持田大宮神社
5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わり、7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化される。その時期、僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
その後、平安時代中期,賀茂忠行,保憲父子,その門人安倍晴明の頃,陰陽道は全盛期をきわめる。これは、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていく。
室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流の土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
このように古代では公家(くげ)の政策に、中世では武家の戦術に取り入れられたこともあり、これらの風潮は、もちろん一般民衆の間にも浸透し、近世においては精神生活全般を左右するかのようにさえみられるほどで、日本人の生活全般にまで広まった。
その後近代的科学思想によって、所謂迷信打破が叫ばれた結果、ようやく表面的には影を潜めてきた。それでも婚礼、葬礼の日取り(大安(たいあん)、友引(ともびき)、仏滅(ぶつめつ)など)や、旅行、移転の方位(恵方(えほう)、鬼門(きもん)など)、縁組、就職の相性(あいしょう)関係など、陰陽道に関連した習慣は、いまなお残されているといってよい。
・所在地 埼玉県行田市持田6516
・ご祭神 事代主神
・社 格 旧村社 持田村下組鎮守
・例祭等 例祭 9月5日(本祭り) 9月6日 山下ろし
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360076,139.4492513,17.25z?entry=ttu
忍東照宮から埼玉県道128号熊谷羽生線を西方向に進む。城西からくり時計が設置されている「城西」交差点を左折し、「宮脇書店」手前の十字路を左折、200m程進むと右側に持田大宮神社が見えてくる。
持田大宮神社正面
現在は静かな住宅街のなかに鎮座する。
創建年代などは不詳。天正年間(1573~1592)に兵火で焼失、同15年(1587)社殿を再建。ここは忍城大宮口にあたるので当時は「大宮の久伊豆神社」と呼ばれていたようだ。
鳥居の両脇には、石柱・石碑が設置されている。左側には社号標柱、右側には大宮口御門跡」の石碑がそれぞれある。この地が嘗て「忍城裏鬼門の地」として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めたという。
「大宮口御門跡」の石碑
「大宮口御門跡」の石碑
忍城裏鬼門の地として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めた。天正18年(1590)石田三成忍城攻略で三成は下忍門を、そしてこの大宮口の地で大激戦が始まり、遂に不落の為水攻めとなったのである。
石碑文より引用
参道の両脇には玉砂利が敷かれ、手入れもしっかりとされているようだ。
戦国時代末期、豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、「小田原攻め」が決定する。この戦いの中で発生したのが「忍城の戦い」である。
1590年6月4日に三成は館林から忍へ移動、忍城大宮口(この付近)に本営を設けて攻撃を開始したという。この地は「忍城の戦い」での緒戦の地の一つでもあり、この戦いから3か月にも及ぶ「忍城水攻め」が繰り広げられたといってもよい。
拝 殿
社伝によると「創建の年月不詳なれども、天正年中社殿兵火により焼失す。同五年忍城裏鬼門なるにより城主成田下総守社殿を再建し字大宮前において一石を免ずる」という。「風土記稿」に「持田村久伊豆社下組の鎮守なり、天正15年の勧請と云」とある。また「増補忍名所図会」に「久伊豆大明神大宮口御門の外にあり、別当亀行山峯雲寺修験なり、当社の鳥居は往古は今の沼尻組屋敷の東はずれにありしとかや、其頃、神君御入国の節如何しけん、笠木に亀昇り居しを御覧有て吉瑞なるべしと御感悦ましませしとかや、是より号して亀行山と称す」とある。
現在も当社を大宮の久伊豆社と呼ぶ人があり、これは城表鬼門除けの長野の久伊豆社(長野久伊豆神社)と区別するためという。当社の位置は戦略的にも城にとって重要な地点といわれ、天正18年石田三成が忍城攻略の火蓋を切った所であり、やがて攻めあぐねた三成により歴史上有名な水攻めが行われた。
祭神は事代主神であり、17.5cmの神像を祀る。流造り柿葺きの本殿は大正期修復と伝えるほかは造営等明らかにできない。
大正5年、字相之道の八幡社、字飯沼の天神社、下忍通の塞神社を合祀している。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある「大宮神社」の扁額
拝殿向拝部や木鼻部には彩色こそないが、さりげなく丁寧に仕上げている彫刻が目を引く。
社殿奥に祭られている塞神等の石祠群 社殿右側に鎮座する境内社・石祠。
詳細不明
「鬼門(きもん)」とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位・方角のこと。日本では古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされている。
おそらく、平安時代までには「鬼門説」が移入されたと思われるが、これを立証するような正確な文献が現在見当たらないのも事実だ。例えば桓武(かんむ)天皇が王城を平安京に移したとき、鬼門除けとして比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を建立したという(*但しこの解釈は後代になってからの説のようだ)。
はっきりわかっているのは『吾妻鏡(あづまかがみ)』嘉禎(かてい)元年(1235)正月の条に、五大堂建立の地が幕府の鬼門にあたっているとの記載である。江戸城に対しても同様の理由から東叡山寛永寺を建立したという。今日においても、一般民家の建築に鬼門に対する警戒がみられ、この方角に便所や浴室を設けることを避けている。鬼門除けと称して、この方角に稲荷(いなり)などを屋敷神として祀(まつ)ることが広く行われている。
鬼門に対する俗信はきわめて多い。鬼門に向けて家を建てるなとか、この方角に出入口を設けたり、家の出っ張った所をつくるなという。これを犯すと病人や災難が絶えない、また分家を鬼門の方に出すと本家が成りたたぬともいう。鬼門の方角に常緑樹とくにエンジュの木を植えておくとよいという。鬼門と正反対の方角すなわち未申(ひつじさる)(南西)の方角を裏鬼門または病門(びょうもん)といい、鬼門と同様に忌み警戒されている。
綺麗に整備されている持田大宮神社境内
「裏鬼門」とは、北東に位置する「鬼門」に対し、南西の方角を示す。家の向きや間取りで運勢が変わるとされる家相において、鬼門や裏鬼門という用語が使用される。裏鬼門は、鬼門と同様に不吉な方角とされ、家を建てる際、この方角にトイレや風呂場、キッチンなどの水まわりや、玄関を造ることを避けるという風習がある。この思想は、もともと中国から伝わったものだが、のちに日本の陰陽道(おんみょうどう)の思想と融合し、丑寅(うしとら)の方角である北東と、未申(ひつじさる)の方角である南西が、忌み嫌われるようになった。
これらの方角は、悪霊が来る方角とされているため、魔よけの意味を持つヒイラギや南天の木を植えたり、屋敷神を置いたりして縁起を担ぐ場合もある。古代の都市計画でも、御所や幕府の鬼門、裏鬼門には寺などを置いて、鎮護させるような配置がされている。
行田市持田地域に鎮座している大宮神社は、忍城址から直線で南西方向500mの所に祭られている。これは所謂「鬼門除け」の神社として重要な位置にあったことが分かる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」
「境内石碑文」等