古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上川上伊弉諾神社

  大里郡神社誌には「上川上村熊野社神職宮田氏の系図に依れば、建長四年宗尊親王・鎌倉下向、征夷大将軍に任ぜられ、北条高宗の隙を伺い、文永十年潜かに御帰洛に及べり。当時、宮田太郎貞時・親王に供奉したりしが、後帰国するや北条高宗を恐れ、武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社は代々平家崇敬の神なりとの由緒によりて、当社の社守となると有り。下総国香取郡佐原城主義連の後胤・常陸茨城竹原宮田郷の住人宮田太郎貞明・文永年中宗尊親王に御供し上洛後、帰国して川上郷に住するに及び、熊野三社は平家代々崇敬の神なり、吾身は平氏の後胤なりとて、之に奉仕せりと爾来世襲神職として奉仕すること二十二代宮田浪江に至る」とある。但し文永十年の執権は北条時宗であり、北条高宗なる人物が存在していたかどうかは不明だ。
 ここに記されている武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社とは、当社上川上伊弉諾神社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれているという。

                 
              ・所在地 埼玉県熊谷市上川上36
              ・ご祭神 伊弉諾命 伊弉冉命
              ・社 挌 旧上川上村鎮守・旧村社
              ・例祭等 祈年祭 327日 例祭 88日 新嘗祭 1127
                     *例祭日は大里郡神社誌を参照
  上川上伊弉諾神社は国道17号バイパスを熊谷方面に向かい、上之交差点を左折し約1km行くと十字路となるので、そこを右折するとすぐ右側にこの社の社叢が見える。大体熊谷陸上競技場の南側で、上之村(大雷)神社の北側に位置している社だ。
 社の東側には十二所集会所があり、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
             
                               上川上伊弉諾神社正面
 
    鳥居近くには如意輪観音石像       社号標柱の前には石祠・庚申塔が並ぶ。
      と
石塔が祀られている。              石祠は詳細不明
                綺麗に整備されている鳥居周辺         参道の右側には集会所があり、先にはまた神橋
           
                                                      神橋とその先には社殿がある。 
                         社殿の周りにはこんもりとした社叢が社を囲むかのように一面に広がる。
 
        神橋を渡るとすぐ右手側に稲荷社と石祠            稲荷社の並びにある石碑群
 
                    石碑群の奥にある琴平社                                      石碑群の反対側には神興庫
           
                                                                      拝 殿
           
                               本  殿
           
 伊弉諾神社  熊谷市上川上三六
 当社の創建は、中世、紀伊国熊野三所権現を勧請したことによると伝える。この伝承に基づくものであろうか、当社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれる。「宮田氏家系図」によると、鎌倉期、征夷大将軍に任じられた宗尊親王が執権である北条氏の隙を見て密かに帰京したことから、この供をした平家ゆかりの宮田太郎貞明は、北条氏の追及を恐れてこの地に逃れ、当社の宮守りになった。この宮田家は『風土記稿』に「神職宮田丹波吉田家の配下なり」と載り、明治初期まで二二代にわたり当社の祭祀に専念した。その後、親類に当たる茂木家がこれを継ぎ、現在に至っている。 
 本殿には、享保九年(一七二四)銘の金幣のほかに、嘉永三年(一八五〇)の棟札が納められており、これには「奉再興大隅流唯一権現作御宮一宇敬御造営」とあり、番匠に当村の稲村徳次郎・大嶋夏五郎の名が見られる。また、拝殿に掛かる嘉永五年(一八五二)の「勧進相撲」の絵馬は、当社修築の際に江戸の二所ケ関部屋の力士を当地に招いて行った相撲興行を記念して奉納されたもので、見物人の生き生きとした姿が描かれており興味深い。なお、この翌年の安政二年(一八五五)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

  ここに記されている「大隅流」とは神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻でいわゆる「宮彫」といい、安土桃山時代から欄間などで見られるようになり、江戸前期で確立されたものである。大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいう。
  また上川上伊弉諾神社には上記「相撲絵馬2枚」(昭和45年11月3日指定)の他に「黒馬図」も昭和31年11月3日に熊谷市に有形文化財の指定を受けている。
 
                    本殿左奥にある八幡社                   同じく右奥には竈社


                          
                             社殿右側にある御神木

拍手[4回]


麦倉八坂神社

 旧埼玉県北埼玉郡北川辺町は埼玉県北東端部にかつて存在していた町で、人口は2010年時点で約1万3000人。この北川辺町は埼玉県で唯一町全体が利根川の左岸に位置し、地形上、西側の群馬県とは陸続きで、北側の栃木県とは渡瀬遊水地を、また東側の茨城県とは渡良瀬川を通じて接している。
 この地域は、渡良瀬川と利根川の合流地点西側にあり、別名「水輪のまち」とも言われ、国土交通省が認定している「水の郷百選」に指定されている。ちなみに「水の郷」とは水環境保全の重要性について広く国民にPRし、水を守り、水を活かした地域づくりを推進するため、地域固有の水をめぐる歴史・文化や優れた水環境の保持・保全に 努め、水と人との密接なつながりを形成し、水を活かしたまちづくりに優れた成果を上げている107地域のことをいう。
 この旧北川辺町麦倉地区には麦倉八坂神社が鎮座している。
所在地   埼玉県加須市麦倉2552
御祭神   素戔嗚命
社  挌   旧村社
例  祭   不明

        
 麦倉八坂神社は「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている埼玉大橋を越えると左手側にこの社の社叢が見えてくる。ちなみにこの「麦倉」という地名の由来は、、『新編武蔵風土記稿』によれば明応年間(1492~1500)で、古河公方足利成氏の家臣石川権頭義俊がこの地に陣屋を構えたという。その末裔が、代々この陣屋に住み百人余名の武士が詰めていたと伝わる。それ以前はこの地を倚井(よりい)と呼んでいたが、明応元年(1492)に麦倉と呼ぶようになったという。
           
                           八坂神社正面参道
            
                              二の鳥居

 社殿の手前左側には多数の石祠とその中央には巨大な古木が存在する。写真左側には勝軍地蔵と青面金剛の石祠があり、巨木を挟んでその並びには(写真右)また青面金剛の石祠と出羽三山石碑、そして伊勢太廟参拝碑があり、この伊勢太廟参拝碑は加須市有形文化財(昭和57年12月7日)に指定されている。
                  
            
                              拝    殿
 
         拝殿に掲げてある「八坂神社」の額                  本    殿
            
鈴木弘覚翁碑
 鈴木弘覚、三重県三重郡菰野町に生まれ、長ずるに及んで京都に遊び、頼山陽・支峰・広瀬淡窓に学んで勤王の志士と交わり、尊皇攘夷をはかり、追われました。後に栃木県の庚申山にこもり、戒行に専念していましたが、縁あって北川辺(旧利島村内野)の薬師堂に住みました。道場を開いて青少年に手習を教え、特に養蚕を奨励し、実習地を設け、桑を栽培したり、優良な種子を配布して農事改良に一生を尽くした。明治26年12月23日病没、享年72歳。同28年11月村民相謀って詳伝を刻んだ記念碑を建て、その遺徳を敬慕しました。書は明治の書家渡辺沙鴎である。
           
                             八坂神社遠景

拍手[0回]


砂原鷲神社

 砂原鷲神社が鎮座する旧大利根町は、埼玉県北東部に位置し、北埼玉郡に属し、1971年町制。人口1万5191(1995)。利根川中流南岸の低地を占め,おもな集落は古利根川の自然堤防上にある。江戸時代に低湿地の新田開発が進んだが,たびたび水害に見舞われ,1947年(昭和22年)のカスリーン台風では9月16日0時20分に新川通の利根川堤防(利根川右岸)が約340mにわたり決壊し、大被害を受けた。その後、堤防や排水機場の整備が進み、県内でも有数の穀倉地帯となったという。2010年(平成22年)3月23日 ‐加須市、北埼玉郡騎西町、北埼玉郡北川辺町と合併し消滅した。
所在地   埼玉県加須市砂原2085
御祭神   天穂日命、木花開邪姫(推定)
社  挌   旧村社(推定)
例  祭   4月15日、7月15日(天王様) 10月15日(例大祭)

        
 砂原鷲神社は埼玉県道46号加須北河辺線を加須市市街地から旧北河辺町方向に北上し、上樋遣川交差点の約300m先で右側にこの社は鎮座している。境内案内板によれば万治元年の創立といわれ、鷲宮神社(鷲宮町)と富士浅間神社 の 分霊を祀ったとされている。また、氏子の口碑によると、浅間社の境内に 鷲宮明神を祀り 、社名を鷲神社と改めたといわれる。
           
                            砂原鷲神社正面

     参道の左側にある社殿改築記念碑         社殿の石段の手前左側にある力石と案内板
            
                              拝   殿

 鷲神社の概要   大利根町郷土史
 鷲神社と浅間神社を相殿に祀る。十軒地区を除く本田耕地を氏子とする。所在地は大字砂原字木原2083-1。(以下中略)祭神は天穂日命(鷲神社)、木花開耶命(浅間神社)。祭日 1月元旦、4月15日、7月15日 天王様。10月15日。
 由緒
 武蔵風土記稿、鷲明神社は村の鎮守なり。西浄寺持。武蔵国郡村史、社地東西13間5分、南北29間9歩、面積405坪、村の戌の方字本田小堤の傍らにあり、天穂日命を祀るとある。口碑浅間神社境内に鷲神社を祀ったとも言われている。拝殿は1つで、内部は流れ造りで両社の本殿が相殿で祀られている。両社とも内陣には舎幣と木造の神像が収められてある。鷲神社の神像は坐像で、束帯姿35㎝程の寄木作りで、台座裏には墨書で「向川辺領砂原村鎮守鷲大明神尊体也村中安全祈別当敬白干時寛政七乙卯大9月」武州埼玉郡砂原村別当敬白現住法印淳雅と記してある。浅間神社の神像は、向背をつけた菩薩像で寛政10年(1798年)西浄寺住職によって作られたとある。(中略)
                                                          境内案内板より引用
           
                          社殿左側にある境内社 
              左側から下仙元社 食行霊神 稲荷社 愛宕 御嶽 天満宮

 また鷲神社に隣接して北側には弁天社とその周りには弁天池がある。この弁天池は鷲神社のすぐ東側に流れていた利根川の支流である浅間川が氾濫して堤防が決壊したさいにできたものらしい。

  鷲神社の社殿の裏側に弁財天が祀っている。                 弁財天
                 
 弁財天の社殿の左側には弁天池の記(玉敷神社の当時社司であった河野省三氏の選文)共に弁財天の由来も紹介している。

巡礼の供養
 社記によると、当時の利根川は鷲神社の西側を流れていた。延享2年(1745年)、降り続く集中豪雨で川は満水になり、神社裏手の堤防が決壊した。村人たちは濁流の恐ろしさに、唯脅えるだけで呆然として水の流れを見つめているだけでした。すると誰かが、人柱を立てようと叫んだ。昔は何の手立ても無く、残酷な方法しかなかったのです。たまたまそこに居合わせた若い女の巡礼を水中に投じてしまいました。すると不思議にも猛威を奮って流れていた水も、見事に止り静かになった。すると水面に白蛇首を持ち上げ姿を現しました。村人たちは口々に、先の巡礼が蛇に変わったのだと言いました。人々は後世の祟りを恐れ、弁財天に祀ったと伝えられています。それから今の日まで毎月21日には巡礼の供養を続けています。(中略)私達の先代の方々が一生懸命信仰してきた誠意を継承し、地域繁栄を祈り、更に住民の永遠の幸せを御祈念申し上げます。
                                                             案内板より引用

 上記に書かれている人柱信仰、または人身御供の行為は、特にアニミズムの信仰を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を御供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方である。
 日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川のありようを司る水神(龍の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等しい行為が後世、伝承の過程で変化して描写されたのだと考えられていて、日本各地ではその伝承・伝説は非常に多いことも事実だ。
 また多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が多い。弁財天の案内板を読むうちに、当時のどうにもならない事情はあるにしろ、悲しい歴史の裏側を垣間見た、そんな気持ちになり切ない思いに駆られた参拝となった。

拍手[3回]


下村君鷲宮神社

 羽生市下村君地区には里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日命()をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島(ひこさしま)王の子・御室別(みむろわけ)王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興

所在地     埼玉県羽生市下村君2227
主祭神
        天穂日命
社挌 例祭   不明

        
 鷲宮神社は久喜市鷲宮にある総本社を中心に周辺には数多くの同名の支社が存在する。羽生市下村君に鎮座する鷲宮神社も数多く存在する支社の一つである。永明寺古墳の西側で距離的にも非常に近い。また公民館が同じ敷地内にあり駐車場は非常に広い。
 社殿は南側でその正面には鳥居があるのだが、その一方東側にも朱を基調とした明神鳥居があり、その正面には永明寺古墳がある配置となっている。
             
                                                         東側にある明神鳥居
                                         左側が公民館で、正面右側に神社がある。
             
                                           拝殿 古墳の上に建てられているようだ。
                                    境内からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。
                             本殿覆屋              浅間社 この石祠も古墳上に鎮座しているのだろうか。

   御手洗の池の中に弁天社が祀られている。       境内の弁天社のそばには藤の古木があり、
                                           由来書が掲げてあった

鷲宮神社と古藤の由来
 鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、明治十七年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
 鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。2142坪の境内地には、四個(他に一個出土している)の礎石があり、社殿がたてられていたことを物語っています。また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、社殿の修理か造営が行われたものと思われます。横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394~1427)で、文明十八年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた
道興准向が村君の里を訪れ、「たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里」とよんでおります。荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
                                                             案内板より引用

 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物だそうだ。
 そしてこの村君の地を訪れた時に詠んだ和歌が、冒頭に載せた歌である。
                      
 社殿の右側には明治四年村君全域より合祀された、稲荷神社、熊野神社、八幡神社、天神社、八雲神社が合殿で祀られている。

 

拍手[2回]


大蔵神社

 平安時代の末期は貴族社会から武家社会への一大変革期と言われている。この社会の変革期に活躍した木曽義仲はこの嵐山町大蔵の地で生まれ育ったと言われていて、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されている。
 木曽義仲の父は、源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢で、母は小枝御前。義賢は嵐山町の大蔵に館を構えて住み、そのころ義仲は駒王丸(こまおうまる)という幼名で呼ばれていた。
 源義賢は1153(仁平3年)年頃、武蔵国の名族秩父重隆の養君として上野国多胡から武蔵国大蔵へと迎え入れられ、大蔵館を構えたと言われており、当地を拠点として武威を高めたが、1155(久寿2)年、嵐山町大蔵の地で起こった「大蔵の戦い」で非業の最期をとげることになる。義賢の兄義朝の長男である悪源太義平は、この地方に勢力を伸ばすために大蔵館を攻め、義賢とその一族の大部分が討ち死にした。
 この大蔵の地は、都幾川をのぞむ台地上に位置し、荒川支流の都幾川と鎌倉街道が交差する要衝の地でもある。大蔵神社の森は周囲よりも高くなっており、今でも高い土塁に取り囲まれている。義賢の屋敷はこのあたりにあったといわれ、義賢がこの地を本拠地にして勢力をのばそうとした理由が何となく頷けた、そんな参拝となった。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町大蔵523
御祭神    大山昨命
社  挌    旧村社
例  祭    不明

        
 大蔵神社は国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点(交差点の名称はなし)を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進み(埼玉県道172号大野東松山線)、都幾川を越え約1km位進むと右側にこんもりとした大蔵神社の社叢が見える。残念ながら駐車場または駐車スペースはないようなので県道沿いに路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
           
                  県道172号大野東松山線側から正面参道を撮影
           
                   額に「大蔵神社」と書かれた朱色の両部鳥居
           
                  鳥居の手前左側にあった「大蔵館跡」の案内板
大蔵館跡
 大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西一七○メートル・南北二○○メートル余りであったと思われる。
 館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
 現存遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一○○メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
 源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一、一五五年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
 義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿

 大蔵神社の手前左側には稲荷神社が鎮座し(写真左)、その奥には八坂神社の扁額が掲げてある一見神興庫兼倉庫風の社もある。また稲荷神社の側面上部には「大蔵八坂神社御神輿製作の由来」と書かれた額が飾られていた(同右)。

大蔵八坂神社御神輿製作の由来
 大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録によると、今から一六四年前の天保七年(一八三六年)六月に氏子の皆さんから御寄付をいただき造られたと考える。<その後明治八年(一八七五年)にも氏子から御寄付をいただいた記録がある>
 当時を日本史で見ると天明三年(一七八三年)七月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異により天明七年までを天明の大飢饉。天保四年から十年までを天保の大飢饉といわれた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。まさに大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また御獅子二体は明治二十年に造られた記録がある。
 以来、毎年御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われてきた。時代の変化にともない昭和四十年代には、一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和五十二年に設立され本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年には青少年の健全育成を願って、氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
 しかし現在の御神輿は老朽化が著しく平成元年から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。
 ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム二○○○年を記念して、御神輿を新装しようということになり平成十一年の区民総会にはかり、二十八名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額二千円十八ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねてきたが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。なお今回の御神輿の製作にあたり大行院大澤霊明氏には、御助言と過分なる御芳志をいただき区民一同感謝申しあげるものである。
 異常大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し後世に伝えるものである。
 平成十二年(二○○○年)七月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
                                                           同掲示板より引用
           
         稲荷神社から東側正面にある鳥居。額には「大蔵稲荷大明神」と書かれている。
 

  稲荷神社に並ぶように配置された境内社。写真左側は不明。同右は仙元大日神の石碑。この石碑の両側にある石碑らしきものが何となく気になる。
                 
                        大蔵神社参道付近から撮影

 この大蔵神社には県道沿いや境内西側の「大蔵館跡」の看板付近に土塁や空堀の遺構が見られ、土塁の高さは3m以上あろうかというほど立派なものだ。但しこの土塁等は後世の改築とも考えられ、発掘調査の結果によると現存する土塁は室町時代から戦国時代にかけてのものとされている。
 大蔵地区近辺には源氏3代(義賢、義仲、義高)ゆかりの鎌形八幡神社や笛吹峠、鎌倉街道など、鎌倉武士の息吹きを伝える旧跡が数多く点在している。嵐山という雅な地名と相まって、埼玉県にもこれほど文化遺産の多い地域が存在することが正直嬉しかった。

拍手[3回]