菅谷八幡神社
その『増補忍名所図会』には「忍」の地名由来に関して以下の記述がある。
〇忍
鴛鴦(おし)とも書く。忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。
別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説がある。
・所在地 埼玉県行田市持田5774
・ご祭神 誉田別尊
・社 格 不明
・例 祭 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1407957,139.4172986,16z?entry=ttu
佐谷田神社から埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地方向に1.7㎞程進み、「流通センター前」交差点を左折する。秩父鉄道の踏切を過ぎて400m先の十字路を右折して、暫く進むと左手に菅谷八幡神社の社叢林が見え、その林の先に鳥居が見える。
周辺には専用駐車場はない。鳥居の北側には忍川に至る道路があり、その路地に停めてから急ぎ参拝を開始した。
菅谷八幡神社正面
菅谷八幡神社が鎮座する行田市持田地域、「持田」は元々当て字で、昔は「糯田(もちだ)」と書かれていたようだ。『新編武蔵風土記稿 持田村条』にも
「由良氏(太田金山城主)の文書の中に、頼朝が新田上西入道へ出した下文に、
埼西郡の糯田の住人らヘ下す
定補(決まってその職に補す)の郷司職事 新田入道殿、
新田上西入道は、その職仁を為して郷の仕事を遂行すべし
よって住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない
治承五年(1181)十一月 源朝臣 判」
と記載されている。
鳥居の先で左側に設置されている提示版内にある「菅谷八幡神社由来記」
菅谷八幡神社由来記
持田の名は古くは糯田郷と書き、また、条里制水田遺構が発掘され、 古来より米作地域であったことがうかがえる。
持田は、東西三二町、南北二三町の大村のため、村内を私に上・中・下の三組に分けていたことが「風土記稿」に記され、当地は上組となっていた。
更に「八幡社 観音寺持」とあり、現在の真言宗智山派観音寺が、往時当社の別当となり、奉斎していたことがわかる。
当社の創建は「明細帳」によれば、建久元年(1190) 鎌倉将軍源頼朝の上洛に従い京の石清水八幡宮へ参詣の際、忍の豪族鴛 (おしどり)三郎が供奉し、帰村の後に忍城の砦西方に鬼門除けとして勧請創建したものと記されている。
後に文化十三年(1816)頃現在の地に建てられたと推定されている。
祭神は、品陀別命で、内陣に白幣を祀るが、明治維新ごろまでは、騎乗八幡神像を安置していたと伝えられている。
本殿は、一間社流造り瓦葺きで、大正期まで覆屋・拝殿はなく、現在の拝殿は大字和田の和田神社拝殿を譲り受けたものである。
戦後の台風などにより多くの木が倒れたため、現在、境内はまばらな木によって囲まれているが、戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所であった。
田山花袋の小説「田舎教師」のモデルとなった小林秀三もこの森を眺めながら熊谷中学へ通ったようです。
埼玉県神社庁「埼玉の神社」より
比較的長めの参道の先に二の鳥居が見える。
「菅谷八幡神社由来記」には「戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所」と書かれているが、この行田・忍地域には昔からの伝説で「菅谷の森と白い狐」という昔話がある。
忍の行田の昔ばなし⇒http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/cat70690389/index.html
社周辺は道路も整備され、近代的な建物も並び、このような伝承等の面影もないが、参道周辺にはその当時の名残と雰囲気も漂っているようだ。
二の鳥居周辺の風景
二の鳥居の手前で右側に祀られている 二の鳥居を過ぎて暫く進むと右側に
塞神の石祠 境内社が祀られている。詳細は不明。
社殿前でどちらも右側には二基の石標柱等があり(写真左・右)左側は八幡神社の社号標柱で、右側は奉納柱、その下部には石祠(?)らしきものもある。
拝 殿
「菅谷八幡神社由来記」に記載されている「忍の豪族鴛 (おしどり)三郎」・及びその一族は、『吾妻鑑』にも度々登場している。
・吾妻鑑卷十
「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に、忍三郎、同五郎」
・卷十五
「建久六年三月九日、頼朝上洛随兵に、鴛三郎」
・卷二十五
「承久三年六月十四日、宇治合戦に手負の人々鴛四郎太郎」と。*鴛をオシと註す。
・卷四十
「建長二年三月一日、忍入道が跡」
・卷四十八
「正嘉二年三月一日、忍小太郎は将軍宗尊の随兵」
社殿からの一風景
武蔵七党・児玉党には忍氏が存在していた。
・肥後古記集覧
「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領、武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、並に久下・村岡・中条・忍・津戸・野村・広田・崛須・小見野・三尾乃野、弘行の所領なり」
・成田記
「延徳元年、成田親泰は忍三郎より相伝の地・忍大丞を攻め、児玉武蔵大掾重行も攻め殺す」
・新編武蔵風土記稿忍城下町条
「東鑑に忍三郎、忍五郎、忍小太郎、忍入道など見へたれば、是等の人はや其地の宣を見てここに住せしは論なし、されど此頃城塁ありしとは思はれず。小田原記関東古戦録を合せ考るに、成田下総守親泰入道宗蓮、児玉武蔵大掾重行を欺き殺して、彼が所領を併せ忍城を築くと云。重行を或は忍大掾ともあり」
参考資料「吾妻鑑」「肥後古記集覧」「成田記」「大里郡神社誌 箱田神社条」
「行田市文化財保護課 文化財保護グループHP」「行田郷土史研究会2012」
「埼玉の神社」「境内案内板」等