古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

忍諏訪神社

 関東七名城に数えられる忍城は「忍の浮城」とも称されるように利根川と荒川に挟まれた湿地帯に築かれた平城である。江戸時代の利根川、荒川の改修工事以前この二つの大河は下流域で一つに合流していたらしい。もっとも支流レベルで交わっていた可能性もあり、埼玉県東部の湿地帯と沼地の多い独特の地形も手伝ってこの忍城は守るに適して攻めるに難渋を極めた堅固な城だった。
 この忍城は沼地があったところに島が点在する地形を利用してつくられた城であり、沼を埋め立てず島に橋を渡す形で城を築いているので、橋を破壊すればその島自体は孤立し、その区域の損害は大きいが、逆に解釈すると被害はその一区画、つまり最小限度に済むという解釈も成り立つ。真に守りに重点を置き、親泰・長泰・氏長の三代にわたって戦国時代100年を巧みに生き抜いた成田氏らしい築城術だ。
 忍城本丸郭の北部に「諏訪曲輪」が存在していた。もちろん忍城を守る多くの曲輪の内の一つだが、そこには忍城築造の際に持田村鎮守諏訪社を遷座して、城鎮守とした。また成田氏代々の崇敬があったと伝えられている。
所在地   埼玉県行田市本丸12-5
御祭神   建御名方命、八坂刀売命
社  挌   旧村社、行田総鎮守
例  祭   7月26・27日


地図リンク
 忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社を遷座したとも伝えられいる。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したという。

       国道125号からみた諏訪神社正面の社号標石

 利根川と荒川の流れによって形成された沼湿地の中にある台地上に、忍氏は館を築いていたが、成田下総守親春がこれを攻略し、この辺一帯を統一した。成田氏は延徳年間に忍城を構築し、この時、持田村の鎮守諏訪社を城鎮守として移したのが当社であると伝えている。
 そのため持田村は新たに鎮守を勧請したという。現在の持田字竹ノ花の諏訪社がこれである。その後、成田氏代々の崇敬があり、城は、天正18年石田三成の 水攻めにも耐えたが、やがて開城し徳川家康入国後は江戸北方の防衛拠点として親藩や譜代の大名が入った。寛永16年城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、 併せて正保2年当社の本殿を再営、寛文一二年拝殿を新たに建立した。
 文政年中松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目連社を勧請した。これらは明治6年城郭取り壊しの 際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二ノ丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大 明神の九社も同時に当社へ合祀された。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
                                                                                                         

 
                忍諏訪神社拝殿
 この忍諏訪神社、特に東照宮の北側には周囲には土塁が巡らされていて水堀の痕跡もはっきり分かり、特に東照宮西側から北側には水堀がほぼ旧状のまま残っている。 
 
  
 忍諏訪神社は境内が非常に狭く本殿を撮影          本殿の左奥には御神木
            できない。
 
東照宮の北側に社務所があり、そこには諏訪神社、東照宮の案内板があった。

忍諏訪神社
 御祭神 建御名方命、八坂刀売命
 例  祭  7月27日 

 当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌」 には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672) 拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政6年 (1823)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、史に城内へ多度杜と一目蓮杜を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。
                                                    境内案内板より引用

     諏訪神社、東照宮の案内板の隣にあった忍城俯瞰図
            

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忍東照宮

 東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。
 江戸幕府によって建立された栃木県日光、静岡県久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。
 当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになった。その後明治時代以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。
 忍東照宮は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した頃に創建されたとも伝えられている。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座、明治期には村社に列格した。
所在地   埼玉県行田市本丸12-5
御祭神   徳川家康公、松平忠明命、八幡大神
社  挌   旧村社
例  祭      4月17日

       
地図リンク
  忍東照宮は国道125号を熊谷市から行田市方向に進み、忍城、及び行田市郷土博物館の国道を挟んで北側、道路沿いに鎮座している。但し国道沿いには専用駐車場はなく、忍東照宮の北側「諏訪曲輪御紋跡」の石碑のある場所に十数台停めることが可能な専用駐車場はあるが、細い道を通るので初めての方には分かりづらいかもしれない。またこの北側の駐車場は社の裏手に位置するため、そこから参拝するためには一旦行動沿いにある正面にあたる鳥居まで遠回りをしなければならない。時間があまり無かったので今回は失礼ながら境内を突っ切り一旦正面にあたる鳥居まで小走りに通り、改めて参拝を行った。
          
                         忍東照宮正面一の鳥居 
                    
                  鳥居の先やや右側には御神木が聳えている。
 当社の鎮座は後鳥羽天皇の建久年間(1190)に忍三郎ら忍一族が創建したという。成田親泰が忍城を構築した際に当社を城鎮守とした。
 文政6年(1823)に松平忠堯が伊勢桑名から移封するにあたり東照宮と桑名鎮守の多度・一目連社を勧進。これらは明治6年に当社境内に移されるとともに、その他の社を配祀した。
 社殿は昭和26年の造営。村社。
 照宮祭神: 徳川家康命・松平忠明命・八幡大神
 忍東照宮は家康の娘、亀姫が父の肖像を頂き、それを子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山城で社殿を造営したことに始まっており、のちに当社に合祀された。
            
                      
                         二の鳥居から拝殿を撮影
  忍東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座した。代々100石の社領を拝領していたが、明治維新に伴い、明治7年当地へ移っている。
                                  
          
                             拝   殿
             社頭の扁額は、芝東照宮と同様に、16代徳川家達公筆。
忍東照宮
 当社は、家康公の娘、亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦の折、大坂蔵屋敷内の東照宮を、当社に合祀した。
 社領は、郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと・伝えられている。
 明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同7年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の忍東照宮境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀した。現在の拝殿は昭和五年の造営である。
                                                    境内案内板より引用
                               
  案内板によると忍東照宮は、家康公の娘・亀姫が父の肖像を譲り受け、それを自分の息子・松平忠明公に譲ったものを安置するため、1625年(寛永2年)大和国郡山城内に社殿を造営したことがはじまりであると伝えられている。それ以降、東照宮は藩主によって祭祀され、松平家が移封されるたびにその都度遷座され、1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いの折、大坂蔵屋敷にあった東照宮を忍(おし)城内の下荒井に合祀した。
 1871年(明治4年)松平家が東京に移住することになり、廃社の憂き目に遭ったが、旧藩士たちの尽力により、1874年(明治7年)下荒井から本丸の一部であった諏訪郭(くるわ)内の諏訪神社の境内に本殿を合祀することで難を免れたという。つまり、もとからあった諏訪神社の境内に、東照宮が移された、ということのようだ。
                
                     諏訪神社に隣接した二の丸稲荷社
 
          多度社・一目蓮社                  多度社・一目蓮社の案内板
境内社多度社・一目蓮社
 御祭神 天津彦根神、天目一固神
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823年)、松平忠堯は、伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭(5月5日)には神楽殿で「能」が演じられたという。
忍藩は忍宝正の名があり、宝正流の能が盛んだった。
明治6年、現在地に遷座。
折雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。
                                                        案内板より引用


 
  

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姥宮神社

   寄居の市街地から西に峠を越えたところに『風布』地域がある。『風布』、何と優美でありながらどこか神秘的な響き、そして名前だろうか。この『風布』という地名の由来ははっきりとしないが、山に囲まれた地形から暖かい空気が空中に漂い、風が布を引いた様になる現象がみられることから付いたものと言われている。またこのフウプ(フップとも読まれる)の名はアイヌ語とも言われていて、この地形から地域全体に強風がさえぎられ非常に温暖な気候だ。  
 この風布地域は秩父鉄道波久礼駅から風布川沿いに歩いて約1時間の小さな盆地で、日本におけるみかん栽培の北限地域の一つとされている。風布みかん栽培は天正年間(1573~92)まで遡り、時の領主である鉢形城城主北条氏邦が本拠地「小田原」からみかんの木をこの地に植えたのが起源で、400年以上の歴史を持つ。
  10月中旬から12月中旬までのみかん狩りシーズンには、この地区合わせて延べ4万人もの観光客で賑わうという。

 また地区の中央を、釜伏山を源とする「風布川」が流れていて、水源の水は大変おいしく甘い水で、「日本水(ヤマトミズ)」といわれ日本名水百選に埼玉県から唯一指定されている。その風布川流域で風布地域集落に鎮座する社が姥宮神社だ。

所在地   埼玉県大里郡寄居町風布125
御祭神   石凝姥命(いしこりどめのみこと)
         ※[別称]鏡作神(かがみつくりのかみ)
社  挌   不明
例  祭   不明
       
 姥宮神社は国道140号彩甲斐街道を長瀞方面に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折して寄居橋を渡るとT字路にぶつかる。そのT字路を左折して真っ直ぐ道なりに進むと15分くらいで右側に姥宮神社が鎮座する風布地域に到着する。本来ならば皆野寄居バイパスを利用して最初の寄居風布ICで降りたほうが時間は半分以下で着くことができたが風布の山林道の風景を楽しみたかったので今回は下の道路を使った。(金銭的な関係も勿論あるが、それより子供が小さかった十数年前にサワガニ取りやバーベキューを行うため、また後述するが名水である「日本水」に通じる一本道でもあるため、よくこの風布地域の清流に何度も足を運んだ思い出があった為だ。)

 姥宮神社は山間の谷間の神社で切り立った斜面に鎮座している為、これといった専用駐車場はない。但し神社の隣に社務所(?)らしい建物があり、その手前に車が駐車できるスペースがあったのでそこに車を止め参拝を開始した。

  
          姥宮神社正面鳥居                   屋根つきの立派な社号額
                                                                         貫には幾何学模様が彫られ、笠木には屋根があり、

                                                             更に額束を守るようにそこだけ取り付けられた唐破風

 この風布の地域は秩父の黒谷(和銅採掘)から連なる山なので、かじやの神様、石凝姥命を祀ったそうだ。石凝姥命とは、石の鋳型を使って鏡を鋳造する老女の意だが、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき、外へ迎え出すのに用いた「八咫(ヤタ)の鏡」(大鏡)を造ったのがこの命である。
 ちなみに姥宮と書いて「とめのみや」と言うらしいが、「姥」は「ウバ」とも読むので地元の人たちには「うばみやさま」ともよばれている。当地では、大蛙を蟇蛙「おおとめひき」、つまり「ヒキガエル」であり、当社の社名と同じ響きで、蛙が神使とされており、巨大なカエルの神使像が狛犬に代わって鎮座している。

 ウィキペディア「トベ」によれば、石凝姥を石凝戸辺とも書き、古くは「トベ」とも言ったようで、「トメ」(つまり後代の乙女)の語源で、ヤマト王権以前の女性首長の名称らしい。また「老」という字は、中世惣村では村の指導者(オトナ、トシヨリ)になり、江戸時代にも老中とか若年寄という職務になることを思えば、女の首長ならば姥の字を当てたのは十分納得できる。
 
  参道の石段を上ると両サイドにある神使の蛙で、写真には見えないが背には子供が3匹乗っている。
 
 姥宮神社拝殿の向かって左側には神楽殿(写真左)があり、拝殿の正面、石段の手前に不思議な石塊(写真右)があり、形状からさざれ石かもしれない。よく見ると石塊の両側には嘗て鳥居か石柱があったらしい礎石跡もあり、ある意味御神体だった可能性もある。風布地域の地形、また社殿の奥にある巨石群といい、姥宮神社の本来の御神体とはこのような石神だったのではないかと考えられる。
                        
                              拝   殿
         拝殿の屋根には十六菊の紋章がある。何故十六菊の紋章なのかは不明だ。

  この姥宮神社は元はうぶすな山という、風布みかん山のてっぺんの方にあり、そこから今の場所に移転したらしい。また宮司の姓は岩松氏という。歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。
           
                  
                                            姥宮神社拝殿の脇障子にある見事な彫り物
           
  拝殿部にも細やかで素晴らしい彫刻物が施されていた。見るとわずかに彩色が残り、往時の煌びやかな様子が偲ばれる。
          
 また社殿の向かって左側、神楽殿の隣にはこれもまた見事な御神木である「富発の杉」が存在する。
 最初は鳥居の先、石段の左側にある大杉を富発の杉と勘違いしたが、その石段左側にある大杉もまた見事だ。
     
  社殿の奥で、大杉の脇を通り、奥へ行くと胎内くぐり(写真左)という不思議な石穴があり、神潜りの岩穴と言われ、潜ると疱瘡や麻疹、罹患することはないという。胎内くぐりの岩穴の上に行くとそこにも巨石(写真右)がそこ彼処にもあった。 
   
 境内の右側、つまり道路側には境内社が存在する。2社あり、手前は稲荷社のようだが奥は判別できなかった。 
            
                        
  鳥居の左側にはこのような巨石(写真上)が。よく見ると蛙に見える。またその隣には「忠魂碑」がある(写真下)。この忠魂碑は何を意味しているのか。戦争中の戦死者を祀っているのか、それともそれ以前の明治時代のあの事件の関係か。あの事件の際にはこの風布の集落の全戸が参加し最後まで結束し勇敢に戦ったとある。考えてみると風布地区や金尾地区は今でこそ寄居町の一地区だが昭和18年に合併する以前は秩父郡であった関係で秩父と関わりが深いのもうなずけるところだ。

 この姥宮神社は決して広くない社だが、空間をうまく使って創られており、見どころも非常に多い。社の周囲は緑が生い茂り、川のせせらぎが聞こえるのどかな山里神社であるが、歴史的な重さも相まって参拝にも厳粛な気持ちで行うことができ、有意義な時間を過ごすことができた。 記憶に刻みたい素晴らしい社をまた一つ発見した、そんな思いだ。



  

 

 

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島護産泰神社

 「御本殿外宇幣殿拝殿屋根葺替回廊大改修築記念碑」で島護産泰神社の由来をこう記述している。

 島護産泰神社御由緒は別に、昇格記念碑並に水舎神楽殿改築記念碑其他諸々の記録で明らかであるが尚一部由来を記す。
 
当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
 産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
 また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。
                                昭和五十六年四月十日

  武蔵国榛沢郡には式内社が存在しない。何故時の朝廷が認めなかったかは不明だが、榛沢郡には各郡のように有力な社が元々存在しなかったのか、それとも時の朝廷が榛沢郡の式内社の存在を偶々見落としたのか、または故意的に抹殺したのか。榛沢郡の総鎮守と言われる島護産泰神社の参拝中このような疑念が広がった。

所在地    埼玉県深谷市岡3354
御祭神    瓊瓊杵尊  木花咲夜姫命
社  挌    旧郷社 旧榛沢郡総鎮守
例  祭    4月10日 例祭    11月3日 秋季大祭
                                                                                                    

        
  国道17号深谷バイパス岡東交差点から群馬県道・埼玉県道259号新野岡部停車場線を南へ向かって行き、最初の交差点(但し信号は無い)を左折すると、すぐ左側にに島護産泰神社の鳥居と社号標石が見えてくる。群馬県前橋市下大屋町に総本社がある産泰神社は御祭神が木花咲夜姫命であり、古くから安産に霊験ありと有名で、安産・子育てと共に子宝にも恵まれるともいう。
 旧岡部町に鎮座する島護産泰神社は旧称「島護明神」と言われていて、天慶年間、平将門が東国一帯を押領した際に、その征討軍として源経基が征伐のため当地で駐屯して、当社に平定の祈願をしたという伝承もあり、歴史はかなり古いようだ。
 
                     入口にある社号標石                   正面参道鳥居から撮影
                     
                                                      入口左側にある案内板
島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)
  当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
 当社を島護("とうご"等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一○日の春祭には、里神楽が奉納される。
                                                      案内板より引用

   
                    参道左側にある手水舎                 手水舎の反対側には神楽殿
                        
                              拝   殿
                       
                             本殿覆屋
島護産泰神社
 景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に、当所で皇運の隆昌を祈願されたという。
 旧称「島護明神」。社地の東北は低地地帯で、たびたび利根川の水難を被った。この地方は、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬の四瀬八島に分れ、これらの住民たちにより、当社を諸島の守護神として信仰したことにより、「島護」の名がついた。また榛沢郡の総鎮守という。  天明三年(1783)の信州の浅間山の噴火、利根川の氾濫のときに、当地方で災難を免れることができたのは、当社の霊験によるものといわれた。
 文久元年(1861)年の辛酉の年、皇女和宮殿下の御降嫁の折り、中山道に面した鳥居前の社標に「榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって、篭を停め御翠簾をあげさせ、容を正して御遥拝されたので、村民は遥かに御宮を拝して、慈しみに感じ入り、弥さらに奉斎の念を深からしめたという。
 また安産の信仰から、周辺地域からも多くの参拝があるという。
 
   社殿の左側には二十二夜塔、青面金剛、庚申塔等の石碑が並び(写真左側)、社殿奥左手には境内社2社(写真右側)がある。境内社に関しては、左側「聖天様、内出神社」と書かれており、御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命2柱。岡部地方には岡部神社や岡廼宮神社等、聖天信仰が盛んな地域だったようだ。右側の境内社は琴平神社と津島神社、三柱神社が納められた社。御祭神はそれぞれ大物主命、素盞鳴尊、火産霊命・澳津彦命・澳津姫命。
 写真右側の境内社2社の左側には冨士嶽大神、小御嶽山、琴平神社等、石碑が並んでいた。

 また社殿の右側には稲荷社(写真左)、社日(写真右)、弁財天がそれぞれ鎮座している。
 
              稲荷社                                社  日
 
              弁財天
              
              島護産泰神社の神楽殿の南隣にある大木。御神木だろうか。

  武蔵国には21の郡に式内社が44座43社存在する。式内社は延喜式神名帳がまとめられた平安時代時点(10世紀前半)で、その地方の有力な社として、またその地域の歴史や文化をも纏めて時の朝廷の承認を受けるいわば保障証であり、また身分許可証のような類のものであったろう。そういう意味において式内社の存在はその数の大小や、社挌によって各郡の順列や品格をも左右されるものであったのではないかと思われる。
 古代日本のみならず世界各地の国に共通することだが、政治の中心地と祭祀施設は、相関関係にあるともいえ、古来、政治と祭祀が一体となって行われてきた様子が、記紀、風土記等の公式な書物や各地の伝承、伝説からも垣間見られる。
                                         
 何故榛沢郡には式内社が存在しなかったのだろうか。
 榛沢郡は東は幡羅郡(式内社4座)、大里郡(同1座)、南は男衾郡(同3座)、西側は児玉郡(同1座)、賀美郡(同4座)そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区という。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡も存在する。
 郡衙は旧岡部町岡地区で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。その他の地域でも古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳があり人口も多かったと思われる。

 その点について気になる伝承が榛沢郡内に存在する。深谷市北部には諏訪神社が数社鎮座しているが、その中に血洗島という一風変わった地域名がある。この由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。

 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、「神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。

  筆者はあえてこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいて、そのことが榛沢郡の式内社に多大な影響を及ぼしている、と現時点では推測している。大体赤城の神が戦いの後、この地(血洗島)で傷口を洗った、という説話自体、この地が赤城の神にとって安心して傷口を洗える場所、つまり自身の勢力圏内にあった、と言えるではないだろうか。考えるに長らく毛野国の影響下にあった榛沢郡に対して、東西両側にある幡羅郡、加美郡は朝廷側にいち早く乗り移った(寝返った?)。そして毛野国や榛沢郡を監視のために其々の郡には式内社が4座存在していたのではないだろうか。幡羅郡4座の内3座は東山道武蔵路の周辺に鎮座しているが、総鎮守の楡山神社は榛沢郡の東側郡境に位置し、加美郡に至っては4座の悉く利根川周辺に鎮座している。

 式内社は上記にて時の朝廷にとって「身分証明証」の類である、と記述したが、一方、「免罪符」の意味合いも含まれると思われる。ずっと後の時代であるが、明治時代初期に実際にあった話ではあるが、戊辰戦争で幕府方に味方した藩は廃藩置県では県名を許されなったという。ある意味意地悪な話であるが、人間の情としてあり得ない話ではない。幡羅郡、加美郡が其々4座式内社が存在しているに対して大里郡、児玉郡、比企郡、那珂郡は1座しか許されず、ましてや榛沢郡に至ってはゼロである。時の情勢が影響している、と言ってしまえばそれまでだが、それだけでは拭えないなにか大きな理由がそこにはあるような気がしてならない。


 

 
 

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野本利仁神社

 野本将軍塚古墳の墳頂には平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祀る利仁神社の社殿が建っている。
 藤原利仁は、名門貴族藤原北家(藤原北家利仁流)で、9世紀末から10世紀前半に活躍(生誕、死没共に不詳)延喜15(915)年に鎮守府将軍に就任。平安時代を代表する伝説的な武将のひとりで、平将門(桓武平氏)、源経基(清和源氏)、藤原秀郷(むかで退治の田原藤太)とともに、関東武士の始祖的存在である。鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦と豊国の娘の子であり、藤原北家魚名流の始祖藤原魚名の孫で、歴きとした名門の貴族の出身である。
  この古墳が将軍塚と呼ばれたのは、藤原利仁が鎮守府将軍であったことによる。古墳北側にある無量寿寺は利仁が武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。

所在地  埼玉県東松山市下野本
御祭神  藤原利仁
社  挌   不明
例  祭   不明
         
 
 利仁神社は野本将軍塚古墳の後円墳部に鎮座していて、名前通り藤原利仁を祀る神社である。
 藤原利仁は911年(延喜11年)上野介となり、以後上総介・武蔵守など坂東の国司を歴任し、この間915年(延喜15年)に下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し、武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。同年に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され、多くの説話が残されている。『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である。
 ちなみに芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線側には野本将軍塚古墳の案内板や古墳碑があり、その先に利仁山、無量寿寺の石標柱がある。寺院の参道の先右側に利仁神社の鳥居がある。ちなみに写真左側には農村環境改善センターがあり、目的地の目印にもなる。
          
           野本将軍塚古墳くびれ部にある利仁神社正面の鳥居とその先の参道
 
 利仁神社に向かうために古墳のくびれ部の参道を真っ直ぐ進み、突き当りを左側、つまり後円墳部に進む。高さ13mの古墳の為、小さな山を登っていくような感じで、周りは鬱蒼とした森林が参道の石段の周囲を包み、社殿の後円墳部頂上まで延々と続く。
          
                           利仁神社 拝殿
 藤原氏からは武家でも、天慶の乱鎮定に関与した藤原秀郷や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁などを出し、その後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を名乗る氏が極めて多く、わが国の苗字全体の五、六割が藤原姓と称していたともいわれる。
 この野本の地も藤原利仁の末裔でもあり、野本氏の始祖とされる「野本基員(のもともとかず)」がこの地に祀ったものではないかと伝えられている。藤原利仁の後裔を称する氏族は多く、藤原秀郷と並んで藤原家の武家社会への進出を象徴する人物と言える。また木曽義仲幼少期の命の恩人で『平家物語』でもその討ち死にシーンで涙を誘う斎藤実盛(長井別当)や、歌舞伎『勧進帳』で弁慶と安宅の関で問答する富樫氏はともに利仁流藤原氏と言われている。
 
          
                   拝殿に掲げられている利仁神社の扁額

 しかし、この中には後世の仮冒も相当多くあり、他の古代氏族の後裔が藤原姓の雄族の養子、猶子となるとか、先祖の系を藤原氏に強いて接続させたという類例も、武家関係では非常に多い。地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、各地に分布が多いので一概にはいいにくいものの、むしろその多くが本来は藤原姓ではなかったという。

 前出の野本基員は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士で野本氏の家祖とされる人物である。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員となる。基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
 また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
 基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
 野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。
                                                    ウィキペディア引用




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