下吉田貴布禰神社
当社の創建に関して、社記によれば、弘仁9年(818年)の大干ばつが起こり、熊野社に請い高龗神を勧請して恵みの雨を得て社を作り祀ったのが始まりと言われている。 正暦2年(991年)の干ばつを救った時には遠近の諸人が家財を寄進したと伝えられ、その時に貴布祢大神を分祀して以来、貴布禰大明神と称したという。
なお、神職は穂積君の子孫である宮川家が累代奉仕してきたが、大正時代頃に非常駐となり、椋神社の社家である引間家が管理していたが、現在は秩父神社の神官が宮司となっている。
この社では、埼玉県指定無形民俗文化財の貴布祢神社神楽が春と秋の大祭で奉納される。一社相伝の神楽であり、現在は貴布禰神社の氏子が継承を続けている。
・所在地 埼玉県秩父市下吉田6739
・ご祭神 高龗神
・社 格 旧村社
・例祭等 春大祭 4月3日 秋大祭 10月第一日曜日
秩父市下吉田地域は、旧吉田町域の南東端を占め、東は太田地域(現秩父市)、西は上吉田地域、南は下小鹿野地域(現小鹿野町)と接している。地域の半ば山間の地で、上吉田村から東流する吉田川は村の中央部で南流してきた阿熊(あぐま)川を合せ、村の東部で北流する赤平川に注いでいる。多くの集落は、山地の山間を縫って流れる吉田川に沿って、散在しているように分布している。
途中までの経路は椋神社を参照。この椋神社の北側には埼玉県道37号皆野両神荒川線が走っているが、椋神社の北側にある専用駐車場から西方向へ1.5㎞進んだ丁字路を左折すると、すぐ左側に下吉田貴布禰神社の境内が見えてくる。
下吉田貴布禰神社正面
『日本歴史地名大系』 「下吉田村」の解説
現在の吉田町域の南東端を占め、東は太田村(現秩父市)、西は上吉田村、南は下小鹿野村(現小鹿野町)。半ば山間の地で、上吉田村から東流する吉田川は村の中央部で南流してきた阿熊(あぐま)川を合せ、村の東部で北流する赤平川に注ぐ。太田村からの往還と下小鹿野村からの往還が村の中央部で合流し、吉田川に沿い上吉田村に向かう。中世には上吉田村などとともに吉田郷として推移した。「風土記稿」によれば村の東寄りに高札場がある。また東部の小名町に八〇軒ほどが軒を並べる町並があり、吉田町とも称していた。同所では毎月三・八の日の六斎市が立ち、郡の名産である絹・煙草やその他諸品を交易していた(「風土記稿」など)。近世初めは幕府領、寛文六年(一六六六)三河中島藩領となり、同一二年幕府領に復する。その後、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同七年幕府領、天保七年(一八三六)上総貝淵藩領、同一二年幕府領と変遷し、元治元年(一八六四)幕臣平岡氏の領地となったと考えられる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」「郡村誌」など)。田園簿に村名がみえ、高一千一九〇石余・此永二三八貫五文とある。寛文四年の差出(斎藤家文書)によれば村高は永二九〇貫余で、反別は田三九町五反余、畑三六二町四反余・屋敷一二町六反余、ほかに寺領除地一町四反余、御蔵屋敷除地一反余、検地案内免除地四反余があり、浮役として綿役永一貫余・紙舟役永二貫余などが課せられていた。元禄一六年(一七〇三)の年貢割付状(同文書)では高一千四五九石余、田三九町五反余・畑三七六町三反余。宝暦元年(一七五一)の年貢割付状(同文書)では高一千四六〇石余、田四〇町五反余・畑三七六町二反余となり、四反六畝が溜池敷堤敷引とされている。
一の鳥居に掲げてある「貴布禰神社」の社号額
鎮座地である字井上区域は、水利の便が悪かったため、昔は自分の家の生活用水を賄えるだけの井戸を持つ家は数えるほどしかなく、ほとんどの家では吉田川等に水を汲みに行かなければならなかった。また、何軒かあった井戸も非常に深く、しかもしばしば枯渇したという。
そのため、女衆の役目とされていたこの水汲みは、半日もかかる重労働であったため、一家の主婦の労苦は並々ならぬものだった。
そのような環境ゆえか、当時の氏子の生業は、水をさほど必要としない養蚕や麦作が中心であった。
当社は創建から、水の神として奉斎され、信仰を集めてきた。その信仰に応えてか、当社は旱魃の年に慈雨をもたらし、多くの民を救い、氏子や崇敬者はその神徳に報いるために力を合わせて社殿の再建や修復を行った。また、当社の北西ほど近い所には竜王を祀った竜王塚があり、当社の背後の山を竜王山と称するところから、水神である竜王の信仰と当社との関係が推察される。開村以来、水利の悪さに悩まされてきた井上の人々にとって、水の神の信仰は欠くことができなかったものと思われる。
参道の左側にある手水舎 手水舎の先に祀られている境内社・八坂社
この八坂神社では毎年7月に例祭が行われ、町内を傘鉾の山車が引き回されるという。
参道右側にある神楽殿
神楽殿脇に設置されている神楽の案内板 一の鳥居近くにも神楽の標柱あり
埼玉県指定無形民俗文化財
貴布称神社神楽
所在地 秩父市下吉田字井上
保持団体 貴布祢神社神楽保存会
指定年月日 昭和五十二年三月二十九日
文化(一八〇四~一八一八)初年のころに神官の宮川和泉守が、土地の人々と江戶で手ほどきを受けたという口伝があり、文化十三年(一八一六)の神楽役裁許状も残されている。
この神楽は、江戶系統に属する一神一座形式の三十六座の岩戶神楽で、祝詞や大蛇攻めの一部を除き、黙劇となっており、翁の舞・猿田彦命など芸能的に高い評価を受けている。現在、氏子により保存会が結成され、三十三座(十五演目)が伝承されている。
奏楽の楽器は、大太鼓と小太鼓を一人で打つ付け拍子(または付け太鼓)、羯鼓で主旋律を打つ大拍子、笛とで構成されている。(以下略)
案内板より引用
二の鳥居
拝 殿
『村編武蔵風土記稿 下吉田村』
貴船社 祭神高靈神、三月廿八日太々神楽を奏す、例祭六月廿七日・廿八日、神職宮川上総、太神宮 諏訪社 稲荷社 熊野社 天王社
一の鳥居付近に設置されている案内板
貴布禰神社 御由緒 秩父市下吉田(字井上)六七三九
◇穂積君が水の神として祀り始めた社、祭神は高龗神
当社の創建については、社記に次のように語られている。
昔、櫛玉速日尊の御子、可美真智命の子孫である穂積丞稲負君は、知知夫国造と同じく当国へ来て勧業殖民に努めた。天照大神と熊野大神を奉斎し、神の心にかない、順調であった穂積君の開墾事業ではあったが、ついにその危機が訪れた。時に弘仁九年、大干ばつが起こり、水は涸れ、地は乾き、稲はことごとく萎えてしまった。これを見た穂積君は深く憂い、斎戒沐浴の後、二人の子供と共に熊野大神の社に請い、高龗神を勧請して、号泣して降雨を祈ったところ村民もこれに従って神の助けを請うた。その祈りが神に通じ、慈雨大いに降り、水陸共に元に復した。更に、雨が止んだかと思うと、数ヶ所から清泉が噴出し、田に水を満たしたので、その年の秋には豊かな収穫があった。歓喜した人々は、この泉を神井と称え、これにちなんで村の名も井上と改めたのであった。その後この近辺の諸村を総称して宜田郷と呼んだ。今の「吉田」という呼称はここから起こったものと言われている。
この神恩に深く感謝した穂積君は新たに神殿を造り高龗神を祀ったのが当社の始まりである。
その後も当社は度々神威を顕し、水の神として篤く信仰されるに至った。殊に正暦二年の大干ばつを救った時は遠近の諸人が競って財貨を寄進したと伝え、この時京都の貴布禰大神を分祀して以来、貴布禰大明神 (貴船大明神とも記す)と称した。(以下略)
案内板より引用
案内板に記されている二人の子供とは、それぞれ、「深瀬君・斯麻君」といい、この二人もまた、共に農事を民に教え、開墾を進めた。また穂積君は、その居住地を稲負部村と号し天照大神と熊野大神を奉斎したが、神の心にかなってか、父子による開墾は大いに進んだ。そのため、当地には深瀬田(現在の福瀬。深瀬君が開いた地)、島平(斯麻君の居館の跡)、植沼(現在の上野。初めて苗を植えさせた所)、焼畑(現在の矢畑。焼畑を行った所)などこの父子のちなむ地名が数多く残っている。
拝殿向拝部には龍の宮彫りがされている。
淤加美神(オカミノカミ)、または龗神(神)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記している。
日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(クラミツハノカミ)とともに闇龗神(クラオカミノカミ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(タカオカミノカミ)であるとしている。
『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神と日河比売との間に深淵之水夜礼花神が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の4世孫の甕主日子神は淤加美神の娘比那良志毘売を娶り、多比理岐志麻流美神をもうけている。
この龗(オカミ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として古来から信仰されていた。下吉田貴布禰神社の拝殿に龍の彫刻が施されているのも、その古来からの信仰ゆえであったのであろう。
社殿の向かって右側奥に祀られている境内社
左から稲荷社・天神社・諏訪社・稲荷社・榛名社
境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「下吉田貴布禰神社HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等