古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野氷川神社・野久伊豆神社

 野氷川神社
        
              
・所在地 埼玉県行田市野8851
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              
・社 格 旧野村鎮守
              ・
例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1049547,139.4912071,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社正面鳥居前の埼玉県道77号行田蓮田線、通称「古墳通り」を鴻巣市方向に進行し、2.6㎞程先にある十字路を右折し暫く進むと、正面に野氷川神社の社殿が見えてくる。但しよく見ると社殿は背を向けているので、右回り方向に迂回して正面鳥居方向に進まなければならない。
 正面の鳥居がある右側には「野文化センター」があり、参道とセンターの間は大きな広場になっていて駐車可能なスペースは十分にある。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                    野氷川神社正面
 野地域は行田市南部に位置し、鴻巣市と境を接している。この「野」という名前の由来は、『新編武蔵風土記稿』によると、「慶長年中(15961615)広野を開発したことに由来する」と伝えている。
 野氷川神社の創建年代は不詳だが、境内碑文によると天文年間に荒川が氾濫しないよう願い氷川様を勧請して創建したと伝えられ、野村原組の鎮守社であったという。明治41年には、野村に鎮座していた他の天神社(野天満大自在天神)・八幡社・新明社(野神明社)・諏訪神社を合祀、野村の鎮守となったという。
        
                   参道の様子
        
                    拝 殿
 野地域の伝統芸能として、行田市指定民俗文化財・無形民俗文化財(指定年月日:平成21730日)に「野の獅子舞」が奉納されている。
「行田市HP」
 野のささら獅子舞は市内野地区に伝わる民俗芸能で、現在は野村ささら獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、疫病退散、天下泰平、家内安全を祈願して、久伊豆神社、諏訪神社、聖天様(満願寺)、氷川神社などに奉納されています。
 起源については不詳ですが、確認されている最も古い記録には、諏訪大明神の「祭礼入用覚帳」の中で江戸時代後半の文政4年(1821)に「簓(ささら)」という言葉が記載されており、言い伝えでは約300年位前から始まったと言われています。
 獅子は太夫獅子(だゆうじし)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に先達(法螺貝)、幣束、万灯、面化(めんか)、歌、笛、獅子、花籠(はなかご)などで構成されています。
 ひとり立ち3頭のささら獅子舞とよばれ、獅子は腹に太鼓を結わえて叩きながら舞い、そこに4人の花籠がささらを持って舞いに加わります。曲目は「雌獅子隠し(めじしかくし)」で、3頭の獅子が花籠の周りを舞っているうちに雌獅子が隠れてしまいます。太夫獅子と雄獅子が探し回り、一方が先に見つけて楽しく遊び始めます。それを見た一方の獅子が怒って争いを始めるという筋書きです。一曲形式で勇壮な舞に特色があります。
 現在は10月下旬(第4
日曜日)に実施されています。
        
                拝殿の手前にある「力石」
 
                             本 殿             社殿左側に設置されている石碑。                  
 氷川神社
 当地は元荒川の左岸に広がる農業地帯である。この元荒川は寛永六年に関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川の本流であった。それまでの荒川といえば、その名が示す通りの暴れ川で、四年に一度は必ず氾濫していたといわれている。そこで、こうした度々の災害に困窮した村人たちが川の神様であるという氷川様を祀り、川が荒れないように願ったのが当社の創建であると伝えられ、境内にある「氷川神社の碑」の碑文によると、それは天文年間のこととされている。祭神は素盞嗚尊で、本殿は「風土記稿」に載る「元和二年再建」のものと思われ、美しい彫刻が施されている。
 当社は元来、野村全体の鎮守ではなく、その一耕地である原組の鎮守であり、ほかの耕地では各々の鎮守を祀っていた。ところが、明治四一年の合祀により、周りの耕地の鎮守であった天神社・八幡社・新明社・諏訪神社を合祀したことから、村鎮守として祀られるようになった。ただし、合祀した諸社の社殿はそのまま旧地に残され、今もそれぞれの耕地の人々の手で祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             社殿の右側奥にある石碑群(写真左・右)
        
                                  社殿からの一風景

 野久伊豆神社
        
               ・所在地 埼玉県行田市野647
               ・ご祭神 大己貴命
               ・社 格 不明
               ・例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
        野氷川神社から南方400m程の場所に鎮座している野久伊豆神社。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系』 「野村」の解説
 北は埼玉・利田(かがた)・渡柳・堤根(つつみね)の四村、南は元荒川を隔てて足立郡川面(かわづら)・箕田(みだの)両村(現鴻巣市)。洪積層微高地上にあり、地域内に縄文・古墳時代の集落遺跡が数ヵ所残る。地名は慶長年中(一五九六〜一六一五)広野を開発したことに由来すると伝えるが(風土記稿)、村内の正覚寺・満願寺とも開山は戦国期の僧であり、また満願寺には元亨四年(一三二四)建立の板碑がある。
 寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高六五七石余で、かつて忍おし城番であった旗本高木領。田園簿によれば田高四三〇石余・畑高五五四石余。
        
                                      拝 殿
 久伊豆神社
「風土記稿」によれば、当地は元は広い野原であったが、慶長年間開発し、野村と称したという。
 当社は天台宗正覚寺持であり、村鎮守は氷川社で、これも正覚寺持、元和二年の棟札が残っている。
 当地は、市の最東南端に当たり、戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させたと伝えられ、当時の記録を失った現在では、この迷路のような道が、唯一往時をしのばせるものとなっている。
 文久二年四月二五日付けで、伯家から正一位久伊豆大明神の神階を受けている。
 祭神は大己貴命であり、祭神について口碑はせっつぁま(久伊豆様)の鎮まる所を中耕地という。これはせっつぁまが情け深く、人の面倒みのよい神様で、そのお蔭で今まで耕地内でもめごとが起こったことがなく、仲がよい耕地ということで中耕地と呼ぶという。また中耕地の旦那寺満願寺は、妻沼聖天様の本家で仲がよい仏様であるから名付けられたともいう。
 拝殿を兼ねた覆屋の中に、一間社流造りの本殿と末社雷電社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」によると、「戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させた」と記載され、実際地図を確認すると、野地域自体、円形の集落を成していて、その中心部に野久伊豆神社は位置している。
 確かに、埼玉の神社が解説したことも一因として考えられるが、この地は嘗て荒川本流が幾重にも乱流していた地域であったことは忘れてはいけない。この地形を鑑みれば、荒川氾濫後にできた自然堤防を道として人々は利用し、それが後に、忍城の防御線として、道を迷路のように屈曲させたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
  

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渡柳常世岐姫神社

 豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いの中で、616日から716日にかけて武蔵国の忍城(現在の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いがあった。この戦いは「忍城の水攻め」といわれ、「備中高松城の戦い」「太田城の戦い」と共に日本三大水攻めのひとつに数えられている。
 75日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされながらも、忍城のみは頑強に抵抗し、後北条方で唯一落とせなかった城であった。結局忍城当主である成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたので、遂に716日、忍城は開城したという。
 ところで、行田市渡柳地域には「石田陣屋」と称する陣屋跡がある。石田三成が布陣し、指揮をとった場所は丸墓山古墳といわれている。実際丸墓山古墳上からの見晴らしは良く、作戦を練るには古墳に登上して周囲を見渡す必要があったであろうが、実際の起居や会議等は谷戸に面した僅かな比高差の段丘面であるこちらの陣屋で行われていたのであろう。残念ながら現在遺構らしきものはなく、墓地となっている。
 この大規模な合戦の指揮を執ったであろう「石田陣屋」南方近郊に、渡柳常世岐姫神社は厳かに、そしてひっそりと鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市渡柳1479
              
・ご祭神 常世岐姫命
              
・社 格 旧渡柳村鎮守・旧村社
              
・例祭等
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.120235,139.4786955,16.75z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社から400m程南方の洪積層微高地上に鎮座している渡柳常世岐姫神社。この地域は、北側から東側にかけては埼玉(さきたま)地域に接し、埼玉古墳群地帯にかかっていて、前方後円墳三、奈良・平安期集落三群の遺跡がある歴史的にも早くから開発がされていた地である。
 常世岐姫神社は、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族が大阪の八尾市に祀った社が本宮とされ、渡柳地域のこの社は、行田市荒木地域に鎮座する荒木常世岐姫神社を勧請したものとされている。
        
                 渡柳常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』
 渡柳村は江戸より十五里、民戸六十餘、四境東は和田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村なり、東西廿五町、南北廿町、成田用水を引用ゆ、寛永正保の頃御料所の外阿部豊後守・芝山權左衛門・佐久間久七郎等の采邑なりしに、元禄十一年村内一圓阿部豊後守に賜はり、今子孫鐵丸に至れり、檢地は元禄十二年時の領主阿部氏にて糺せり、
 
   参道右側には塞神二基祀られている。      一直線に進む参道。社叢林の先に社殿は建つ。

嘗てこの地域には、地域名を冠した「渡柳氏」がさりげなく歴史の舞台に登場している。
・『平家物語巻第九、三草勢揃(みくさせいぞろへ)
「搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経、相伴(あひともな)ふ人々、渡柳弥五郎清忠」
・『源平盛衰記 寿永21183)年111日 木曾左馬頭義仲の追討軍』
「大手大将軍 蒲冠者範頼 相従輩・武田太郎信義等 大手侍 渡柳弥五郎清忠等」
 この渡柳弥五郎清忠という人物は、平家物語において畠山重忠等同様に、出兵した武士の一員として記載されていることから、当時渡柳地域のみならず、多くの狩猟を持つ武将であったと考えられる。
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』には、この人物に関して以下の記載がある。
小名 陣場
村の西を云、天正十八年石田治部少輔三成、忍城を責し時、本陣とせし所なり、こヽに陳場の松とて大木ありしが、天明年中枯たりと云、又此邊に塚九つあり、是は石田三成忍城責の時、渡柳の地へ本陣をすゑ、城に向て伏椀の如くなる塚歎多築き仕寄となすと傳るは、此塚のことなり、其内戸場口山と呼塚あり、此塚の中より近き頃石棺を掘出せり、其中に九尺程の野太刀あり、今村内本性寺に納め置り、土人の話にこは當所に住せし渡柳彌五郎といへる人を、葬たる塚ならんといへり、成田分限帳に十八貫文渡柳將監と見えしは、在名をもて名とせしものにて、彼彌五郎の子孫ならんか、さあらば三成が築きし以前よりありし古塚なることしらる、
 八王子社 村の鎭守なり
 末社 八幡、渡柳彌五郎が靈を祀れる由、彌五郎八幡と稱す
 〇八幡社 〇諏訪社 〇稻荷社 〇二ツ宮 以上萬法院持
 〇神明社 〇天神社 以上長福寺持
        
         参道の先には高台があり、その高台上に社殿は鎮座している。
        
                    拝 殿
                     
                    境内に設置されている「御由緒」の碑
               村社 常世岐姫神社 御由緒           
                     由緒

        創立ノ年度詳ナラズ往古ヨリ村鎭守八王子大權現ト唱フ其他口
        碑ニダモ傳ハラズ現在ノ社殿ハ文政九年四月村内有志ノ醵金ヲ
        以テ再建ス其ノ後明治二年五月村社常世岐姫神社ト改称ス同六
        年中村社二申立濟 明治四十二年十二月十八日字久保無各社諏
        訪神社字内郷無各社天神社同字無各社伊奈利社字舟原無各社洗
        磯前神社字久保無各社八幡社字神明前無各社神明社同境内塞神
              
社合併許可  境内六百九十二坪

 拝殿に通じる石段上で、左側に鎮座する境内社       拝殿左側に祀られている石祠二基
         詳細不明                     ことらも詳しいことは不明
        
                           社殿手前の石段周辺から一の鳥居を望む



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内記念碑文」等
 

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持田劔神社

『新編武蔵風土記稿 持田村』
 持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり、(中略)
 又岩松文書文永三年岩松家本領所の注文、武蔵の處に糯田鄕と載せ、及び応永十一年岩松右京大夫が所領注文にも、同鄕を出したれば、新田家より岩松へ相續せしと見ゆ、持田と書改しも古きことにや、持田氏の系譜に、持田左馬助忠久は生国武藏の人にて、深谷の上杉則盛に仕ふ、其子右馬助忠吉も上杉に仕へしが、上杉没落の後菅沼小大膳に仕ふとみえたり、是當所の産にて、在名を氏に唱へしならん、又成田分限帳に永五貫文持田右馬助、永五十一貫文持田長門と載、是等も忠久が一族なるべし、

 この持田氏は元々出雲の大国主命の部下あり、本拠地は今の島根県に当たる。大和朝廷に下った後、平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麿の蝦夷討伐を目的とする東方遠征に持田氏も従軍した。その際に築城した各国の柵に兵士を残していった。本隊に残った持田氏は出雲に戻り、出雲に土着して地方豪族として尼子や松平等に仕えて明治維新を向かえているが、各地域に残された一部の氏族、特に、静岡県の持田氏、埼玉県行田市の持田氏等はこの時生まれたといい、現在でも埼玉県や島根県には持田姓は数多く存在する。
*寛政呈譜
「持田左馬助忠久(武蔵国深谷の上杉則盛につかへ、某年死す。年七十二
.。法名道龍)―右馬助忠吉(上杉家につかへ、没落のゝち菅沼小大膳定利につかふ。慶長七年十二月めされて東照宮につかへたてまつり、武蔵国忍城の番をつとむ。寛永十年死す。年六十四.。法名蒼河)―五左衛門忠重(寛永十年父が遺跡を継、忍城の番をつとめ、十七年めされて江戸に来り御宝蔵番となり、子孫相継て御家人たり)。家紋、丸に蔦」

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5937
              
・ご祭神 日本武尊
              
・社 格 旧持田村中組鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 417日 夏祭り 819日 秋祭り 99
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1388825,139.436117,17z?hl=ja&entry=ttu
 小敷田春日神社から忍川を挟んで直線で400m程南東方向に鎮座している持田劔神社。行政上、小敷田と持田両地域は忍川が地域境となっている。秩父鉄道が東西に流れているその北部にあり、周囲一帯民家が立ち並び、綺麗に整備されている道路沿いに社は佇んでいる。
        
                                 
持田劔神社正面
 鳥居の上部笠石、貫石等が欠けて、柱のみしかなく、また両側の灯篭も左側片方が崩れている。嘗ての大震災の影響であろうか。その正面鳥居や燈篭のインパクトが強く残ってしまったためか、どことなく境内もやや管理が行き届いていない様子に見えてしまった。思うに人間の自己脳内印象操作とは恐ろしい。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系 』「持田村」の解説
 北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田(もちだ)郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵(ほうぞう)寺に延応二年(一二四〇)阿種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷(やのごう)入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
       
           参道右側に雄々しく聳え立つ大木(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』には持田村の歴史や地形上の特徴として持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり(中略)、東は下忍村、南は鎌塚村、及び大里郡佐谷田村にて、西は大井・小舗田・戸出の三村、北は皿尾・中里・上村なり、東西卅二町、南北廿三町の大村なれば、村内を私に上中下の三組に分ちて沙汰せりと云、又東南の方に小字前谷と呼ぶ處あり、中古開きし新田にて、本村の外民家四十聚住す、故に土人こヽを私には前谷村と唱へり、當村も御入國の後より忍城附の村にして」と、嘗ては「龜甲庄」と称し、また「持田」の地名由来を「あまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化」と解説している。
        
                    拝 殿
 持田劔神社の鎮座する地は、文明年中に築城されたという忍城の持田口の西にあたる。社記によれば、当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣を神体に社を建てたことに始まるという日本武尊伝説があり、行田市内には同様の伝説が斎条劔神社、中江袋劔神社にも残されている。
 新編武蔵風土記稿によると、江戸時代には、剱宮と称し、持田村中組の鎮守で、長福寺を別当寺としていたという。

        
               境内に設置されている記念碑
 剣神社改築記念碑
 当社は古くから剣宮と称しお剣様の呼び名で氏子(上持田、中持田)から親しまれ字竹の花に鎮守として祀られて来ました
 境内左方に稲荷、 浅間、大天白と、右方に塞神を祀した社であります
 社記によれば当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣をご神体に社を建てたと伝えられています
 この由緒ある社殿も建立以来幾度か修築を重ね風雪に耐えて参りましたが、この間各所に腐食が甚だしく神社総代相集い改築構想を協議しその実施を進める機運が昂まり建設委員氏子二百四拾六名もの賛意が得られ浄財拠出によって、平成四年五月一日神社改築が発足しこの度その竣工をみたのであります
 時代の幾多変遷にもかかわらず今に続く清新な神社崇数の思慕を伺い知ることが出来ます
 神社改築を機として氏子中ますます隆盛を念願してやみません(以下略)
                                      記念碑より引用

 
  拝殿左側に祀られている境内社・三社            本 殿
      左から稲荷社・浅間社・大天白社
       
                                  御大典記念碑
          邨社劍神社為武蔵國埼玉郡持田村中區鎮守雖創建不
          詳祀日本武尊配之以草薙劍者也臨雄川之清流老杉森
          鬱本殿享保二十一年脩之拜殿寶暦八年所造營至今葢
          二百年漸来廃頽區民胥謀醵出工費撤其覆屋改銅板別
          移舊拜殿為社務所及其竣工也輪奐更加美境地一新○
            實大正十四年六月也今茲昭和三年十一月舉
          即位之大典大廟參拜之某等欲効敬神之誠建碑于社前
          来請文余亦與于工事者焉以不文可辭哉即叙其来歴繫
                  
以銘銘曰(以下略)

『新編武蔵風土記稿 埼玉郡』において、持田村は「亀甲荘」と称していた。不思議な名称である。加えて、亀甲荘の該当する範囲は持田村一村のみの限定区域。持田と亀甲の深い関係が想像できよう。
「亀甲」は「亀の甲羅」を表し、古代中国では、亀の甲羅を用いて占いを行う“亀ト(きぼく)”による政策決定や意思決定が盛んに行われていた時代もあった(後にこれが甲骨文字と呼ばれるようになった)。
 日本列島には中国大陸または朝鮮半島から持ち込まれたとみられ、『三国志』「東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)の倭人の占術に関する記述として、「其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う」とあり、文献史料から日本列島における太占(ふとまに)=骨卜(こつぼく)は弥生時代には行われていた事が知られている。
 日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあるそうであり、古代中国での亀の甲羅(卜甲)を用いる亀卜よりも、日本では鹿の獣骨(卜骨)を用いる骨卜が主流であったようだ。
       
                               社殿付近からの一風景 
 日本では古来から「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、「亀甲文様」は長寿吉兆をもたらす縁起の良さと、その格式の高さで、国内外問わず多くの人に愛されていた。
 また能楽では蛇体の女が鱗の衣装を用いていて、鱗紋を亀甲(きっこう)といったりしている。
また「亀甲」をいうと、「亀甲紋」を連想するケースもあるが、この紋は、長寿のシンボルである「亀」の甲羅をモチーフにした紋で、正六角形の中に他の紋を組み合わせて複紋として用いることが多く、亀甲紋は、様々な家紋の中でも特別なものとして扱われており、名門武家の紋としても用いられている。
 また、神社の神紋としても多く用いられていて、有名なものとしては出雲大社、その他にも厳島神社や櫛田神社などが挙げられている。

 埼玉県、及び島根県には「持田」姓が多い。また出雲大社の神紋は「亀甲紋」。持田村は嘗て「亀甲祥」と称していたこと。これらは何を意味しているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「寛政呈譜」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「名字由来ネット」
    「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
           



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関根神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市関根365
              
・ご祭神 (主)倉稲魂命
                   
(相)菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命 大山咋命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 初午 3月 春日待 415日 天王様 77日 
                                      秋日待 
92
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1236202,139.5202394,16z?entry=ttu

 行田市関根地域は同市東端部に位置し、西側は行田市小針、北側は真名板両地域、東で加須市阿良川・外田ヶ谷、南で鴻巣市赤城・北根・広田(飛地)に接する。おおむね見沼代用水の左岸にあたり、北端を埼玉県道32号鴻巣羽生線が東側を縦断する。地内は主に水田などの農地となっている。
 途中経路は小針日枝神社を参照。『古代蓮の里公園』と行田市東部給水場との「古代蓮の里」交差点を左折して暫く東行し、見沼大用水に架かる「さわやか橋」を越えて、更に250m進むと、信号のない交差点を右折する。そこから900m程南東方向に進むと、右側に「関根農村センター」が見え、その西側隣に関根神社は鎮座している。
 関根農村センター前には数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始した。寒風が吹く時期側には珍しく、雲ひとつ見えないぐらいの晴天の中、穏やかな気持ちで参拝に臨めた。
 
   関根農村センターの傍にある社号標柱             関根神社正面鳥居
 正直言うと距離的には鴻巣市赤城地域に鎮座する赤城神社の方がはるかに近く、直線距離でも360m程しか離れていないが、そこから関根神社までのルートを説明するのが難しく、大きく東側から北方向に大きく迂回するルートとなる為、距離的には遠くなるが、古代蓮の里公園北側に鎮座する小針日枝神社を出発地点として説明した。
        
               見沼代用水の左岸に鎮座する社 
 見沼代用水(みぬまだいようすい)は、江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水のことである。名前の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。
 見沼代用水は利根川から取水していて、行田市下中条にある利根大堰で利根川の流れを堰止とめ、そこから決められた量を守り取水し、東縁代用水路は東京都足立区、西縁見沼代用水路は埼玉県川口市に至る。
 埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。

       参道途中に祀られている弁財天     参道を挟んで関根集落センター側に祀られて
                         いる金毘羅大権現及び仙元神社。
   弁財天、金毘羅は水にかかわる信仰であり、この地に祀られている事にも納得できよう。
       
                     拝 殿
 鎮座地関根は利根川から水を引いて、県南部の農地を潤す見沼代用水の北岸に開けた所で、地名は用水の「堰」に由来しているという。
 関根神社は見沼大用水と旧忍川との合流地点付近にあり、用水堤脇、耕作地を一望する新田の地に鎮座している。この社は嘗て稲荷社と呼ばれ倉稲魂命を祀り、境内社として天王社を祀っていた。明治40年字野中の村社日枝神社・無格社白山神社を本殿に合祀し、更に天神社、塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社、金刀比羅社を境内末社として合祀し社号を関根神社と改めたという。
*「行田八幡神社・兼務する神社」参照
        
                     本 殿
            境内から抜けて、用水の土手沿いから撮影

 社殿右側には境内社が三基祀られている。上記「行田八幡神社・兼務する神社」によれば、「明治40年字野中の村社日枝神社・無格社白山神社を本殿に合祀し、更に天神社、塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社、金刀比羅社を境内末社として合祀」と記載されているので、本殿に合祀している二柱(日枝・白山神社)、及び既に紹介した金刀比羅社以外の社(塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社)という事になる。但し境内社には何も表記されていないので、詳細は不明である。
  
       
                               関根神社 社殿からの眺め
 

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「Wikipedia」等
 

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酒巻八幡神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市酒巻2038
               ・ご祭神 誉田別命
               
・社 格 旧酒巻村鎮守 旧村社
               ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1847204,139.4546514,17z?entry=ttu

 行田市酒巻地域は、同市北部・利根川と福川の合流点に位置する。『新編武蔵風土記稿』には「当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云」「水勢さかまくさま、近郷又なき地なり」と記載され、地域名由来として、利根川と福川の合流で逆巻いた場所よりくるといい、土地柄河川に関連した地名といえる。
 途中までの経路は斎条劔神社を参照。斎条劔神社に接している南北に通じる埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を700m程北方向に進むと、同県道59号羽生妻沼線との交点である「斎条」交差点に到着する。この交差点を直行すると利根川河川敷に達し、その河川敷沿いのほぼ正面に酒巻八幡神社は鎮座している。
 尚、社の敷地内に駐車スペースはあるので、駐車場探しをする苦労がないのは、本当に助かる。
        
            利根川右岸の堤下に鎮座している酒巻八幡神社
『日本歴史地名大系』での「酒巻村」の解説によれば、北は利根川・福川の合流点にあたり、東は斎条村・下中条(しもちゆうじよう)村に接し、南は南河原・犬塚(現南河原村)両村に続く。この地域は関東造盆運動による地盤沈下がひどく、利根川氾濫による堆積作用とあいまって、水田下に二〇基に及ぶ古墳が確認され、酒巻古墳群と称される。
 天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍酒巻靱負(永五〇〇貫文)ほか二名の酒巻姓の武士の名が載っている。同一三年、北条家が長尾顕長に発給した正月一四日の印判状(長尾文書)に「さかまき」とみえ、対岸上野国赤岩(現群馬県千代田町)との間に渡船があった。古代には幡羅郡に含まれたとする説もあるそうだ。
        
                綺麗に整備されている境内
 嘗て酒巻村には、江戸時代を通じて「酒巻河岸」があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれていた。この「酒巻河岸」とは、利根川右岸の河岸。元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)に「酒巻川岸」として江戸へ川道三二里、運賃三分一厘と載り、忍藩阿部家の手船が時期により一ないし数艘この河岸にあった(正田家文書)。
 また文政元年(一八一八)上流の幡羅(はら)郡葛和田(くずわだ)河岸(現妻沼町)が熊谷宿の商人荷物を忌避した時、阿部家手船は上野国館林藩の手船とともに商荷の運送に助力を請われている。
        
                     拝 殿
 八幡神社(酒巻)
 総合福祉会館の近くに鎮座しており、江戸時代の初期慶長十三年に社殿を再建したといいます。
 祭神は名前の通り八幡明神ですが、本殿には僧形八幡坐像が祭られています。この像は二七センチほどの高さの木像で、袈裟をかけた僧侶の姿を写実的に描いた像です。像の膝裏には宝永三年(一七〇六)に造られたことが墨画きされています。
 神社に僧侶の姿の像というのは異質なものに見えますが、人々を救うために仏が神となって姿を現した形を表現したもので、本地垂迹説の思想から造られた像であるといわれます。
 神社のある酒巻村には、江戸時代酒巻河岸があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれました。
 忍城主阿部家の時代には、阿部家のもつ手船があり、この手船頭を正田家が勤め年に二万四千俵の廻米を江戸に送ったといいます。文政六年に阿部家に代わって忍城主となった松平家はこの手船を廃止し、酒巻村名主中村家を廻米御用船世話役に任命し領内の村々の蔵から江戸屋敷まで年貢米の運送を担当させたといいます。
 明治になり東京に移住する松平忠敬旧藩主を藩士一同涙して見送りしたのもこの酒巻河岸でした。
                                  『行田の神々』より引用

        
               拝殿の左側に祀られている境内社
 2012112日に公開された「のぼうの城」のメインキャストの一人に「酒巻 靱負(さかまき ゆきえ)」が登場した。この人物の出身地はこの酒巻地域と言われていて、「埼玉県史」によれば酒巻家は元々土着の有力者で、成田親泰(氏長の祖父)の代に成田家に従ったとされる。酒巻姓を名乗る前は金田姓であったとも伝えられる。
 酒巻靭負は文献によって名前の表記に違いがあり、「成田分限帳」では酒巻靭負助、「行田市譚」では酒巻靭負之助詮稠(あきちか)・酒巻靭負・酒巻靭負之助・酒巻靭負允と一つの文献の中でいくつもの表記が見られる。だが、同一人物であるのは確かなようだ。
 酒巻家に伝わる家系図にも諱(いみな)は伝わっていないという。また氏長の父親である長泰の代から酒巻靭負の名が資料に出てくることから、靭負は官職名である為、親子で同じ名前であった可能性もある。
 忍城の戦いでは、下忍口を手島采女以下600人余で守った。忍城開城後は深谷城へ赴き、忍城戦の報告をした。開城後に会津へ向かった主君氏長には同行しなかった。戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる。羽生市上手子林には今も子孫が暮らしているという。
*因みに『新編武蔵風土記稿 酒巻村条』には酒巻 靱負、及びその一族に関して以下の記載がある。
当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云、成田氏家人の事を記せし者に、永樂(楽)五百貫文酒巻靭負亮長安、同五十貫文酒巻三河、同三十貫文・酒巻源次右衛門などあるは、當(当)所の在名を用ひしものなるべし」
 
 参道の両側には幾多の石碑、石神が設置されている。その中には利根川堤防拡張のために現在地に移設した「八幡神社新築記念碑」(写真左)があり、つい最近に移設したようだ。また記念碑の向かい側には「諏訪大神」と刻まれた石祠もある。(同右・真ん中の石碑)。
 石祠等3基は古い形状でもあり、移設の際に、そのまま持ち込まれたものと思われる。また社殿に関しても、その木材の色の違いから、特に向拝部・木鼻部等、昔の社殿の一部で、再利用できるものはそのまま使用しているようである。
        
                     利根川堤防のすぐ南側に鎮座する酒巻八幡神社
 行田市酒巻地域は利根川・福川の合流地点に位置し、過去数えきれないほどの水難等の災害を経験している。『新編武蔵風土記稿』に記載されている「逆巻いた場所」という地名由来にも説得力がある。なにせ河川の規模は日本一で、「坂東太郎」の異名を持ち、日本でも「三大暴れ川」としても有名な利根川、その水難時の激流たるや、レベルを超えたものであったろう。


 酒巻八幡神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を600m程西行すると、進行方向左側に「酒巻会館」があり、そこの敷地の一角には「酒巻古墳群(さかまきこふんぐん)」の案内板が立っている。県道沿いにこの案内板は設置されているので、見失うことはほぼないであろう。
 酒巻古墳群は、埼玉県行田市酒巻に存在する古墳群である。現在は残念ながら全て消失または埋没し、周囲一面見渡す限りの田畑風景となっている。
 前方後円墳3基、円墳20基の、合計23基。この他に存在すると言われている未確認のものが1基ある。5世紀末から7世紀初頭の築造とされている。
 ほぼすべての古墳が水田面下に埋没した状態で散在している。地元の人は「飛び島地」と呼び、墳頂部をならして畑として利用していた。
 酒巻古墳群の存在する行田市酒巻地区は、加須低地に位置している。この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。1964年(昭和39年)に斎条古墳群の発掘調査を行う時点で、斎条5号墳が地表から11.5mの深さまで埋没していたことから、酒巻古墳群も同じように沈降してしまったと考えられる。
 1983年(昭和58年)、さすなべ排水路の改修工事と県営かんがい排水整備事業が行田市酒巻地区にて実施されることになり、それにより工事より先に発掘調査を実施する運びとなった。1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの調査により、23
基の古墳の概要が判明した。
        
       酒巻会館の敷地内で、県道沿いに設置されている
酒巻古墳群の案内板

 その酒巻古墳群の中でも「酒巻14号墳」から出土した埴輪は、平成1968日に国指定重要文化財に指定されている。『行田市HP』での記載では以下のように記述されている。
酒巻14号墳出土埴輪』
 国指定重要文化財 指定年月日 平成1968
 酒巻14号墳は、昭和6112月から昭和623月にかけて農業基盤整備工事に先立ち発掘調査が実施されました。調査は古墳全体の約1/3が対象となりましたが、確認された周掘や墳丘の状況から、本古墳は直径約42メートルの円墳で現地表面より1.3メートル埋没していたことが明らかになりました。
 埴輪は、墳丘中段のテラス状の部分から、墳丘を二重に巡るように配置された状態で検出されました。外側に円筒埴輪、内側には人物、馬形埴輪などの形象埴輪が巡らされており、人物埴輪は台部の設置状況から、墳丘を背にして外側に向かって立てられていたことが確認されています。
 形象埴輪の中で注目されるのは、馬の背に旗竿を指した馬形埴輪の存在です。鞍の後部に屈曲したパイプ状の旗竿が付けられており、この旗竿上部のソケット部分には、近くから検出された旗をかたどった部品がセットされます。この旗竿は、これまで用途不明とされてきた蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)の性格・用途を明らかにした点で重要であり、国内では本例のほかに例はありません。
人物埴輪には、手先まで隠れる筒袖の衣装を着けたものや、まわしを締めた力士埴輪があり、当時の風俗を知るうえで重要です。
埴輪の時期は、6
世紀後半と考えられています。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「行田市HP」「行田の神々
    Wikipedia


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