奈良神社
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例*東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
その結果、上野国府~新田駅(上野国)~武蔵国府~足利駅(下野国)~下野国府というルートが採用されることになり、新田駅~足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。
幡羅郡の延喜式内社は4社で、そのうち東山道武蔵路に接している、あるいはその近隣に鎮座している式内社、及びその論社は数社にのぼる。以下の社がそれに当たる。
大我井神社 (式内論社)
白髪神社 (式内論社)
東別府神社 (式内論社)
奈良神社 (式内社)
久保島大神社 (式内論社)
また大我井神社のすぐ西側には妻沼聖天山歓喜院がある。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもあるが、元々は式内社白髪神社の社地内に斎藤実盛が聖天宮を勧請したものであったとされる。
東山道武蔵路に沿って式内社が鎮座していることは、このルートがいかに武蔵国にとって重要な道であったかを如実に証明しているのではないだろうか。
所在地 埼玉県熊谷市中奈良1969
主祭神 奈良別命
(合祀)火産靈命 建御名方命 大国主命 大日霊貴命 彦火火出見命
木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命
社 格 旧村社 延喜式神名帳 武蔵国 播羅郡鎮座
例 祭 4月15日 春の例祭
由 緒 慶雲2年(705〉陸奥国の蝦夷反乱に際して神威を発揮
和銅4年境内から湧泉あり、田地六百余町を拓く
嘉祥3年(850)官社
中世円藏坊修験の監下
天正18年(1590)小田原落城によつて摩尼山長慶寺の配下となる
明治7年2月村社
明治42年「奈良神社」と改称
奈良神社は国道407号を妻沼方面へ、中奈良交差点を左折するとすぐ右側に一の鳥居がある。周りが田畑に囲まれた参道をまっすぐ進むとその先にこんもりとした鎮守の森が広がり、手前の朱色の鳥居を抜けるとその中に社がある。
拝殿前の二の鳥居
鳥居の扁額には「奈良之神社」と書かれている
奈良神社
長慶寺に隣接して鎮座する。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。この奈良別命を祀った。
中世熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。
当社の東北500mの地点に、「和銅四年 奈良神社涌泉旧蹟」の石碑がある
拝 殿
拝殿の扁額にも「奈良之神社」と表記
延喜式内社 奈良神社の由来
御祭神 奈良別命
奈良別命の由緒
「奈良別命は、垂神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国、下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当たり、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。と国造本記に記されてあります。
当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされるが真相は不明だ。
横塚山古墳全景 横塚山古墳南側にある案内板
熊谷市指定文化財史跡
横塚山古墳
横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m前方部で2.5mです。
妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると五世紀末と考えられます。しかし、埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。 熊谷市教育委員会
ところで奈良神社の祭神である奈良別命は下野国一ノ宮宇都宮下都賀郡野木町の祭神である豊城入彦命の4世の孫と言われている。宇都宮二荒山神社の由緒は神社本庁では奈良別命に関して次のような記述がある。
由緒
主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
奈良神社 境内社 堅牢墜神(堅牢地神か)の石柱
大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。しかしこれ以上のことは全く不明で、それ以上にこの人物を祭っている下野国の神社が自分が調べた限り全くない、というのもなにか恣意的なものを感じる。
その奈良別命が下野国国造としての任期が終了した後、たまたまなのか当地へ分け入り、なぜか開拓し、しかも横塚山古墳の推定埋葬者でも分かるとおりそこで生涯を終えたという。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って奈良神社を創立した、とホームページ等では紹介されているわけだが
① 奈良別命は国造本紀(先代旧事本紀)によると毛野国が上野国、下野国に別れた時の、下野国最初の国造として登場している。ましてや豊城入彦命の4世の孫という立派な肩書きだ。創建したと言われている野木神社、宇都宮二荒山神社、那須神社は下野国の地形上それぞれ栃木県南部、中央部、北部の主要地点を抑える要衝で、この位置に神社をつくることはすなわち下野国の南北線を完全に握ること、つまり東山道の掌握になり戦略的にも利に叶うことだ。自分は改めてこの人物の並々ならぬ統治能力の高さ感じた。
しかしこの人物を祀る下野国の神社がないということもまた事実で、大変不思議だ。また下野国の一ノ宮宇都宮二荒山神社や那須神社、野木神社も創建者である奈良別命よりもよりも豊城入彦命、坂上田村麻呂や那須与一のことが詳細に記述されている。中には創建者である奈良別命の名前すら伏せられているケースもある。
② 日本書紀では、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという。また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。旧事本紀によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたというところから、代々下毛野君(しもつけぬのきみ)が国造を世襲したと言われる。ということは逆に言うと奈良別命は下野国国造として一生涯この地から外に出なかった、ということになると思われる。
この下野国国造 奈良別命に関しては別項を設けて改めて考えたい。
③ ところで先代旧事本記でも埼玉県の奈良神社の由来記では、
「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」
国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述
とあり、「下野国の国造に任命され」、「武蔵野に地に分け入り、開墾した」と書かれてはいるが、決して「下野国の任期が終了し、当地に入って、開拓した。」つまりこの地に立ち寄ったとは全く書かれていないのである。
④ 延喜式内社 奈良神社は「なら」神社と言うが鳥居・拝殿の額には「奈良之神社」であり、読み方は「ならの」神社である。一般的に「なら」神社では固有名詞であるので、祭神も一人が対象になると思われるがそれに対して「ならの」神社は形式名詞なので祭神も一人である理由はないと思われる。
つまり、下野国の国造奈良別命は下野国から出ることはなかったが、その兄弟の一族、親戚の一族か、または奈良別一族、その後裔の人物が武蔵国、幡羅郡に分け入り、開墾したならばその推理は十分あり得るわけで、だからこそ「奈良之神社」であり、奈良別一族の人物がその一族の開祖である「奈良別命」を祀った、ということは十分にありうる。
奈良神社 本殿
そして、ここで一つの大きな問題に直面した。「奈良別一族が幡羅郡に分け入り、開墾した」とはどういうことだろうか。言葉の表現方法は違えども、「幡羅郡に侵入し、この地を下野国の勢力範囲にした」ということではないだろうか。
幡羅郡は利根川をはさんで上毛野国と接していて、文化的にも経済的にも上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。何よりの証拠はあの東日本最大の古墳、群馬県太田市にある太田天神山神社の存在だ。関東の王者という名に恥じない主軸長210mの巨大前方後円墳で、この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国内の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
この規模だけに影響する領域も両毛地域という東西の広さのみならず南北にもその広がりがあったろうと思われる。太田市は上野国全体で見た場合東に偏っている。だからこそ関東の王者はここに古墳を築造しなければならない理由があったと考えるのが妥当ではないか。この地は上野と下野のちょうど中間に位置し各方面への街道や水路が集中している。また南北においても、これはあくまで推測の域でしかないが、東山道武蔵路の原型はその大田天神山古墳の埋葬者、もしくは毛野国の王者が創建したのではないかと最近思っている。そもそも毛野国の王者が眠っている場所から真南10kmもない場所に幡羅郡は存在する。幡羅郡は武蔵国口の玄関なのだから。
根拠のない勝手な想像を許して頂ければ、上野国の勢力範囲のこの重要な地に下野国の勢力が侵攻したとしたらその後どうなることが起こるか.....