赤堀町八幡宮
・所在地 群馬県太田市新田赤堀町341
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
・社 格 旧村社
・例祭等 大祭10月15日 中祭11月15日 小祭4月15日
(各15日に一番近い日曜日とする)
*参拝日 2023年7月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2907735,139.2926919,17z?entry=ttu
中江田町矢抜神社から一旦南下し、群馬県道312号太田境東線に合流後左折する。この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれ、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことであり、その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。街道は西国の諸大名の日光参拝にも利用され、賑わうこととなったという。
県道合流後、暫く東行し、「新田木崎町」交差点を左折する。同県道311号新田上江田尾島線を道沿いに北西方向に1.4㎞程進んだ丁字路を右折すると、ほぼ正面に赤堀町八幡宮の社号標柱が見えてくる。
赤堀町八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「赤堀村」の解説
木崎台地の北東部を占め、西は上江田(かみえだ)村、南は中江田村、南東は木崎村、北東は反町(そりまち)村。北西から南東に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山(あかがね)街道が走る。
中世には新田庄下江田村に属し、新田世良田家から岩松家に相伝された。正和二年(一三一三)一二月二一日付の妙阿売券(新田氏根本史料)によると、「新田庄下江田村赤堀」内の在家一宇・田三町四反小が一七〇貫文で、江田頼有の孫岩松政経の妻妙阿の手から由良景長妻紀氏に売却されている。売却された田・在家には同月日付の坪付注文(同書)が残されており、「木崎境 きさきさかい」「つかた」「ふけた」「はらつくり」等がみえる。この地は、のちに紀氏の父で娘の名字を借りて買得したという大谷道海によって、長楽寺(現尾島町)の三尊・本尊に寄進された(嘉暦三年一一月八日「大谷道海寄進状案」長楽寺文書)。
道路沿いにある社号標に対して左方向に向いている鳥居、及び参道
現在の群馬県道311号新田上江田尾島線は、江戸時代『銅山街道(あかがねかいどう)』と呼称されていた。この街道は、下野国(栃木県)足尾銅山から渡良瀬川沿いの渓谷を下り、上野国(群馬県)笠懸野(大間々扇状地)を経て、利根川沿いの河岸までを結ぶ街道である。
道筋は現在の国道122号・群馬県道69号大間々世良田線・群馬県道311号新田上江田尾島線に相当しており、水沼(黒保根町水沼)で根利道(群馬県道62号沼田大間々線・群馬県道257号根利八木原大間々線)と、深沢(大間々町上神梅)で大胡道(群馬県道333号上神梅大胡線)と、木崎(新田木崎町)で日光例幣使街道(群馬県道312号太田境東線)と接続していた。
幕府直営の足尾銅山で精錬された御用銅を江戸へ運ぶために整備された街道である。慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見、幕府直轄機関である「銅山奉行」を設け、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わり、延宝・天和年間(1673年〜1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれたという。
境内の様子。参道右手にある「赤堀会館」
境内左手に設置されている「赤堀獅子舞」案内板 拝殿左手に鎮座する
境内社・八坂神社、菅原神社
新田町指定重要無形文化財 赤堀獅子舞
指定 平成九年三月三十一日
所在地 新田町赤堀三四二
赤堀獅子舞は、およそ三百年前の元禄年間に成立したと伝えられている。法眼(ほうがん)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)と呼ばれる三頭の獅子が笛と唄に合わせて勇壮に舞う姿は、本物の獅子の動きを思わせるものである。昔から塗り替えることをいましめられている三体の獅子頭は、それぞれ異なった表情に作られている。
「法眼」は長(おさ)としての風格を持ち、「雌獅子」は優しさ、気品を、「雄獅子」は雄としての荒々しさを持っている。この特徴は舞の中でも表現され、おそれ、おののきや雌をいたわる優しい仕草も見られる。これは他の獅子舞には見られない特徴であり、専門家の間でも高く評価されている。
毎年、十月中旬の秋祭に赤堀八幡宮で実施されている。
平成十二年三月 新田町教育委員会
案内板より引用
拝 殿
社殿右側に設置されている案内板
赤堀八幡宮
一、御祭神 品陀和気命(応神天皇)
南無八幡大菩薩とも呼ばれる源氏の神。武家の崇敬弓矢の神
一、御神徳 五穀豊穣 天下泰平 四海静穏 家内安全等
一、例 祭 大祭十月十五日、中祭十一月十五日、小祭四月十五日
(各十五日に一番近い日曜日とする)
御由緒
建久年中(一一九〇~一一九八年)京都の石清水八幡宮より、新田義貞が勧請した。
別当瑠璃山大方坊薬王寺(大方坊四三九番地に二反壱畝廿九歩の土地を保有、現在は上江田分)は、新田氏族江田兵部大輔行義公(一三三〇年代活躍。鎌倉攻めに参戦している)江田郷(赤堀は江田郷の内)に住し、これを管理する新田氏累代の崇敬社となった。本村の乾の方向(北西)にあったが、安永年間(一七七二~一七八〇年)の間に廃絶し、その後現在の地に建立された。天明四年(一七八四年)名主役場で火災が発生し一社の記録が焼失したが、獅子頭のみ焼失をまぬがれた。(中略)
木崎の村々の出現と変遷
嘉暦三年(一三二八年大谷道海寄進状)長楽寺三尊本尊に寄進の中に(下江田村内赤堀在家壱間等)新田義貞根本資料のなかに正和二年(一三一三年)の売券があるが、ここでは年号の下限が参考になるので省略した。ここでは赤堀は村として独立していない。日記の中では村になっている何時頃からか。 「長楽寺永禄日記」より
旧別当瑠璃山大方坊薬王寺と末社八社
行義公は赤堀本郷地区を中心として村づくりをするための礎として建立した。南無八幡大菩薩(仏に救われたいと言う願いをかける)武運長久、息災延命、天長、地久、安穏等を願い新田氏族江田、赤堀領民が神仏を信仰することにより、救われたいという願いをかけるとともに領主領民が一体となってこの地の繁栄、無事で長続きするよう願い建立したのではないか。
平成二十六年十月吉日 宮田晃和
案内板より引用
本 殿 社殿右手に鎮座する
境内社・塞神社・神明宮・石神社
社殿から見た境内の一風景
参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「境内案内板」等