出雲乃伊波比神社
① 南部を東流する和田川以南の丘陵部(比企丘陵)
② 荒川右岸の中位段丘である江南台地
③ 部分的に下位段丘の残る荒川沖横地
江南台地は、寄居町金尾付近より江南町を経て大里村箕輪に至る東西17km、南北3kmにわたる幅狭な台地である。北側・東側は荒川及びその沖積地に面し、比高差10~15mの崖線で画されていて、崖線下には吉野川が流れる。南側は和剛IIを挟んで比企丘陵に接し、台地上は狭小な谷津や埋没谷が複雑に入り組み、その最深部および開口部には溜池が構築されている。
またこの江南地区は豊かな環境と歴史に育まれた文化財が多くある。これらには、樋番地区にある国指定重要文化財「平山家住宅」・塩地区の埼玉県指定史跡「塩古墳群」・千代地区の権現坂埴輪窯跡等の代表的な文化財・遺跡が荒川に画した場所から台地・丘陵上に広がっていて、古墳時代当時この地帯の隆盛ぶりを感じさせてくれる。
所在地 埼玉県熊谷市板井718
社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 男衾郡鎮座
祭 神 武甕槌命
『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
延経『神名帳考証』『武藏の古社』天穂日命
由 緒 創立年代不詳
文明年間鹿島明神を合祀、明治4年10月村社、
同28年8月社号を出雲乃伊波比神社改称
同40年10月神饒幣帛料供進指定
例 祭 4月17日 例祭
出雲乃伊波比神社は埼玉県道47号深谷滑川線を滑川、森林公園方面へ進み、小原十字路交差点を右折、県道11号熊谷小川秩父線の坂井南交差点の南に架かる下田橋から和田川に沿って西へ進むと到着する。社前には和田川が流れ中々風情のある佇まいの神社である。神社の参道入口には太鼓橋が架けられ、低い石垣が何段も組まれた境内の周囲は大きな鎮守の杜が形成されている。
社殿の前には趣のある太鼓橋 境内前には和田川が流れる
境内入ってすぐ左側にある案内板
出雲乃伊波比神社 埼玉県熊谷市 板井
『本社は、もとは鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀されている。
本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
境内に祀らている神々の祭日のうち、特に七月十五日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からば太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった』
案内板より引用
正面の拝殿
目の前に和田川がある関係で、低いが何段もの石段が組まれている。
ところで出雲乃伊波比神社が鎮座するあたりの小字名は「氷川」という。氷川といえば、さいたま市大宮区に鎮座している武蔵国一の宮氷川神社が思い付く。大宮氷川神社の祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオナムチノミコトという出雲系の神様。この三柱の神様をお守りする神主家は明治になるまで三家(岩井家、東角井家、西角井家)で、スサノオの奉齋を担当していたのは岩井家であった。「氷川神社の周辺もやはり湧水が涸れることの無い神聖な場所であったという。出雲乃伊波比神社の創建年代は氷川神社より古いのではないか、また出雲系の神々は、出雲~越国~信州~関東という具合に、日本海方面から来たのではないか、と想像を膨らましてしまう。
富士山浅間神社 境内社(?) 左側 不明、右側小御嶽神社
合祀社 祭神は解らず 氷川神社か この石祠また祭神不明 出雲乃伊波比神社由緒
○村社出雲乃伊波比神社由緒
社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。
然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。
本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。
○氷川神社由緒
創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。
当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。
また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。
社掌 森本三作
氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉
社殿の周りの石組はよく整然としていて何か幾何学的な美しさを感じるし、周りの風景と社が一体となった、まるで山水画を見るような美しい光景がそこにあった。本当に素晴らしい雰囲気のある社だ。残念なことに熊谷市に在住する自分ではあったが、正直この社の存在を最近まで知らなかった。
自分の不明を恥じるとともに、もう少し自治体なり、地域がこの素晴らしい社をアピールすることも必要かとも感じた。