古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北十条北向神社

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が実は北十条地区である。
 『新編武蔵風土記稿 児玉郡十条村』に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
 また『武蔵国郡村誌』には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町北十条695
            ・ご祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命 大雷命
            ・社 挌 旧十条村鎮守 旧村社
            ・例祭等 春祭り 43日 大祓式 81日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1125日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2020011,139.1652408,16z?entry=ttu
  
 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
             
                             北向きとなっている鳥居
             
                             北十条北向神社拝殿
             
                                  案内板
 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

北向神社  御由緒   美里町北十条六九五
御縁起(歴史)
 北十条の鎮守である当社には、主祭神に素盞嗚命・大己貴命・少彦名命、合祀神に大雷命を祀る。『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり、慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(一六八八)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州(現群馬県)赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川) の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。
 以来、当社は村民の厚く崇敬するところとなり、享保十三年(一七二八)には神祇管領吉田家から正一位の神階を受けた。 内陣にはその添状と女房奉書及び古色を帯びた金幣が安置されているが、この神階拝受を機に社殿も再建されたものと見え、別当の慶昌寺が願主となり、惣氏子五三名の寄附を受けて「奉成正一位御神官北向大明神并宮殿建立」を行った旨を記した享保十三年五月吉日付の棟札が現存する。
 明治五年に村社となり、同四十年に字重の村社大天雹神社(「明細帳」 に「大天電神社」とあるのは誤記)を合祀したとある。この大天雹神社は、『風土記稿』に載る慶昌寺持ちの「雷電社」のことで、合祀に際しては、享保十三年に正一位の神階を受けた際の吉田家添状と女房奉書及び金幣が当社の本殿に移された。これらはいずれも当社のものと同様で、享保十三年に社殿を再建した旨を記した棟札もある。
                                      案内板より引用
 
                     社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであったという。
 
 阿那志 アナシ 
 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ

                                                           埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。
 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。真相はいかがなものだろうか。
  

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