅沼小大膳は後に、上州(現在の群馬県)吉井藩主となり、西暦一六〇三(慶長七)年死去した。 案内板より引用
思っている以上に石段は角度があり、鳥居を撮影するのも苦労した。
丘陵地に鎮座していて、石段を登る。途中、灯篭があり、テラス上に平らに馴らしている場所もある(写真左)。その後石段を登るわけだが、両側の路面を掘り込んだ断面も見ることができ、少しワイルドな気分となった。
石段を登り終えると、やや横長の広い空間があり、社殿・境内社が鎮座している。
社殿の奥に鎮座する境内社。
正面はガラス張りとなっていて、中に境内社・本殿が祀られている。写真撮影はせず。
案内板に記されている稲荷神社かもしれない。
藤治川流域付近撮影
武蔵七党の一派である横山党・猪俣党には「今泉氏」が存在していたが、榛沢郡藤田庄今泉村より起っているという。小野系図(畠山牛庵本)に「藤田能国―伊与僧都(今泉)」との記載があり、藤田氏がこの地を治めていた時期には、今泉氏もその配下として勢力下にあったのであろう。