唐澤山神社(2)
唐澤山神社 神橋付近
今でこそ石製の橋となっているが、城として機能している時代、「堀のひろさ五間有り」と記録に残されていて、大きさの堀であった。また曳橋であったとされ、いざという時に橋を引き払い城の中心部への敵の侵入を防いだと考えられている。
戦国時代に佐野氏が居城し、交通要衝の地にあるため、本城をめぐって何度も戦いがあった唐沢山城。そのため、攻撃に備えるいろいろな工夫が随所に見られる。この四ツ目堀も現在でも唐澤山神社本殿がある本丸を中心にその城跡が残されている。今の橋は大正15年時の皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として高齢者より寄与されたという。
神橋手前に、さりげなく猫が写りこんでいる(写真左)。以前何度か参拝に来たことはあるのだが、その時より多くなってきている気がする。駐車場から参拝客のマスコットになっているのか、まったくこの地の猫は自ら近寄ってきたり、移動中も寄り添って歩いたりと、餌をおねだりしたりしているのか、警戒心が全くない様子だ。
神橋を過ぎて進行方向左手で斜面上には和合稲荷神社が祀られている(同右)。
嘗ての唐澤山城の大手道で、現在の唐澤山神社参道
駐車場付近にある「くい違い虎口」から続く神社の参道が、嘗ての大手道にあたると考えられる。この道筋は、三ツ目堀を過ぎて、二の丸方面に折れて坂道を登るルートであり、そして二の丸から本丸(現神社社殿)に至る。唐沢山神社の参拝ではあるが、城の遺構をそのまま受け継いでいる型で社も配置されているので、拝殿に向かう参道も実は唐沢山城の本丸に通じるルートにもなっている。
大手道終了地点にある手水舎 社の案内板も設置されている。
唐澤山神社
当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治16(1883)年、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐澤山神社を建てました。(以下略)
案内板より引用
参道の石段。この上に鳥居が建ち、その先に神門と社殿がある。
写真左側には僅かに二の丸に通じる道が見える。
石段を登った先に見える神門
この神門付近が唐沢山城の本丸跡付近という。
拝 殿
唐澤山神社由緒
祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷)
神階 贈正二位 元別格官幣社
秀郷公は天児屋根命二十二世の孫藤原鎌足を祖とし、数代を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け幼少の頃近江國(今の滋賀県)と山城國(京都府)の境にある宇治の田原という所に住んで弓馬の器量優れ 人々より田原藤太と慕われた。その頃近江は三上山に大むかで出没し人々を苦しめている事を聞き 得意の弓術にてこれを打つ、琵琶湖の 神・龍王はこの功を賞賛し 公はこの時神縁を受く。
時の朝廷よりは従五位下に叙され下野國押領使に補される(延長五年四月九二四)よって居城を唐澤山に築く。第六十一代朱雀天皇の 御代天慶二年十二月(九四〇)平将門下野を始め関東各地を侵略 す。公平貞盛と共に下総國・幸島の北にて迎撃し将門を滅 す。時に天慶三年二月十四日(世に之を天慶の乱と云う)朝廷其の功を賞し従四位に叙し、武蔵・下野両國守に任じ鎮守府将軍とす。以来六百七十年間子孫善政をしいたが慶長七年(一六〇二)三十代佐野信吉公の時廃城となった。明治十六年八月六日特旨を以て正三位を追贈されるに及び後裔一族旧臣等、公の御遺徳を偲ぶ人々により明治十六年九月に本殿及拝殿を創建し 御鎮座申し上げた。更に明治二十三年十一月二十九日別格官幣社に列せられる。
大正七年十一月十八日特旨を以て贈正二位とされる。
例祭 4月25日 10月25日
大手道参道・案内板より引用
拝殿内部
本 殿
二の丸跡にある神楽殿
社殿の左手に鳥居がみえ、その石段を下ると、二の丸跡の広い空間がある。開けた場所ではあるが、周囲は木々に囲まれていて眺望はあまりない。かつては奥御殿直番の詰所があったそうなのだが、現在は詰所ではなく神楽殿となっている。
一般的に、二の丸は本丸に次いで重要な空間とされている。本城でも本丸への主要な出入口は本丸と二の丸の間に設けられ、両者の深い関わりを示すものと理解できる。更にこの出入口は現在のように真直ぐ出入りするのではなく、以前は折れ曲がっていたともされ、技巧的で防御性の高い出入口であった可能性もあるという。
唐沢山城の高石垣
本殿周辺には至る所に石垣が築かれている。この石垣は唐沢山城築城の時に築かれた当時のものらしく、実際に見てみればわかるが、山城であるにも拘らず多数の石垣が本丸周辺のみならず築かれていて、この城の見所の多さとその状態の良さは紹介するのに困るほどだ。当時江戸まで眺望がきいたというのも、あながち嘘ではないかと思われる。特に本丸南西の高石垣は約40m、高さ8mを越え、石組みは荒々しい野面積みであるが、規則正しくその美しさには一際目立つものだ。関東にも石垣を伴う城は意外と沢山あるが、中世山城でここまで規模の大きい高石垣は群馬県の太田金山城以外あまり見かけず、規模としてはこちらの方が遥かに大きい。
聞きしに勝る堅城であり名城。この地にこれほどの城を築造した佐野氏の実力には恐れ入った次第だ。
参考資料「下野神社沿革誌」「佐野氏HP」「唐澤山神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
