下中条治子神社
・所在地 埼玉県行田市下中条1665
・ご祭神 天手長雄命
・社 格 下中條村鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭(下中条の獅子舞) 8月18日に近い日曜日
地図 https://www.google.com/maps/@36.1892365,139.4645613,15.42z?hl=ja&entry=ttu
須賀熊野神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を西行し、「利根大堰」交差点を直進し、400m程進んだ右側に鎮座している。以前はここより150m程西にあったが、利根川堤防拡張工事の関係で移設を行なったようで、社殿や社務所も新たに建てられたようだ。白木の美しい社務所の南側には十数台駐車可能なスペースも確保されている。
下中条治子神社正面
美しい社。移設に伴い、社殿や社務所、手水舎等の施設は勿論の事、境内全体も新しく整備したようで、見た目も綺麗である。境内周囲にある社叢林もなく、若い木々である。何より遠目から見ても白木の社殿の美しさには、我々日本人の美的感覚を擽(くすぐ)られ、恥ずかしながら、一時時が止まったかのように暫く見とれてしまった。
勿論人の手による人工的な建造物であることは違いないのだが、今流行りの近代的な建物に比べると、木本来の美しさを日本人技術者(職人)が熟知し、加工を加えることにより、日本独特の木造建造物を創り出したと言えよう。思えば、日本全国に鎮座する数万社ともいわれる神社も、創建当時はこのような美しさであったのだ。
それと同時に社の創建に伴う、現実的な予算は如何ばかりであったろう。地方自治体の補助金だけでなく、地域の氏子・総代・地域住民等からの志(こころざし・寄付金)も決して少なくはなかったはずで、社の移転が決まり、完成に至るまでの経緯やそれまでの苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
鳥居正面に立ち、ふとそのような取り留めのないことを考えてしまった次第だ。
石製の白い鳥居が盛暑の空に一際目立つ。
利根川堤防が東西に広がる地に社は鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「下中条村」の解説
[現在地名]行田市下中条
北は利根川に接し、南は斎条(さいじよう)村、東は見沼代用水を隔てて須賀(すか)村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅(はら)郡の東端であったとする説がある。
天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
新しく造られた事もあり、参道や境内も綺麗に整備されている。
一対の狛犬は昔からのもののようで、新しい台座の上に立っている。
『新編武蔵風土記稿』によれば「天手長雄命」がご祭神として祀られているとの記載がある。天手長雄神は知る人ぞ知る壱岐国一宮の天手長雄神社のご祭神で、正式名は「天手力雄命」。この神は埼玉県、特に北部に多く祀られている神であり、どのような経緯で武蔵国まで伝搬したか、いつかは考察したい神である。一方、『埼玉県の神社』では「治由保大神(ちゆほのおおかみ)」、『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々』では、天照大神の末子である「治子大明神」がご祭神となっている。
また社の名称「治子」も行田HPによれば「はるこ」と読んでいるが、「八百万の神HP」「神社人HP」では「じこ」、又は「ちこ」と訓よみされている場合もあり、正式な名称はハッキリとは分からない。
どちらにしろ、どことなく不思議な香りが漂う社である。
鳥居を過ぎて参道を進むと、右手に設置されている「治子神社改築記念碑」
記念碑の並びには境内社・浅間神社が鎮座する。
塚上には「御嶽神社」「角行霊神・食行霊神」「亀岩八大龍神」等多くの石碑が祭られている。
これも新調した手水舎。参道の右側にあり。 境内社・浅間神社の並びにある石碑・石祠群
手水舎の奥には「宝物殿」が見える。 石祠には「不士山・水天宮・大黒天・庚申塔」等あり
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下中條村』
冶子明神社 村の鎭守なり、祭神は天手長雄命と云、
別當金藏院 小角山と號す、本山修驗、幸手不動院配下、開山秀範慶長十一年十一月化す、
本尊不動を安ず、
『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より』
治子神社(下中条)
言い伝えによると、忍城主の成田氏が城の鎮守神として治子神社を祭ったとも、また、室町時代の応永八年に鎌倉から遷座したともいわれています。
祭神は、天照大神の末子治子大明神とも、天手長雄命ともいわれていますが、神社と寺が一緒であった時代の別当金蔵院は修験であり、その影響で当社の内陣には木造の聖観音像が祭られています。
当社と隣接する興徳寺を中心に「下中条の獅子舞」が残されています。十八世紀後半の天明年間に利根川の洪水があり、獅子頭が漂着したので神前に奉納し獅子舞を舞ったのが始まりといいます。
災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか八月十八日の治子神社の例大祭(今日ではこれに近い日曜日)には神社と興徳寺で獅子舞が奉納されます。
弓、花、笹、注連、鐘巻など奉納される多くの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしたものです。
さらに下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあり、昭和五五年埼玉県指定民俗文化財に指定されました。
本 殿
ところで、下中条地域の獅子舞は、「下中條の獅子舞」ともよばれ、市内下中条地区に伝わる民俗芸能で、現在は下中条獅子舞保存会が保存・継承し、治子神社(はるこじんじゃ)、興徳寺(こうとくじ)を中心に奉納されているという。
社殿左側に祭られている合祀社(写真左)・境内社(同右)
左側の合祀社は、左から諏訪神社 八坂神社 稲荷神社 天神社 白山神社が祀られている。
合祀社のすぐ右手並びには、境内社・神明社が鎮座。神明社の左には「水神」「?」の石祠がある。
社殿右手奥に祀られている「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」等の石碑群
他には「蚕影山、豊受大神・富士嶽神社・愛宕大明神・稲荷大明神」等の石碑が祭られている。
社殿からの風景
「下中條の獅子舞」の起源については不詳ですが、言い伝えでは天明年間(1781~1789)の利根川大洪水の時に獅子頭が漂着し、これを神前に奉納して始まったと言われています。また、慶長5年(1598)に鎌倉の長谷から移住してきた長谷川家が下中条村を拓いた時から始まったとも言われていますが、その目的は厄除け、尚武のためと言われます。
弓、花、笹、注連、鐘巻(かねまき)などの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしています。また、下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあります。
現在は災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか8月18日(現在はこれに近い土曜日)の治子神社の例大祭に演じられています。
区分 県指定民俗文化財
種別 無形民俗文化財
所在地 行田市下中条
形態 三匹獅子舞
指定年月日 昭和55年3月29日
「行田市 HP」より引用
下中条治子神社から南西方向(直線距離にして250m程)に愛宕神社が鎮座している。
創建時期等は不明。『新編武蔵風土記稿』でも「「愛宕社 太神宮 神明社 以上三社、金藏院持、」としか記載がない。
社 殿 鳥居の右手に銀杏の巨木が聳え立つ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より」
「行田市 HP」等