塩八幡神社、塩古墳群
所在地 熊谷市塩142-1
祭 神 品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(推定)、※[別称]誉田別命
社 格 旧村社
由 来 不明
塩八幡神社は、埼玉県道47号深谷東松山線を東松山市方面に進み、旧江南町の小原十字路交差点を右折すると埼玉県道11号熊谷小川秩父線になる。この道路をまっすぐ進み、約2㎞弱位、時間にして10分弱で右側にこんもりとした森が見え、塩八幡神社に到着する。駐車場は神社手前に塩集会所があり、そこに駐車して参拝を行った。
県道に面して社号標、鳥居がある 参道。社殿を望む
東向きの社殿
拝殿及び本殿
塩八幡神社の創建時代、由緒等は不明。ただ気になる点が一つある。出雲乃伊波比神社-塩八幡神社-塩古墳群のラインは塩八幡神社が若干のずれはあるが、一直線でつながる。一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5Km、千代地区には寺内廃寺跡がある。このラインの関係はどういうことなのだろうか。
塩八幡社の現在の社殿の創建は、『新編武蔵風土記稿』塩村の条において、16世紀末に徳川家康の江戸入府の後に召し抱えられた旧武田家臣の伊藤氏が塩村の領主となり、そしてその伊藤氏が館を置いたのがこの塩八幡の北にある丘陵だとされている。そこで新しい領地でも氏神として八幡神社を奉じた、というのは一応筋が通る。だがなぜこの地に創建したのか。創建するに適した土地だったのか、それとも元々この地に由緒らしい痕跡があって村民の合意のもと創建したのか......とにかく不思議な配置関係だ。
埼玉名字辞典には「塩」に関してこのような記述をしている。
柴 シバ 三国史記列伝に、韓半島南部に浦上八国あり、骨浦(今の昌原)、柴浦(今の漆原)、古史浦(今の鎮海)等なり。浦は古訓でカラ(韓)の意味がある。また、浦は海のことで海洋民を称す。柴浦の海洋民は柴崎、柴田等を称す。また、柴生田はシボウダと訓ず。方、芳はホウ、ハウと読む。和名抄に安芸国賀茂郡志芳郷を之波と註す、東広島市志和町なり、シホはシハ、シワに同じ。塩はシホ、シボと読み、豊島郡渋谷村(渋谷区)は塩谷の里と唱え、那智山文書に「応永二十七年、江戸氏一族旦那・しほ屋との」と見ゆ。シブ(渋)もシボ、シバの転訛なり。塩姓、柴姓、渋姓は柴族にて柴浦の海洋民なり。男衾郡柴村(江南町)、足立郡小室郷柴村(伊奈町)あり。秩父郡大河原郷坂本村字柴(東秩父村)は古の村名にて、文政二年地蔵尊に芝組と見ゆ。鎌倉雲頂庵文書に「十二月九日、柴郷事、上田右衛門尉中間彦太郎男衾鉢形へ帰候間云々、太田道眞書状重可取越候、忠景花押(長尾皎忠)」と、太田道眞は明応元年二月没す。柴郷は男衾郡柴村か、但し当村は文政頃に村高百六石・家数九軒の小村なれば、近村一帯を柴郷と称したか。○茨城県真壁郡明野町五十戸、関城町三十二戸、真壁町三十五戸、結城郡八千代町二十一戸、石下町二十八戸、下館市六十五戸、下妻市六十三戸。○千葉県海上郡飯岡町三十戸。○長野県東筑摩郡明科町十三戸、上伊那郡辰野町十四戸、箕輪町八十八戸、伊那市五十七戸。○福島県双葉郡浪江町十六戸あり。
男衾郡柴村(江南町) 当村は古代柴族の渡来地なり。但し、家伝には信濃国小笠原四郎基義が戦国末期に移住して柴氏を称と云う。野原村文殊寺寛延元年水鉢に松山領柴村柴七兵衛守孟、明治二年碑に柴村柴伴七.。万延元年羽尾村設楽文書に男衾郡柴村大工棟梁柴隼人正。明治九年副戸長柴守徳・嘉永元年生。代々名主にて、子孫柴益次郎家なり。明治十八年最上農名簿に柴守徳・耕宅地七町歩・山林三十七町六反歩所有。昭和三年興信録・所得税に柴松重・七十五円、柴虎蔵・三十一円あり。八戸現存す。
それに対して熊谷文化財日記には「塩」についてシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明している。ただ「塩」と「柴」が同じ意味であるという見解は一致している。
どちらの説明にしろ、この地域は4世紀頃から武蔵国では早い時期に人々が住み始め、谷津田や和田川、滑川の周辺の沖積地は古くから開墾され、豊かな地域だったことは遺跡等の発掘によって証明されている事実は動かいようはない。
社殿右手にあった境内社(写真左側)と大黒天の石碑(同右)
埼玉県道11号線に沿って塩八幡神社は鎮座している。この県道は交通量が多いが、それでも出雲乃伊波比神社の雰囲気を維持しながらの参拝だったので、この神社にも何か懐かしさを感じさせてくれる何かがあった。また塩八幡神社の手前には塩集会所があり、神社の奥にはゲートボール場もあり、地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようで、そこには今では無くなりつつある日本の古き原風景にも重なる。都会ではなかなか見られない、「どこかで見た懐かしい風景」がここには存在した。
そしてこの心地よい空気に触れながら「塩古墳群」にいよいよ向かう。神社から本当に目と鼻の位置にそれはある。
塩古墳群
塩八幡から県道を渡って南に入った丘陵地帯に広がるのが、埼玉県指定史跡の「塩古墳群」で、古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。
埼玉県指定文化財
塩古墳群
塩古墳群は滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(四世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳群として貴重なものです。
昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
平成15年3月 熊谷市教育委員会
道路沿いにある塩古墳群案内板
塩古墳群は、比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布し、保存状態も良好で、近辺にある野原古墳群同様、武蔵国の初期の古墳形態として非常に重要な遺跡であろう。
また方墳や前方後方墳の密集は、弥生時代の方形周溝墓の流れを引き継ぐのものと考えられ、埼玉県内の古墳の発生と発展の過程を考える上で非常に重要な古墳群であるという。