野木神社
伝承によるとこの奈良別王は下毛野国に赴任する際に、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地野木神社に祀ったのに始まると伝える。
野木神社はこの地方で最も古い由緒ある神社の一つで、藩政期には古河藩の領内にあって藩の鎮守・祈願所として歴代の藩主からの崇敬も厚く、一般に「神明様」として親しまれてきたという。下野国寒川郡七郷(迫間田、寒川、中里、鏡、小袋・井岡、網戸、下河原田)の総鎮守とされ、江戸時代には古賀藩主土井氏の崇敬を受けて古河藩の鎮守・祈願所とされた。明治5年に郷社に列した。
余談になるが、明治時代には、音を同じくする乃木大将もたびたび野木神社を参詣したという。
・所在地 栃木県下都賀郡野木町野木2404
・ご祭神 (主)莵道稚郎子命
(配)誉田別命 息長足姫命 宗像三女神
・社 格 旧寒川郡七郷総鎮守・旧郷社
・例祭等 春渡祭(お討鬼)3月22日 春の神楽祭 4月第二日曜日
例大祭 8月3・4日 冬季例祭 12月2・3日 他
野木神社が鎮座する下都賀郡野木町は栃木県の最南端に位置する町で、大部分が平均標高25m前後の宇都宮西台地上にある。台地上には谷底平野が入り込み水田化され、西端の低地を思(おもい)川が南西流して渡良瀬川と合流している。栃木県の南の玄関口とも呼ばれていて、地形を見ても北に位置する小山市や、南に位置する茨城県古河市と接していて交流も盛んである。また東京まで60㎞という地の利のため、通勤圏内としても発展していて、都心方面のベッドタウン化が進んでいる。
江戸期には古賀藩に属し、「古河の3宿」の1つ、日光街道の野木宿として発展を見た所でもあり、落ち着いたたたずまいも残っている。気候は温暖、地味も肥沃と、気候風土ともに恵まれているため、米・麦作のほか、果樹栽培、施設園芸が盛んで、1989年(平成1)からヒマワリの栽培が始まり、観光用のヒマワリ畑もつくられ、夏には「ひまわりフェスティバル」が行われている。1960年以降、南部と東部に工業団地が造成され、機械、化学、食品工業などが進出している。「旧下野煉瓦製造会社煉瓦窯」は重要文化財に指定されている。
野木神社 一の鳥居
野木神社は野木町立野木小学校の北西側に鎮座している。茨城県古河市市街地から栃木・茨城県道261号野木古河線を北上し、途中国道4号線古河バイパスと合流するY字路の手前で左側に野木神社の一の鳥居がある。この一の鳥居は、道路沿いに有り、なおかつ国道4号線と交わるところに近くにあるため、交通量も多く、写真撮影する時は周囲の道路状況を確認する必要はある。
一の鳥居のすぐ先には神橋があり(写真左)、そこから北西方向に伸びる参道は長く、500m程あろうか、綺麗に整備されている。参道途中には二の鳥居が建つ(同右)。
三の鳥居周辺の様子
参道左側に手水舎があり、参道に対して手水舎の向かい側は専用駐車場となっている。
鳥居の右側には社の「由緒沿革」や、町の鳥と指定された「ふくろう」の説明板がある。
このふくろうのオブジェが不思議と可愛らしい。
野木神社由緒沿革
仁徳天皇の時代(313~99)、下野国造奈良別命が当国赴任の折、莵道稚郎子命の遺骨を奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奏し、その報賽として現在の地に社殿を造り遷座したと伝えられる。
鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元寇の際、北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合わせ祀った。
文化三年(1806)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の協力を得、現在の社殿を再建した。
明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所縁の品々を御神宝として奉納した。
御祭神
主祭神 菟道稚郎子命
右 殿 息長足比売命 誉田別命
左 殿 田心比売命 瑞津比売命 市杵嶋比売命
境内社
王子稲荷神社、厳島神社、雷電神社
合祀社(天満宮、猿田彦神社、星宮神社、稲荷神社)
主祭日
三月二十二日 春渡祭(お討鬼)
四月第二日曜日 春の神楽祭
八月三、四日 例大祭
十二月二、三、四日 冬季例祭(三日夜、提灯もち、神楽祭)
他、諸例祭
神宝、文化財等
黒馬繋馬絵馬、算額、乃木大将遺品、本殿及び彫刻、芭蕉句碑、
太々神楽、御神木の大公孫樹、大けやきの森(樹齢約五百年) 案内板より引用
旧寒川郡七郷総鎮守の荘厳さが漂う境内
撮影日 2025年1月21日
拝 殿
嘗て平安時代末期源平合戦(治承・寿永の乱1180~1185)が各地で繰り広げられた。この地においても同様で、源頼朝方の武将、小山朝政と志田義広(源頼朝の叔父)の間で戦われた野木宮合戦の舞台となったのがこの野木神社である。志田義広は源義朝の弟(為義の三男)で、頼朝の伯父にあたり、常陸国南部の信太郡信太庄に土着して勢力を振っていた。
義広と義朝・頼朝親子が仲が悪かったという文献等の資料はないが、義広は初め同母の次兄・義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向したらしい。これは、当時相模国の鎌倉を本拠地として勢力を拡大、武蔵国方面まで進出していた源義朝や、下野、上野国に勢力を伸ばしていた足利義国への対抗として実父為義が送り出した策とも言われていて、政略的にみると源氏本家と義広は決して良好な関係ではなかったはずだ。久寿2年(1155)源義賢は大蔵合戦において義朝の長子義平に打ち取られたが、志田義広は平頼盛(平清盛の弟)に接近し、その後も関東において独自の勢力を保持していた。
拝殿近くに展示されている「黒馬繋馬絵馬(県指定文化財)」
「野木神社本殿及び彫刻(県指定文化財)」
「算額(町指定文化財)」「野木神社俳句奉納額(町指定文化財)」
頼朝の挙兵時にも参加せず、「自主の志」を持っていた武将である。富士川の戦い後、頼朝の勢力が拡大する中で、危機感を感じた義広は頼朝打倒をめざし、足利庄の藤姓足利又太郎忠綱と同盟して下野に進出。義広は頼朝打倒を下野の豪族小山朝政に告げ、味方に引き入れようとしたが、偽って義広に従うと見せかけた小山朝政の謀略にかかり、野木宮に誘い出される途中、登々呂木沢や地獄谷で朝政軍の奇襲攻撃を受け、破れて敗走。その後義広は、木曽義仲のところに落ち延びた。義仲は義高を人質として鎌倉に出したが、 この事件をきっかけに、 頼朝と義仲の仲が一段と悪化する。その後志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれたという。
精巧な彫刻が素晴らしい本殿
神楽殿
社殿の左手には稲荷神社・天満宮・星宮神社・猿田彦神社を合祀した
「合祀社」が祀られている。
合祀社の奥にある神興庫 社殿裏手に祀られている王子稲荷神社
坂上田村麻呂の手植えと伝えられる樹齢1200年の大公孫樹(イチョウ)
町指定文化財 野木神社の公孫樹(大イチョウ)
指定年月日 昭和五十二年十一月三十日
所 在 地 野木町大字野木二四〇四番地
この大イチョウは、今から約一二〇〇年前(平安時代延暦年間)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奏でました。
その奉賽として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、記念にイチョウの木を奉植したものと伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳房で祈願する民間信仰があります。
昭和五十七年 野木町教育委員会 案内板より引用
ケヤキの老木 樹齢650年くらいとの事。
ケヤキの老木の傍には、倒壊した巨樹が横たわっていた。嘗ての御神木であろうか。
野木神社は参道の回りや社殿の周囲には、樹齢1200年のご神木である大公孫樹以外にも多くの古木・老木があり、それらの木々に触れることで、周囲を威圧する独特の歴史的な重みも感じることもでき、社の参拝とはまた違った厳粛な面持ちで手を合わせて頂いた。
悠久の歴史を感じる古社
ところで12月2~4日には、寒川郡七郷を神霊が巡行する祭事が行われる。竹竿の先に提灯をつけて火を灯し、これを互いにぶつけて火を消し合うという祭で、一般には『提灯もみ祭り』と呼ばれている。起源は古く、建仁年間(1201~1204)頃に始まったものと伝えられ、元々は神霊の巡行の際に、神霊を少しでも自分の村に迎えようと、それぞれの村の若者たちが裸で激しくもみ合ったことに由来するとされている。後にこれが提灯をぶつけ合う祭に変化したとのことだ。11月27日に神主さんたちが馬を煌びやかに飾って、野木神社の七つの末社を1日1社ずつめぐり、7日後の12月3日に帰ってくる。七つの末社をめぐるので、「七郷めぐり」と呼ばれているという。
この七郷めぐりと言われる祭事は別名「おかえり」とも言われているが、利根川対岸の埼玉県羽生市下村君地区にも同じく「おかえり」神事が存在する。何かしらの関連性があるのだろうか。
境内西側隅に祀られている厳島神社と「二輪草の群生地」の案内板
春先に咲く白い可憐な花を今度は季節に合わせて見学に来たいものである。
参考資料「野木町HP」「日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
