古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下浅見八幡神社

「児玉党」は平安時代末に出現した武蔵武士団である武蔵七党の一派である。かれらは神川町の阿久原牧という牧場に派遣されてきた別当 (牧場を管理する職務)の貴族藤原氏と主従関係(或いは血縁関係)を結び、自ら開いた土地を「児玉庄」という庄園を作り貴族に寄進して中央権力の庇護を得た。
 児玉町域内にいた児玉党の一族は「庄・児玉・蛭川・塩谷・阿佐美・河内・真下氏」等がいた。その彼らの党祖とも言える児玉弘行・経行兄弟は八幡太郎義家に従い奥州合戦に従軍し、その後も義家の命で上野国多胡氏を討ち滅ぼしたりして活躍し、武家の棟梁たる源氏と児玉党と塩屋氏館跡推定地の深い繋がりを築いた。
 児玉党の一派である阿佐美氏(あさみし)は、武蔵国児玉郡入浅見村(現在の埼玉県本庄市児玉町入浅見)発祥の氏族で、武蔵七党中最大の武士団とされた児玉党を構成する氏族である。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町下浅見879
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧下浅見村鎮守・旧村社
            ・例祭等 春祭り 44日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1210
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2115669,139.1636033,17z?hl=ja&entry=ttu  
 下浅見八幡神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を児玉町方向に進む。小山川を越えて暫く道なりに進み、下児玉交差点を右折してしばらく進むと、進行方向に対して左側にポツンと独立した大きな鳥居が見えてくる。参拝時刻は午前中で快晴であったが、鳥居正面に対して太陽を正面に浴びる状態になり、逆光状態での撮影となってしまった。
        
 そこで以前参拝して撮影した写真を載せる。因みに撮影日は平成26年8月4日の午後。撮影する時刻も考慮する必要もあると反省したと同時に、カメラ機能の調整(ISO感度は少し低めに調整するか露出補正で明るさ調節等)により、逆光状態でも十分に対応できることも、参拝終了後改めて知った。


        
               撮影日 平成26年8月4日(午後)
 鳥居を過ぎると正面にこんもりとした社叢が見える。
神社境内地の大部分が元は古墳だったのではないかと思ったが,案内板等では近郊の館である「関根氏館」に対して見渡せる小高い丘を選んで館の守護神として鎮座しているとの事だ。
 因みに「関根氏館」は阿佐美実高の館があったと伝っているが、「関根氏」の館の名称からも後代に関根氏が住んでから付けられたと考えられ、阿佐美氏とどのような関係があったかは現在判明していない。明治の地籍図でも確認されているが70mほどの方形区画に水路として使用されたと思われる外堀跡もみられ、一説によると外堀は幾重にも設けられていたと伝わるそうだ。
 駐車スペースは社殿外に確保されており、そこに停めて参拝を行った。
          
                        社殿前には朱を基調とした二の鳥居が立つ。
                        
                                 鳥居の近くにある案内板
               
                     拝  殿
 □八幡神社 御由来 
 御縁起(歴史)   
 下浅見は、かつては入浅見と共に阿佐美といわれ、児玉党阿佐美氏の本貫の地とされる。 児玉党系図(諸家系図纂)によると、児玉庄大夫家弘の末男弘方が、阿佐美氏を称している。弘方の子実高は、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍し、翌年の源頼朝上洛の際にも供奉したことが『吾妻鏡』に見える。 地内の字新堀には「関根氏館」と呼ばれる館跡があり、一辺が七   〇メートル前後の正方形の内堀が現存する。この地をかつては「二重堀」と呼んだことから、外堀もあったと考えられるが、現状では確認できない。明治期に書かれた「下浅見地誌」には、浅見実高が居住したとある。
 当社は、『児玉郡誌』によれば、浅見実高が奥州征伐の帰陣の際、鶴岡八幡宮を当地に勧請して産土神としたという。当社は、館跡から見て南東で、館に続く街道沿いの小高い丘の上に鎮座することから、館を見渡せる場所を選んで、館の守護神として祀ったのであろう。
『風土記稿』によれば、当社は村の鎮守で、地内の成就院持であった。 成就院の開山頼元は、元禄七年(一六九四)寂と伝えられる。
 明治に入り、当社は別当成就院を離れて、村社となった。明治四十年には字雷電山の無格社雷電神社を本殿に合祀した。なお、『明細帳』によれば、現在の社殿は正保五年(一六四八)の再興である。本殿には、木造の騎乗八幡大明神像(高さ二二センチメートル)が奉安されている。
                                      案内板より引用
 
   拝殿に掲げている「八幡宮」の扁額             本  殿
        
      社殿の左側には広い空間があり、その周りには境内社等が鎮座している。
 
      境内社  名称不明
          社殿の左奥で丘の上に鎮座する末社群
 
      社殿奥の丘上に鎮座する                社殿の奥で丘上に鎮座する末社群
   
御嶽大神、三笠山大神、八海山大神等            名称不明

 児玉党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一軍団で、主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。
 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していたという。氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった有道氏である。また「有」とは、有道氏の略称として伝わる。子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている。
 古書などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかったために滅びにくかったというだけのことであり、負け戦も少なくはない。但し他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実でもある。
        
               駐車場から撮影、やはり逆光。

「浅見」との地名の由来は、埼玉県本庄市児玉町入浅見・下浅見発祥。戦国時代に「阿佐美」の表記で記録のある地名で、苗字としても同地で平安時代末期に阿佐美姓を称したと伝えている。「浅見」という苗字は埼玉県特有の苗字らしく、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布する。

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上池守天神社

埼玉県熊谷市大字池上と埼玉県行田市大字上池守にまたがり星宮地区がある。村内を流れている、星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」の一字ずつ取り、星宮村とした。昭和24、忍町を行田市に名称変更して市制施行。昭和30年に星宮村が編入された。
 全国には「星宮」のつく星宮神社・星神社と星宮の地名が多く存在し、その中心は栃木県である。栃木県内では「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌を伴うことが多い。
 星宮は、全国で348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。因みに石裂山とは、「おざくさん」と読み、前日光・鹿沼市と上都賀郡粟野町(現鹿沼市)の境にある山で、勝道上人の開山と伝えられ、古くから「おざく信仰」の山として知られる。
 上池守地区の「星宮」と何か関連性はあるのだろうか。 
        
             ・所在地 埼玉県行田市上池守740-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧上池守村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1569084,139.4307418,17z?hl=ja&entry=ttu
 上池守天神社は埼玉県道128号熊谷羽生線の「上池守北」交差点の南角に鎮座している。上池守の村社格の神社社殿、参道は南向きであり、車の進行方向上に沿う道に面した部分には石玉垣で境内が囲われている為、一旦T字路の交差点を右折し、すぐ先の鳥居前と隣接している商店の間に路地に進む。路地の奥には多少の駐車スペースがあり、そのスペースに車を停めて参拝を行った。
        
                    二の鳥居
『日本歴史地名大系 』「上池守村」の解説
 北は星川を隔てて下川上村(現熊谷市)、南は中里・皿尾の両村、東は中池守村・下池守村。条里遺構が地下に埋没している。中世には中・下の池守村とともに池守郷に含まれた。観応三年(一三五二)七月二日、室町幕府管領・武蔵守護仁木頼章は足利尊氏の命により池守郷および大里郡久下郷内宇波五郎入道・同七郎等跡(現熊谷市)地頭職を、久下弾正忠頼に引渡すよう仁木義氏に命じている(「仁木頼章奉書」久下文書)。

                
                     拝 殿
 新編武蔵風土記稿による上池守天神社の由緒
 上池守村 天神社三宇
 一は村の鎮守とす、皆村持なり

 
上池守天神社が鎮座する上池守地区は、現在の熊谷市星宮地区にあり、嘗ては北埼玉郡星宮村であった。その前の江戸時代は池上村・下川上村と、これ又地域の歴史を物語る由緒ある村の名前をもっていた。池上、下川上の地名の由来としては
・池上…中世、埼玉郡内にあった池上郷の遺名を村名としたもの。なお、池上郷の由来については、現在不明である。
・下川上…はっきりしたところはわからないが、昔あった上川上ノ里が三つの村(上川上村、下川上村、大塚村)にわかれたさい、上川上村に対応する呼称として、“下川上村”と称したものと思われる。〔成田村誌〕
 
           社殿左側に鎮座する
境内社宇賀神社(写真左・右側)
 
       境内社 八坂神社等        
芭蕉の句碑は社殿の左方に建立されている
                          
 上池守天神社が鎮座する「池上」地区「上之」地区に隣接し、古代から開発が進んだ地域だったといわれている。
 奈良時代の律令制度では、各国には「郡」がその下部組織としてあり、その「郡」には必ず「郡衙」が存在していた。(因みに武蔵国は22郡置かれていて、陸奥国の40郡に次いで多い)
中でも郡正倉は、米を貯蔵するための倉庫として重要な施設であり、その立地条件としては、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。「武蔵国埼玉郡衙」は未だに不明とされているが、その有力候補地の一つがこの「池上」地域とも言われている。
        
                                     境内の一風景

 行田市小敷田(こしきだ)遺跡と、これに隣接する熊谷市池上遺跡の場所がその最も有力な候補地と考えられていて、そしてその所在地を推定する際の決め手になるのが、河川交通との関係である。
 それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう。地面に掘った大きい穴)に廃棄された型で出土し、更にこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、嘗ての河川跡が見つかっている。推測するに、この二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。
 また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
 埼玉県内の他の郡衙関係遺跡の立地をみても、嘗ての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。
 

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下池守子安神社

『池守村子安明神の伝承』
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 
        
              ・所在地 埼玉県行田市下池守549
              ・ご祭神 木花咲哉姫命
              ・社 格 旧中池守村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 816日(お子安様の祭り)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1645404,139.4424489,17z?hl=ja&entry=ttu   
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
 
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材       境内社 詳細分からないが、
         詳細不明           左側の社はその置物から稲荷社だろうか。
        
 子安神社の由緒
 中池守村 子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
                    境内の様子 
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

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明用三嶋神社古墳

        
        
 三嶋神社古墳(みしまじんじゃこふん)は、埼玉県鴻巣市にある前方後円墳である。
 ・全長55
 ・後円部直径27m、高さ1.5
 ・前方部幅15m、高さ1.8
 墳頂に三嶋神社が建立され、墳丘は変形を受けている。1875(明治8)に地元民により後円部から横穴式石室が掘り出されたと伝えられ、社殿の前に敷かれた緑泥片岩は石室天井石と思われる。1959年(昭和34年)116日付けで吹上町(当時)指定史跡に指定された。
 1983年(昭和58年)発掘調査が行われ、墳丘や周溝から円筒埴輪、馬形埴輪、人物埴輪が出土した。6世紀後半の築造と考えられる。
                                  「Wikipedia」より引用
 
  拝殿前の階段下右側には石室の石材である  拝殿前の階段下左側には三島神社古墳の案内板 
      緑泥片岩が置かれている         
鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳             昭和34116日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55m、後円部径約3mであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
 本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から6世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東6キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。

 平成286月                           鴻巣市教育委員会より引用
        
             
社殿のある前方部から後円部方向に撮影

古墳時代、さきたま古墳群では5世紀後半築造の稲荷山古墳礫槨と粘土槨に舟形木棺が用いられていて、埋葬者と何らかの点で河川、海との関係性があった事が指摘され、また同古墳群内で6世紀後半に築造された将軍山古墳の横穴式石室には、千葉県富津市保田から鋸南町金谷付近で採集された、所謂「房州石」が、遥々120㎞の距離で運ばれている。舟運による交易が行なわれていたと仮定するならば、当然需要と供給の論理が成り立つことは当然であることで、千葉県木更津市金鈴塚古墳の箱式石棺の石材には長瀞付近で採石されたと考えられる緑泥石片岩が供給されていることを考慮すると、当時のさきたま古墳群を築いた首長権力者は荒川や元荒川を介して、房総半島との双方向の水運を長い期間保持していたことが推測される。
 最近さきたま古墳群の鉄砲山古墳(前方後円墳 主軸長109m)の横穴式石室入口部が調査され、壁体に群馬県・榛名山二ッ岳噴出起源の角閃石安山岩5面削り石の使用が判明し、7式には行田市・八幡山古墳の巨大石室の壁体にも使用されているとの事から、利根川の水運(こちらは利根川支流である会の川等中小河川を使用したか)で上毛野地域とも繋がっていたとも考えられる。

 明用三島神社古墳は元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。低地に古墳を築造したことには特別の事情があったと思われ、そこには埋葬者と荒川との強い関係性を反映するものと考える。

 明用三島神社古墳から南東方向に
8㎞程行くと生出塚埴輪窯跡が存在する。この窯跡は、古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡で、1976年(昭和51年)に埴輪窯跡が確認され、1979年(昭和54年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始されて、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたっておこなわれているが、遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、および、粘土採掘坑1基、工人と思われる人びとの住居跡9軒、土坑1基などを確認していて、出土品は国の重要文化財に指定されている。
 この埴輪窯跡で生産された埴輪の分布では、行田市の埼玉古墳群、坂巻
14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国とくに南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している所から見ても、埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。
 生出塚埴輪窯跡は大宮台地端部北側傾斜面上にあり、これに沿って流れる元荒川までの距離は現在約
1.0㎞であり、
明用三島神社古墳は元荒川と荒川が結合する地点に築造されている。何か関連性はないだろうか。
        
 荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、それが56世紀であり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうか、不思議と現在も道路として残っている。

 明用三島神社古墳は横穴式石室の構造から
6世紀後半の築造と推測されているが、もうその頃には、運河的な河川は機能され、そこから上がる財も大きかったのではなかろうか。


 

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明用三島神社

 明用三島神社が鎮座する地域は嘗て吹上町と呼ばれ、日本の埼玉県北足立郡にあった町であり、2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入され、市域の一部となった。
 中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。
「吹上」という地名の由来は古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。

        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市明用123
              ・ご祭神 事代主命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭り 714日 秋祭り 1126
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0950104,139.4611698,17z?hl=ja&entry=ttu
 明用三島神社は旧吹上町の住宅地東端にあり、すこし離れると長閑な田園風景が拡がる。国道17号を鴻巣方向に進み、吹上団地入口交差点を右折、踏切を越えてすぐの十字路を左折し、埼玉県道365号線前砂交差点手前の細い十字路を右折すると右側に三島神社の鳥居が見える。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置している。
 バスを利用するのであれば鴻巣市のコミュニティバス(フラワー号)・中仙道コースを吹上駅南口(下り)より出発して、前砂(上)停留場で下車。一旦吹上団地方向に戻り、上記の細い交差点を左折すると神社に到着する。但しこのコミュニティバス・吹上駅南口からの下りコースは3時間ごとに運行されているため、事前に時間帯の確認は必要だ。コミュニティバスには田間宮コースもあり、こちらならば北鴻巣駅南口からの出発で、こちらは1時間30分毎の運行となり、待ち時間は半分となるが、停車口である龍昌寺から前砂交差点方向に10分弱程歩かねばならない。
 駐車スペースは参道内に社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                                明用三島神社参道
       
         道路沿いに建つ社号標          社号標の先に鳥居が立つ
                        
神額には「三嶌大神」と揮毫されている
 明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治31660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかと言われる。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀している。
 
  社殿階段左側にある三島神社の由来案内板       社殿手前右側に鎮座する境内
 
                              三丁免三島神社
 三島神社 御由緒  鴻巣市明用一二三
 □御縁起(歴史)
 当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三丁免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
 当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
 当社は、『明細帳』に「創立不明 同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇メートルの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
 『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
 明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。
 その後、明治四十一年八月十六日、三丁免村の村社と合祀になり現在に至る。尚、三丁免の村社には、天満社・八坂社・稲荷社・三峯社・還護社・筧社が祀られていた。
 □御祭神と御神徳 
 ・事代主命・・・商売繁盛、家庭円満、病気平癒
 □御祭日
 ・元旦祭(一月一日)   ・祈年祭(二月第三日曜日)
 ・夏祭り(七月第二土曜日)・秋祭り(十一月二十三日)           案内板より引用
        
                  石段の先にある拝殿
 新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
 明用村
 明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めし と、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し(以下略)
 三島社
 古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
 末社。天王社、稲荷社、天満宮

因みに明用三島神社古墳に関しては後日解説する。

 明用三島神社に参拝中不思議に感じたことがある。本来三島神社のご祭神は「大山祇神」であるはずなのに、この社では「事代主神」という。帰宅後調べてみると次のような結論となった。(引用Wikipedia)
三島神社の総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社であり、全国に400社余り存在し、伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。
 三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。
 同時に賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前では主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。
 
        境内社琴平・八坂・天神合殿          境内社道祖神・稲荷社か 
                           これらは社殿の左側に鎮座している。 
    境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂等      境内社三峰神社(三つの石祠) 
       こちらは三嶋神社古墳の後円部から前方部にかけて祭られている石祠群である。

 もう一つ疑問点がある。この明用三島神社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮座している。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。55m級の古墳は郡単位の公権力を持ち、尚且つ財力を併せ持つ人物だったにちがいない。
 この古墳の埋葬者はどのような人物だったのだろうか。


 

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