唐澤山神社(1)
下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
『尊卑分脈』などの系図から、一般に藤原北家魚名流とされているが、魚名から秀郷までのわずか5代で200年が経過していることが不審とされているところから、下野国史生郷の土豪・鳥取氏が藤原氏に仕えてその系譜を冒したという説もあり、古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓を名乗ったとする説もあるが定かではない。
史実の上では、秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、朝廷への反抗を繰り返した。延喜16年(916)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた(実際に刑に服したかは不明)。更にその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。このころに唐沢山(現在の佐野市)に城を築いたようだ。
天慶2年(939)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、秀郷は甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この大功により、それまで低い身分だった武家としては破格の官位と恩賞が授けられた。同年3月、従四位下に叙され、11月に下野国(栃木県)の国司である下野守に任じられた。さらに武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)の国司である武蔵守、および鎮守府将軍も兼任する。
藤原秀郷は、下野国押領使として唐沢山に唐沢山城を築城し、秀郷の子孫の佐野氏が居城した。秀郷は平将門の乱を鎮圧して鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされ、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。明治23年(1890)に別格官幣社に列格した。
・所在地 栃木県佐野市富士町1409
・ご祭神 藤原秀郷公
・社 挌 旧別格官幣社・別表神社
・例祭等 歳旦祭 春季大祭 4月25日 例祭 10月25日
新嘗祭 11月23日 大祓式 6月30日 12月31日 他
関東五社稲荷神社から一旦栃木県道141号唐沢山公園線に戻り1.6㎞程北上すると、「唐沢山神社道」と刻まれた社号標柱と石製の一の鳥居が見えてくる。因みにこの一の鳥居のすぐ右隣に露垂根神社が鎮座しているのだが、元々この社は天慶5年6月、藤原秀郷が唐沢山城築城に際し、同山頂にある「大炊の井」の守り神として安芸国厳島大明神を勧請したのが始まりとある。地形的に見ても、この一の鳥居がある場所は、平野部から山間部に移る入口という絶好な位置にあり、先に露垂根神社がこの場所に鎮座していて、後から唐澤山神社の一の鳥居もこの場所に置いたというのが事の真相なのではあるまいか。
唐沢山神社道と刻まれている社号標柱
この一の鳥居から上記県道を更に北上し、2.7㎞程山道を進むと、唐澤山神社の専用駐車場に到着する。唐澤山の標高は247mと決して高くはない山であるのだが、一の鳥居から駐車場までのルートでは、幾重にもあるくねくねとした山道を登るため、運転には注意が必要。戦国時代において、「関東一の山城」と称され、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませたのも納得できる。
専用駐車場からの眺め
此処は「大手虎口跡」と呼ばれ、唐沢山城大手に設けられた入口跡である。石垣を伴った土塁を、くい違いにすることによって、敵から城内を目隠しし、直線的に侵入できないよう守りを堅固にした造りで、「くい違い虎口」「桝形」と呼ばれる。
ただ駐車場付近の空気に触れるだけだも、この城跡の持つ独特の歴史観が感じられ、「関東一の山城」と呼ばれ、2017年には続日本100名城(114番)に選定されたのも納得できる。当然であるが城跡は国の史跡に指定されている。
専用駐車場の近くにある沿革案内板 唐沢山城祉案内図も展示されている
史蹟「唐沢山城」沿革
唐沢山城は、佐野市の北、高さ二四〇メートルの山全体をいゝ、往時の広さは五五〇歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。
当社御祭神 秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで、威勢を張られた。その後七○○年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として十六世紀中ごろに現在の形を整えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかヾわれる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐澤山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる(以下略)。
参道に通じる正面ルート右側に「天狗岩」の看板あり
「大険山」とも例えられる岩山で、頂上からの良好な眺望を生かし、広く周囲を見張る役割を果たしていたと考えられる(上段・風景写真)。また、柱状摂理の岩場も見事な褶曲で、更に立派な赤松が彩りを添えている(下段・写真左側)。更に条件が良ければ富士山や新宿高層ビル群まで見えるようで、パネルまで展示されている(下段・同右)。
駐車場西側にあるレストハウスの裏手下に足尾山神社がひっそりと祀られている(写真左・右)。御祭神は猿田毘古神・常国主神・母陀流神の三柱。少し気付きにくい場所に祀られている。「足腰の神様」というのだが、あまり整備されていないので移動する際には足元には注意が必要だ。
駐車場周辺の散策を済ませ、正面参道を進む。
石製の二の鳥居が見えるその手前で左側には「大炊の井」と、
磐座のような神石と共に「龍神宮」が見えてくる。
龍神宮と磐座のような神石が祀られている。
また龍神宮には八大龍王神縁起の碑が立っている。
八大龍王神縁起の碑
「大炊の井」の様子(写真左・右)
大炊の井は、直径8m・深さ9mの大井戸で、当時から水が枯れたことはないとのことという。嘗て戦国時代当時、難攻不落と言われた唐澤山城の理由の一つが、籠城の際に水が十分に確保できたということもあろう。
唐澤山神社(2)に続く⇒
