古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山田恒持神社

『新編武蔵風土記稿 山田村』
 恒持明神社 上鄕西新木にあり、本山修驗、大宮鄕今宮坊配下松本院持、本地十一面觀音、村の鎭守にて例祭正月廿日扉
に縱橫一尺許の石あり、石面に、敕定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、當村緣起曰、人皇五十代 桓武天皇の皇子一品式部卿葛原親王の御子高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の嫡子とし養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大藏卿上總介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、恒望王は從四品太宰權帥にて、任國大宰府に下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武藏國に左遷せ玉ふ、然るに延曆の頃までは、武藏國曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父兩郡に攝まれたる山里に、閑居の地をとし玉ひける、その殿上の所を、武藏の大とぞ稱しけるまゝ、今その遺名を大澤村と呼べり 平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望君罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の緣に因て武藏權守に補せられ、從上四品は故の如く復し玉ふ、此時大澤より山田の鄕に官舍を移し玉ふ、されば官位田の地を恒望庄とぞ稱しけるに、御諱字を憚りて恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、恒望王逝去し玉ひし時、延曆十二癸酉の年より大同丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬる、村長邑夫舉りて、其德功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大澤に便りたる淸地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂とぞ稱しけるが、數多の星霜を經るがうち、御堂も破壞して村名にのみ殘れり、御靈は卽ち官舍を神祠に設て、その地に齋き祀りて、降臨鎭座の神社と崇め奉れるなり、恒持庄は大澤・御堂・安・皆谷・白石・奧澤・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黑谷・皆野・田野・三澤等すべて十五カ村にて、惣鎭守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人も傳へきく聲も遙に響き、山ノ谷も幽に成行て神前の燈も漸にかゝげて只衰敗をと歎けりと云々、

        
             ・所在地 埼玉県秩父市山田1606
             ・ご祭神 日本武尊 ・恒望王・罔象女命・大山祗命
             ・社 格 旧恒望荘総社 旧山田村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 220日 例大祭 3月第2日曜日(山田の春祭り)
                                    水無月祓 6月30日 秋祭り 9月15日 新嘗祭 11月25日  
 秩父市・山田地域は同市街地の北東方向に位置し、東側の大部分は奥武蔵高原の小山の連なる山地で、西側には蛇行しながら北流する横瀬川があり、この河川流域の平地に集落が発達し、秩父巡礼道が村内札所三ヵ寺を通っている。地域には縄文時代の遺跡が点在しており、また、武蔵七党の一つである丹党の山田・関口両氏が居住する等、古くから開かれた場所であったようだ。
 途中までの経路は、山田八坂神社を参照。この社南側にある「八坂神社」Y字路交差点を南西方向に進路をとり、その後、埼玉県道11号熊谷小川秩父線を1㎞程進むと、進路右側の民家と「高篠鉱泉郷観光トイレ」との間に山田恒持神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
              県道沿いに建つ山田恒持神社の鳥居
『日本歴史地名大系』 「山田村」の解説
北流する横瀬川を挟んで大宮郷・大野原村の東に位置し、北は横瀬川支流の定峰川を境に栃谷村など、南は横瀬村(現横瀬町)など。横瀬川流域の平地に集落が発達し、秩父巡礼道が村内札所三ヵ寺を通る。東方は小山の連なる山地で、山間の渓流には朝日滝・夕日滝などの瀑布がかかる。丹党系図(諸家系図纂)によると丹党一族七郎丹二郎基政の子政広が山田七郎、政広の弟政成が山田八郎を名乗っている。「風土記稿」によると、八郎政成は当地に住し、子孫代々も居住してその旧跡が残っているという。地内には恒持明神社(現恒持神社)があり、元亨四年(一三二四)一一月の中村次郎左衛門尉申状案(秩父神社文書)にみえる「恒用」郷は当地か。現荒川村法雲寺蔵の天文二四年(一五五五)三月一八日銘の納札に「武州()
父山田村住関口大学助」とみえ、当地の大学助ほか同道三〇余名が同寺に札所巡礼の木札を納めている。元亀三年(一五七二)三月五日、北条氏邦は朝見伊賀守に横瀬の地を宛行っているが、伊賀守が宛行われた地の北は「横瀬山田村境」を限りとしていた(「北条氏邦印判状写」加藤文書)。
             
         入口付近は「村社 恒持神社」と刻まれている石標がある。

 嘗て、幕末から明治大正を通じ、生糸や絹製は外国貿易の主要品目となった。そのため、秩父地方の中でも特に水利に恵まれて染色に便利であったこの山田の地には機織関係の工場が建ち並び、多くの人々が集まった。更に戦後は「糸偏景気(いとへんけいき)」といわれるほど盛んであったという。しかし、昭和35年以降、業界は不況となり、その波は当地をも襲った。この結果、現在では機織関係企業の他に、光学電子関係の工場誘致が計られると共に、古い由緒を語る社寺や鉱泉宿を中心に観光地化が計られつつあるという。
        
 実は当所、県道沿いにある赤い鳥居が正面と思っていたのだが、一旦県道を通り過ぎた最初の路地を右折すると、右手に石製の鳥居が見えてくる。社殿の配置もこの鳥居に対して正面を向いているし、「山田の春祭り」の際に奉納される神輿の出入りにも、広い空間は必要となる。故にこちらが本当の正面となるのであろう。
        
               入口付近に設置されている看板
        
              参道右側に設置されている案内板
 恒持神社  所在地 秩父市大字山田
 現在の恒持神社は、明治四十一年に近在の丹生社、諏訪社、稲荷社を合祀したものである。
 そのうち、恒持明神社の由来は、平城天皇の御代大同元年(八〇六年)恒望王(平家の祖高望王の弟)が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置いた際、神沢(現横瀬村)にあった高斯野社を官舎近くに遷し、ここに勅定高斯神社の社号を賜り十五か村の総鎮守とした。
 祭神は水の神で、高篠山山頂清水のこんこんと湧き出るところ(現県立青少年野外活動センター内)に竜神社(雨を降らせる神)をまつり、旱魃で水が不足すると笛や太鼓で御幣を振りながら「雨賜べ竜王なあ」と哀調子で天に向かって叫びながら、竜神社まで登り、雨乞いを行ったものである。
 毎年三月十五日、恒持神社例大祭は、「山田の春祭り」として、秩父地方へ春を告げる最初の祭りである。江戸時代から伝えられた屋台、笠鉾が秩父屋台ばやしのリズムにのり曳き回され、山挟の歳時記として一段と風情をかもしだしている。(以下略)
                                      案内板より引用

「埼玉の神社」等によれば、「当社の東方に位置する丸山の一支峰である高斯野(高篠)山の山中に神沢と呼ばれる池があり、古くから水源の一つとなっている。日本武尊は東征の折、この山に登って泉で禊して神祇を祀られた。尊の没した後、里人はその徳を慕って神沢の地に御霊を祀り、高斯野社と号したという。これが当社の始まりである」といい、この地域で元々祀っていた神は山の神である「大山祗命」、水の神である「罔象女神」がご祭神ではなかったかと思われる。
 ご祭神の一柱であるミヅハノメは、日本神話に登場する神であり、『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
        
   社の案内板に並列している
「秩父市指定有形民俗文化財 恒持祭屋台・笠鉾三基」の案内板
 秩父市指定有形民俗文化財 
 恒持祭屋台・笠鉾三基  
 指定年月日 昭和四十年一月二十五日
 恒持祭は、恒持神社の例大祭で、「山田の春祭り」とも呼ばれる。
「新編武蔵風土記稿」によると、恒持祭は江時代、中山田の丹生社と西新木にあった丹生明神社の祭礼であった。
 両社は明治四十一年、恒持神社に合祀され現在に至っており、この祭礼に曳行・巡行されるのが、荒木屋台・中山田屋台・大棚笠鉾(秩父市指定有形民俗文化財)である。
 屋台の寸法は、いずれも正面約1.8m、奥行約3.0m、高さ約4.8mである。屋根には向大唐破風を設け、軒は二重垂木、総体黒漆塗り打金具で、彫刻は極彩色である。笠鉾の寸法は、正面約1.5m、奥行約2.2m、高さ約6.4mであり、三階の空や勾欄を設け、腰支輪の彫刻は極彩色である。
 荒木屋台は荒木和泉(建造年代は不詳)、中山田屋台は番匠屋荒船飛騨(江末期)によって建造され、大棚笠鉾は製作者不詳(明治初年)であるが、いずれも本地方独特の屋台・笠鉾 である。(以下略)
                                      案内板より引用
「山田の春祭り」と呼ばれる例大祭が32日曜日に行われていて、「秩父の春を告げる祭り」として近隣に知られている。この祭りが山田地域全域の祭りとなったのは明治四十一年の近隣の社を合祀した後のことであり、それ以前は上山田地区を中心とした恒持神社・上山田新木を中心とした新木丹生神社・中山田地区の仲山丹生神社の三社で別々に祭典が行われていた。因みに、合祀前の恒持神社の例祭は上山田地区が中心となり、境内に戯れ絵や川柳などを書いた地口行灯を掛けていたという。
        
                 広々として静かな境内
 
      境内左手にある神楽殿             参道右手にある手水舎

神楽殿の左側には「恒持神楽由来」を記した碑がある。
 恒持神楽由来
 神楽は我国発生の神話を題材にして面と衣装と動作による無言劇で笛鼓大鼓の軽快な音色は快よい祭気分に浸うて和やかな郷愁を誘い祭には不可欠の芸能である
 恒持神楽は大正八年秩父神社神楽師橋塚登之助氏乾房吉氏により山田地区二十数名の有志に伝えられ数十年間継続したが時の経過と共に物故者相継ぎ衰減の悲運に見舞われて今になったが現在の後継者が現れ師弟と共共研鑽を重ね今日に至った
 すべての芸能は一朝一夕に習得出来るものではない
 願はくは今後後継者が続々と現れ永久にこの恒持神楽が継続することをひたすたら念願してこの碑を建立する所以である(以下略)
                                     由来碑文より引用

        
                    拝 殿
 恒持神社御由緒 秩父市山田一六〇六
 ◇関東平氏の始祖高望王の弟恒望王を祀る
 当社の東方に位置する丸山の一支峰である高斯野(高篠)山の山中に神沢と呼ばれる池があり、古くから水源の一つとなっている。日本武尊は東征の折、この山に登って泉で禊して神祇を祀られた。尊の没した後、里人はその徳を慕って神沢の地に御霊を祀り、高斯野社と号したという。これが当社の始まりである。
 社記によると、関東平氏の祖とされる高望王の弟である恒望王は大同元年(八〇六)武蔵権守に任ぜられ、大沢・御堂・安・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢の十五ヵ村を恒望荘とし、高斯野社を恒望荘の総社に定めると共に社を新木の里に移した。その後、恒望王が没すると里人は遺体を大沢の地に葬り、御霊を高斯野社へ祀ったと伝えられ、この時、社号を王の名を冠して恒持明神と改めたという。
 明治五年(一八七二)に村社となり、同四十一年(一九〇八)には西新木の丹生神社、中山田の丹生神社と境社稲荷社、五反田・谷津・古堂の諏訪社、山ノ神の山神社が合祀された。
 社殿は三社あり、中央が本殿で、日本武尊・恒望王・罔象女命・大山祗命を祀っており、向かって右側の社は旧西新木の丹生神社の社殿で現在は織姫神社並びに天神社となっている。左側の社は旧中山田の丹生神社の社殿で、現在は稲荷神社となっている。また、境別棟は合祀された諏訪神社である。
 例大祭(三月第二日曜日)には三台の山車(屋台二台・笠鉾一台)が山田地域を巡行し、秩父地方に春を告げる山田の春祭りとして毎年多くの参詣者で賑わっている。
◇御祭神 ・日本武尊 ・罔象女命 ・恒望王・大山祗命
◇御祭日 ・例大祭(三月第二日曜日)
                                      案内板より引用

        
             拝殿に掲げてある「恒持大明神」の扁額
        
 拝殿の奥には社殿が三社あり、中央が本殿で、日本武尊 ・恒望王・罔象女命・大山祗命を祀り、内陣には「勅定・日本武尊高斯野社・恒望王」と刻した石があるとの事。
  また向かって左側に稲荷神社が祀られていて、以前は旧中山田の丹生神社であったという。
        
           向かって右側には、旧西新木の丹生神社の社殿で、
            現在は織姫神社・天満天神社となっている。

 織姫神社の祭日は4月第一または第二日曜日で、盛んな頃は高篠機業同盟会主催でお日待が行われ、芸者を呼んだり、福引を催すなど派手な騒ぎであったようだが、時代の推移と共に不況の影響もあり、衰弱してしまったとの事である。
        
        織姫神社・天満天神社の右側に祀られている境内社・諏訪神社
           諏訪神社の右側奥に辨才天の石祠が祭られている。

 諏訪神社社殿は、小振りな社殿だが、緻密な彫刻が四面すべてに施されているのが大きな特徴であり、脇障子の付け方が廻り縁に対して斜めに建てられている珍しい造りの社殿である。
 令和6530日 秩父市指定有形文化財(建造物)。
        
                社殿の左側にある社務所とその奥には神興庫がある。

 山田恒持神社の社地から西北方向の一隅にある「七人塚」は社人のお墓と伝えられ、『新編武蔵風土記稿 山田村』には「往古に恒持明神の御朱印消失せし時、あづかりし修験七人を杭にせし塚なりとぞ、今に至り幽魂のこりて、雨の夜などには、奇怪のことありと、土人も語りせり、」とある。但し、この時、修験松本院(峯本姓)だけは罪を許され、本山派修験今宮坊の配下として神仏分離まで当社の別当を務めていたという。

 ところで社殿東側には赤い両部鳥居が建つ。両部鳥居とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居であるのだが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残という。この密教ときっても切れない間柄なのが「修験」である。つまり、両部鳥居がある神社は、その大部分は修験が関わる社であるともいえる。
 加えて、案内板にも記されている「中山田の丹生社と西新木にあった丹生明神社」の「丹生」とは、鉱石を産出する意味であるのだが、当地は鉱泉もが湧出するため、鉱泉が丹生の地名の由来である可能性もある。どちらにしても地形上「山の民」とも関係がありそうである。

 山田恒持神社は上記本山派修験今宮坊の配下として神仏分離まで当社の別当を務めていたというのだが、恒望王が大同元年(八〇六)武蔵権守に任ぜられ、大沢・御堂・安・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢の十五ヵ村をを「恒望荘」とし領有した各村の社の多くは、「本山派修験」ないしは「修験道の開祖に関わる寺院」として『新編武蔵風土記稿』にも記載されている。
 偶然といえばそれまでの事だが、「恒望王」と「修験道」、更には「山の民」は何か深い所で繋がりがあるのではと最近考えるところではある。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内掲示板・石碑」等
            

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