古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長在家稲荷神社

  上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。
 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。

        
             ・所在地 埼玉県深谷市長在家204-                                                         
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 毎年3月 例祭(豆腐祭り)祈年祭 316日 
                  新嘗祭 
121
             *祭日に関して「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.com/maps/@36.145401,139.289745,17z?hl=ja&entry=ttu   
 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
                        
                     道路を挟んで一の鳥居の反対側にある石塔
            
                                                       長在家稲荷神社正面       
 
 鳥居周辺、及び参道には石臼が敷き詰められている。            石臼参道の案内板            
 深谷市指定有形民俗文化財  
 石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)
 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。
 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                案内板より引用
                 
                    鳥居のすぐ先に聳え立つご神木(写真左・右)
            
                                拝 殿
             
 拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。
 
                    社殿上部に飾られている奉納額(写真左・右)。
            
                                                          稲荷神社改修工事記念碑
 稲荷神社改修工事記念碑
 正一位稲荷大明神(倉稲魂命)
 長在家稲荷神社の主祭神です。
 当地は古くは武蔵国榛沢郡長在家村と呼ばれておりました。
 この神社の創建は不詳ですが、享保十九年(一七三四年)に神祇管領ト部兼雄から宗源宣旨を受け、正一位に叙せられたことと、この地の歴史を考えると江戸時代の初期、又はそれ以前の創建と考えられます。
 境内には、明治四十一年(一九〇八年)に合祀された、八坂神社(素盞男命)、飛房大神(天手力男命)、子ノ大権現 (大国主命)、浅間神社(木華開耶姫命)とその他の神様も祀られています。
 五穀豊穣・商工繁盛・家内安全・身体壮健・縁結び等平和と繁栄の神社として信仰されてきました。
 祭りは元旦祭、春季例大祭三月、八坂祭り七月、勤労感謝祭十月と年四回行われています。
 このような歴史有る神社も近年老朽化が甚だしく、敬神・愛郷の念厚い地元崇敬者は社殿等の護持に心を砕いていました。
 平成二十六年(二〇一四年)拝殿改修等の気運が盛り上がり、長在家の皆様の総意で建設委員会を立ち上げ、二年後の完成を目標に計画を進めました。
 皆様に、貴重な浄財を多大に寄進して戴き、拝殿・境内の改修、神輿庫の改築、水屋の改修、末社の整理と覆屋の新築を行い、ここに稲荷神社改修奉祝祭を斎行し、依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻み永く記念とします。
                                      案内板より引用



 ところで長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年~27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。

 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。
 
        長在家稲荷神社社殿周辺にある境内社(写真左)と、可愛らしい一対の狐様の石像(同右)。
                          
                                石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。


 

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黒田豊榮神社

 寄居町から深谷市旧川本町辺りの荒川中流域右岸の台地(櫛引台地、江南台地)上には、男衾郡の式内社である出雲乃伊波比神社、小被神社、稲乃比売神社や、井椋神社等、由緒ある社や、鹿島古墳群のような古墳が多くあり、古代において発達した地域だったと推測される。
 それに対して荒川中流域左岸は旧花園町地域であり、町の殆どが櫛引台地上に位置し、現代では主に農業と造園が盛んな地域だが、古墳時代にはこの地域にも100基を超える小前田古墳群や黒田古墳群等があったという。
 その中の黒田古墳群は荒川の河岸段丘上に立地し、帆立貝形古墳と円墳30基以上で構成されていて、現存する古墳は1977年(昭和52年)4月1日付けで花園町(当時)指定史跡に指定された。黒田2号墳は全長41mの帆立貝形古墳で、6世紀末の築造と推定され、周溝からは形象埴輪片(人物・馬)が発掘されていて、前方部をほぼ真西に向けている。周堀のある2段築成の古墳である。また黒田17号墳はやはり6世紀末の築造で、直径22mの円墳。幅約6mの周溝が巡る。主体部は川原石を用いた胴張りのある横穴式石室で、全長5.24mである。副葬品は、大刀1、七窓鐔1、鎺2、鉄鏃10、刀子2、耳環1、ガラス製小玉46以上が出土した。なお墳頂部から高さ97.4㎝の完形の大刀形埴輪が出土しており、平成5年3月10日付けで埼玉県有形文化財に指定された。
 この黒田地区の一角に鎮守の社として黒田豊榮神社が鎮座している。

                 
              ・所在地 埼玉県深谷市黒田1497
              ・ご祭神 宇迦之御魂神(推定)
              ・社 挌 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 129
              *祭日に関して「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.com/maps/@36.126711,139.2507779,17z?hl=ja&entry=ttu   
 黒田豊榮神社は国道140号バイパスを花園インター方向に進み、黒田交差点のすぐ先の左折する細い道を曲がり、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、右側に社が見えてくる。開放感のある空間の中に鎮座する社で、荒川の土手がすぐ先にある。江戸時代初期まで「赤口神社」と呼ばれ、江戸時代初期の正保年間(1644~48)の頃、現在地の字宮台に遷座されたという。
             
                            黒田豊榮神社正面鳥居
 
      鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫      神興庫、社務所の並びにある獅子頭新調記念碑
            
                                  拝  殿
 江戸時代前の社名「赤口神社」の「赤口」は「しゃっこう」「しゃぐし」「さぐし」等、呼び方は様々ある。一般的な意味では歴注、六曜のひとつで、火の元、刃物に気をつける。つまり「死」を連想される物に注意する日とされ、午の刻(午前11時ごろから午後1時ごろまで)のみ吉で、それ以外は凶とされていて、一種の縁起物として今でもカレンダー等で使われている。
 それとは別に、「赤口」を石神(シャクジ)という大和民族移住前の古来からある先住民の信仰という説もある。ミシャグシ信仰は東日本の広域に渡って分布していて、信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられているが、その全容が解明されたわけではない謎の信仰形態だ。
                     
              
                                拝殿内部
         写真右側には黒田の獅子舞に使われる獅子頭が6頭大切に保存されている。
                  
                社殿の右で道路側にある「黒田のささら獅子舞」の案内板
黒田のささら獅子舞」    所在地  花園町大字黒田地内
 黒田のささら獅子舞は、この黒田地区に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は江戸時代中頃の荒川増水の折に、上流より獅子頭が流れ着いた事から始まったといわれている。
 獅子舞は三頭の獅子により演じられるが、他に「万灯」、「金杖」、「花笠ささら」、「棒使い」、「仲立ち」等の役が付き、笛などの囃方を合わせて総勢で約三十人程で行う。
 舞いは、二十三曲程あり物語形式だが現在踊られなくなったものも多い。
 獅子舞の名称に付く「ささら」とは、竹を小割りしたもので、花笠役が持ち、棒でこれを擦ることにより音をだすものである。
 獅子舞は毎年十月十四日の豊榮神社の秋祭に境内で上演される。
 現在保存団体として、黒田ささら獅子舞保存会が組織され、保存と伝承にあたり、毎年近在の子供を対象に伝承活動を行っている。
 その活動が認められて、昭和五十八年には埼玉県知事より「文化のともしび賞」を受賞している。
 昭和五十二年、この獅子舞を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月    深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用

        社殿の左側にある境内社               境内にある「合祀記念」 
    左より荒御魂神社・戸隠神社・瑞穂神社
「合祀記念」
 熊谷中學校教諭秀奄田島榮七篆額
 本村社 豐榮神社は其の起原を詳にせすと雖も古くより 赤口社 聖天社と稱し當地の鎮守として字赤口(俗に元社地と称し赤口の池の北にあり明治九年検地の際字上南原に編入せらる)にあり氏子の索敵する所なりしか傳へ曰ふ豐臣氏の鉢形城を攻むるに方り兵燹に罹りしを以て此の地に遷し奉りしものなりを明治維新の後 赤口神社(祭神を埴山姫命とす) 二柱神社(祭神を伊邪那岐命伊邪那美命の二神とす)を改稱し氏子を合同して村社となせり其の後明治三十九年十二月 勅令に遵ひ 神意を承けて兩社を合せ 豐榮神社と改め奉り氏子の協議に由りて拜殿を新築したり同時に從來各所に散在せし無格社 神明大神(撞賢木厳之御魂天疎向津比賣神) 地神社(埴山姫命) 養蠺神社(宇氣母智神) 磯崎大神(大名牟遅神 少彦毘古那神)を合せて 瑞穂神社とし 八坂神社(建速須佐之男命) 淺間大神(木花佐久夜姫神) 愛宕神社(火産霊神)を合せて 荒御霊神社と改め境内に遷して奉祀すること〇な〇〇後の記念のために經歴の大要を述すと云爾(以下略)
                                                    「合祀記念碑文」より引用

 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。
            
                       黒田豊榮神社 境内の一風景
 黒田豊榮神社の荒川の対岸には男衾郡「赤浜」地区がある。この赤浜には「字塚田」という地があり、この地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した塚田鋳物師集団がいたという。
 この地には大沢半左衛門という畠山重忠の配下の墓もあることから、赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。この「赤浜」と豊榮神社の元鎮座地「赤口」は「赤」を共有している地である。また現存している畠山重忠の甲冑は「赤糸威大鎧」で、赤色を基調としている。単に偶然だろうか。武将にとって甲冑は身を守る道具というよりは、一種のファッションであり、また同時に自分を表現する大事なものであり、武勲栄達を願う信仰の対象でもあったという。
 日本では色の名称の由来で「赤」は元々「火」を意味するという。何か関連性があるのだろうか。

 

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上原白髭神社

 上原白髭神社が鎮座する上原地区は、文久元年(1868年)猪俣村岡本文書に「榛沢郡上原村、下原村」と見えるところから、元「原」地区であり、その後下原と上原に分かれたと思われる。このうちの下原地区は、地頭岡田氏寛政十年申渡覚(名主宇野文書)に下原村と記述され、室町時代には刀工下原鍛冶の小川氏・田島氏等が居住していたという。
 対して上原地区は、大里郡神社誌に「原村白髪神社(今は白髭)は、当村の開拓者大沢某天正三年茲に勧請せりと称せらる。大沢家は近世に至るまで別当職たり、旧別当職の子孫大沢九平なり」と書かれ、天正年間(1573年~1593年)に大沢氏が創建した社であったことが紀されている。

        
             ・所在地 埼玉県深谷市上原214
             ・御祭神 清寧天皇、武内宿禰
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 49日 例祭 109日 新嘗祭 1215
             *祭日に関して「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1472463,139.2709267,17z?hl=ja&entry=ttu        
  上原白髭神社は永田八幡神社から国道140号彩甲斐街道に戻り、そのまま熊谷方面に進むと、田中(西)交差点の先で右側に長い松林が見えてくる。この林の中に白髭神社が鎮座しているが、社は国道から直接社に通じる道はなく、社は林の丁度中央に位置するので外周回りで南側の一の鳥居付近に行くしかない。
 神社正面には適当な駐車スペースはないので道路と注連柱の間を通り、舗装されていない長い参道を抜けると広い空間が広がる。
                        
                       上原白髭神社正面鳥居と社号標石

 
  細長い参道。拝殿側から一の鳥居方向に撮影        参道の先には開放的な境内が広がる。
          
                  参道途中、右側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
                        
                                    拝  殿
            
 
                拝殿上部、向拝部にはさりげなく彫刻が施されている。
 
       社殿の左側で手前にある浅間社              浅間社の並びにある合祀社
                             左から金比羅宮、大神宮、秋葉宮、久壽志神、大山祇神、天神宮

白髭神社は調べると大きく3系統の由来があると思われる。
①滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
②埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に数多く鎮座している。
③清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
            
                         上原白髭神社 参道の一風景
                      
                                       
 上原白髭神社の社殿の前にある案内板にはハッキリと「高麗明神」と明記され、高麗神社の系列に含まれると案内板の編集者は考えたのだろうが、実際の御祭神は清寧天皇とされている。この矛盾は何であろうか。
 また、男衾郡赤浜村、風土記稿赤浜村条に「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」という記述がある。畠山重忠の臣で、関守である大沢半左衛門の墓は塚田にあるともいう。
 この塚田の地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した 塚田鋳物師集団の存在があった。加えて、上原白髭神社の創始者は大沢某といい、畠山重忠配下の武将にも大沢氏が多数いて、その一族の後裔である可能性も高い。地理的にも畠山地区から荒川を挟んで真北に上原地区はある。関連性がないほうがおかしいのではないだろうか。




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永田八幡神社

 深谷市旧花園町は荒川中流域左岸に位置しており、町の殆どがなだらかな櫛引台地上にあり、辺り一面のどかな田園風景が続く地域である。豊榮神社が鎮座する黒田地区の東側は永田地区で、荒川扇状地に位置するこの地域には豊かな湧き水が多く存在している。かつて6つの湧水池があり、柳出井池・代次郎池・弁天池・宮下の池・中清水池・清水池等という。いずれも永田地区の水田を潤してきた湧水池で、前述の「永田地区湧水池池下図」によると、その受益面積はあわせて19.8haにも達した。現在でも水が湧き出し、水辺空間として最もよく整備されているのが柳出井池である。
 永田八幡神社が鎮座する「永田」地区は慶長9年名主野辺文書に「長田村」と記載されている。つまり「長田」が本来の地名であり、後代において「永田」に変わったとみられる。
 和名抄に長田郷を奈加多、奈加太(ナカタ)と訓じている。ナカタの元は「中田」といい、その転訛、つまり、本来の発音がなまった変化形である。この「中田」にしても、基本形は「中」であり、「中+田」、つまり本来は「中」が発展して「中田(仲田)」「永田(長田)」、または「長井」「中井(中居)」「中村」「中山」「長尾」「中野」「長野」等と称したという。
所在地   埼玉県深谷市永田664
御祭神   誉田別命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   4月15日 春祭り、永田神代神楽

       
 永田八幡神社は黒田豊榮神社から140号バイパスに戻り、黒田交差点を過ぎて秩父鉄道の高架橋を越えると左側に永田八幡神社の社叢が見えてくる。但しバイパスから見える社叢は2か所あり、手前南側のは長楽寺である。ちなみにこの長楽寺と永田八幡神社は南北に隣接しているような配置となっている。
  南側にある正面参道はあぜ道となっていて車での走行はできないようなので、北側、つまり神社の後ろ側から入って境内に車を停めて参拝を行った。(参拝日平成26年1月)
  境内には数多くの境内社や合祀社があったが詳細等は調べても解らなかったので、今回写真の紹介はなしとした。
           
                        永田八幡神社正面一の鳥居
           
                  一の鳥居を過ぎて、手水舎の奥にある御神木
 調べてみると永田八幡神社が鎮座するこの地の字名は「中居(ナカイ)」という。「永田」と「中居」。この地は「中」の関連する地である。
 
      社殿の手前で右側にある神楽殿              神楽殿の並びにある案内板

 永田の神代神楽   所在地  花園町大字永田地内
 永田の神代神楽は、この八幡神社に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は約百五十年前頃までさかのぼるという。
 当初の形態については記録が残っていないために詳らかではないが、概ね氏子衆による里神楽に近いものであったと思われる。しかし明治時代になると、明治十五年(1882年)に演劇取締令が公布され、里神楽が禁止されたために一時的に衰退したものが、児玉郡神川村の金讃神社に伝わる神代神楽十三組のうちの一組、金讃神楽長島組として再興し、以後金讃神楽永田組として継承され、現代に至っている。
 神楽は全部で25座(曲)が伝承されているが、現在上演が可能なものはそのうち11座である。
 神楽は毎年四月十五日の八幡神社の春祭の際に境内神楽殿で上演される。
 現在は保存団体として金讃神楽長島組が保存伝承にあたっている。
 昭和五十二年、この神楽を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月     深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用
           
                             拝    殿

        拝殿向背部等の見事な彫刻                    本    殿

 
 冒頭で紹介したが、この永田地区、またはその周辺には多数の湧水があり、永田八幡神社の境内にも「宮下の池」という湧水池がある。
                 
                             宮下の池
 永田八幡神社の裏手から西側に通じる道路があり、そこを道なりに進むと、十字路にぶつかる。十字路の左側向かい側に小さい公園があり、ここはかつて永田の弁天池「代次郎池」という大きな湧水池があったところで、公園の一角にはその由来を記した記念碑が建てられている。

 この道をさらに道なりにしばらく進み、右手にある民家が途切れはじめ、道路の左側も水田風景が広がり、その中の一角にポツンと「柳出井池」という小さな湧水池が見えてくる。この八幡神社から柳出井池までの東西に走る道は、道路を境界線として、その左手に広がる水田地帯が、小さな段丘崖であるらしい。この崖下に位置する左手の水田地帯には、かつて6つの湧水池があったという。
            
                              柳出井池
 池に接した東側の空き地には、5基の石碑が一列に並んでいる。道祖神や大黒天・庚申塔・水神等。この永田の地域の人々が祈りを込めて造立したものだ。この碑の中に水神があるが、もちろんこの柳出井池を指すものであろう。この地に代々住んでいる人々にとってかけがえのない水源だったはずだ。柳出井池を水源として水田耕作をしていた人々が、この池の神に水の恵みを感謝し、豊かな水が末代まで湧き出るように祈って造立したものであろうことは容易に考えられる。







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柴八幡神社

  熊谷市の元江南町地区には、「柴」という一風変わった地区が存在している。この「柴」地区の近隣には有名な「塩古墳群」がある「塩」地区もある。
 この「柴」という地域は、旧江南町役場の位置する場所から旧川本町に至る、東西に細長い地域で、『新編武蔵風土記稿 柴村』には「東西二八町・南北三町」と記載され、現在の行政区画にも昔の名残が反映されている極端に東西が長い地域である。
 ところで、地名辞典などによると「柴(シバ)」は千燥地、地力のやせた土地焼畑のことなどの説明が見え、江戸時代の地誌に記述された「柴村」の説明に通づる部分が多く、妥当なところと思われる。因みに地誌には「桑、麦に適さず、時々干燥のため作物が育たない」とある。
 また、嘗て柴村は「篠場庄」に属していたことが、江戸時代に編纂された地理誌である『新編武蔵風土記稿』から知ることができ、この「篠場(シノバ)」から「柴(シバ)」へ移り変わったかもしれない。                                                                       
 
            
                     ・所在地 埼玉県熊谷市柴164 
                     ・ご祭神 誉田別命
                     ・社 格 旧柴村鎮守・旧村社
                     ・例祭等 4月第2日曜日・春の日待ち、10月第2日曜日・秋の日待ち   
        

 柴八幡神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右手に飯玉神社があり、その先の千代交差点から約500m位先を右折すると道路沿いで右側にこの社は鎮座している。残念ながら専用駐車場はなく、路上駐車して急遽参拝を行った。
          
                                   柴八幡神社正面                  境内参道の両側には大杉が聳え立つ。
                              
                            柴八幡j神社参道
 社の規模はさほど大きくはないが、木々に囲まれた静かな佇まいでどことなく神聖な雰囲気。参道の両側には荒川の川石を使用したのだろうか、この造りは洪水対策の物としか考えられない。参道の先の社殿もやはり高く積み上げている。荒川は以前この社の近隣に流れていたのだろうか。
 
        参道の途中、左側にある案内板              案内板の並びにある境内社
                                           天満天神社、大山祇神社
 八幡神社  所在地 熊谷市 柴
 本社の祭神は誉田別命で御母君は三韓征伐で有名な神功皇后である。
 本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で末社が二社合祀されている。
 いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中といい、鎌倉を中心に関東各地に建立された八幡社の一つである。
 明治維新までは、現在地から西方300メートルに位置し、数百年を経た松、杉の老樹生い茂り、かつ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられている。
 戦前は武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣で賑わった。
 例祭は、春の日待ちが四月の第二日曜日、秋の日待ちが十月の第二日曜日である。(以下略)
                                                            案内板より引用

             
                                    拝  殿
 八幡神社 江南町柴(柴字西)
 県の「ふるさと歩道」にも指定されている当社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成しており、散策する人々の憩いの場として親しまれている。

 鎮座地は、村の西外れにあったが、享保年間(一七一六-三六)、村人の参詣の便に供するため村の中央の現在地に移された。その跡地は、いまだに「元八幡」と呼ばれて大切に保存されでいる。
 創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(一一九〇-九九)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれる。
 しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当社は同家の祀った神社であった可能性もある。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺ほどのこぢんまりとしたものである。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(一七五三)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われた。
 なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことがわかる。
                                                       「埼玉の神社」より引用
 
                                   
                                    本  殿
  柴八幡神社が鎮座する熊谷市旧江南町は熊谷市と荒川を挟んで南側に位置し、荒川によって創り出された台地と沃野からなる江南地区は豊かな自然に恵まれ、旧石器時代や縄文時代の遺跡や遺物が多く発掘されていて、武蔵国にあって早くから発達していた地域の一つであった。埼玉県北部の代表的な古式古墳群(古墳時代前期群集墳)である塩古墳群を始め、塩古墳群の数キロ東部には20基以上の円墳からなる野原古墳群があり、そこからは男女1対の踊る埴輪(東京国立博物館蔵)が出土した。江南地域には合わせて90基以上の古墳が現存している。
 柴八幡神社は明治維新までは、現在地から西方300mに位置していたという。その地域は字名で寺内と言われているが、この地には
嘗て8世紀半ばに創建され、10世紀後半まで存続したと推定されている古代寺院の遺跡がある。寺内古代寺院跡と言われる。平成3年9月より平成4年12月にかけて、埼玉県江南町教育委員会および江南町千代(せんだい)遺跡群発掘調査会によって調査された。この寺内古代寺院の正式名称(法号)は解っていないが、「花寺」と墨書された土器が出土していることから、通称で「花寺」と呼ばれている。
 この寺院跡は調査の結果、東辺約170m、西辺約200m、北辺約570mの溝(上面幅6m、深さ1.2m)に区画され、国分寺に匹敵する非常に大規模な寺院跡であることが確認された。
            
                             静かな境内の一風景
 この寺院の創建に関わる氏族が壬生吉志氏である。壬生吉志氏は、推古天皇の六〇七年に定められた皇室の皇子皇女養育のための壬生部の管理をしていて、古代男衾郡の開発にあたり郡長官となっていた。
 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻呂(安閑二年紀、難波吉士)―鳥養―葛麻呂(推古十五年二月、為壬生部、壬生吉士)―諸手―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年四月、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主。弟眞成)―貞継(三田領主)―貞盛(谷保県主。延喜十五年多摩郡栗原郷に住す)」と記述され、また類聚三代格という書物にも承和八年(841)、武蔵国男衾郡榎津郷に住む壬生吉志福正という人が息子二人の生涯納める調と庸という税をまとめて納めたいと申請し、許可されたという記事があり、また同12年(845)に武蔵国分寺の七重塔再建を申し出て認められている。
 壬生吉士福正は仏教に対し深い信仰心を持っていたかどうかは不明で、ある意味政治的なパフォーマンスとも考えられるが、少なくとも七重塔再建費用や二人の税金を納める費用以上の資産を持ち合わせていた人物であったことは書物等の記述で明らかだ。福正と同時期に存在したことが確認されている寺内古代寺院跡は、寺内古代寺院の建立に深く関わりがあったと推測することができる。

 しかし、この「柴」地域に嘗て、武蔵国国分寺に匹敵するといわれた寺内遺跡、通称花寺が存在していたことは正直言って驚きだ。だからこそ社の散策はやめられないことでもあるのだが。

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