古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金尾白髪神社

 金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれ、日下部宿禰老や津島朝臣堅石と共に、秩父に視察に出かけ「黒谷」地区で「銅山」を発見し、その自然銅の塊は朝廷に送られた。時の元明天皇(在位707年~715年)は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたという。その時の朝廷の喜びはいかばかりであったろう。金上无は和銅献上時点では無位であったにもかかわらず、一躍他の2人と共に、従5位以下に叙せられたことからも伺がわせることができ,同時にいかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。

 この寄居町金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。「埼玉の神社」によると、当地に入植した渡来系氏族の関与があったとの指摘もあり、ますますこの地域の興味は尽きない。
所在地   埼玉県大里郡寄居町金尾256-1
御祭神   猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

       
 金尾白髪神社は国道140号線を寄居町から長瀞町方向に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折し、寄居大橋を渡るとすぐ右側に鎮座している。但し駐車スペースはこのルートにはないので、寄居大橋を渡り切ってT字路にぶつかり、そこを右折するとすぐ右側に社に通じる道があり、社務所あたりに停めることができる。境内右側はすぐ下に荒川が流れ、参拝も初秋期ということもあり、四季の移り変わりをそこはかとなく感じさせてくれる趣のある社である。
          
                           正面一の鳥居
           
                           参道から見た神門

  参道左側にある白髪神社獅子舞の案内板     獅子舞案内板の向かい側にある白髪神社由来碑

町指定文化財 白髪神社獅子舞
 指定  昭和五十八年一月一日
 所在  寄居町大字金尾 白髪神社内
 この行事がいつ始まったか明らかではないが、現存している獅子頭が、文久二年(一八六二年)に奉納されたという記録があり、それ以前からこの行事が始まっていたことが分かる。
 この獅子舞は、古来より十月十九日の大祭のつけ祭りとして奉納されたものと言われている。
 獅子舞の内容は、四方固め・剣の舞・奉納神楽の神事舞・まり遊び・のみとり及びひょっとこの道化舞の六座である。
 かね・笛・太鼓の囃しに口上が加わり、ときに静かに、また勇壮に、ユーモアもまじえた、古き良き、むら祭りにふさわしい素朴なものである。
平成十一年三月   寄居町教育委員会
                                                        

白髪神社由来
 むらの鎮守、白髪神社は、第二十二代清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)を祀り、猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。清寧天皇は行田市稲荷山古墳の鉄剣で知られる雄略天皇の第三子にあたります。 
 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。
 故に、在位(四八○~四八四)中の徳が慕われ、古くは戦国の武将北条氏邦公(?~一五九七年)、要害山城主金尾弥兵衛の祈願所とされ、五穀豊穣・家内安全・長寿の神として、氏子をはじめ、広く信者の崇敬を集めて居ります。(以下中略)
                                                             案内板より引用
             
                          石段を登ると神門がある。
             
                              拝    殿

 境内は比較的広く、開放感がある。社殿の向かい側には「金尾山」と題する漢詩が彫られた石碑があり(写真左)、社殿の向かって右側には「日露戦没記念碑」を含む石碑群があり、その中に浅間大神、水速女命と彫られている石碑(同右)がある。
 この水速女命(みずはやのめ)は伊耶那美火之迦具土(かぐつち)を生んでやけどして伏せていた時の尿から誕生した神で、通説によれば別名「岡象女神」とも言い、日本神話に登場する代表的な水の神であるが、水速女命は岡象女神とはまったく別の神である説もあるそうだ。

境内社 金毘羅神社(写真左)と八坂神社(同右)         社殿の左側奥にある境内社
           
                      殿蔵の渡しの由来が書かれた案内板
           
 寄居町金屋地区は、荒川扇状地の先端部にあたり、丁度この地域を起点として東側に平地が深谷、熊谷両市方向へ扇状に広がる。この扇状地の特性は.低地に比べ水はけがよく,地盤も安定しており,土地として利用価値が高い地域である。また,場所によっては水を得るのが容易であるため,古くから農地として利用されてきた。

 しかし,扇状地はもともと河川が氾濫を繰り返して形成された地形であり,また,山地から平地へ勾配が急変化する場所であることから,大雨が発生した際に洪水氾濫が起こる危険性の非常に高い地域でもある。実際,記録だけでも1742 年(寛保2 年),1859 年(安政6 年),1910 年(明治43 年),1947 年(昭和22 年)などに大洪水を起こした.特に寛保2 年の洪水は,最大の洪水と考えられており,埼玉県長瀞町樋口(地点2)には,当時の高水位を示した寛保洪水位磨崖標(標高約128m)がある。
 この洪水は下流側で数多くの決壊を発生させ,熊谷市大麻生においては,延長約1100m の破堤が生じたという。殿蔵の渡しの案内板にも洪水に関しての記述があり、当時の悲惨さが案内板を通して垣間見られる。

 ところで金尾白髪神社の「金尾」地区の頭につく「金」という名前にも気になることがある。金尾地区は前出秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、荒川を挟んで隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在していることは何を意味するのだろうか。律令時代以前から秩父地域の交通は荒川の河岸段丘上の狭まれた一本の線が武蔵国平野部に通じる主道であったろうことから推測されることは、この黒谷から末野までのルートには共通する文化圏が存在していたのではないか、ということだ。
 黒谷の和同塊を発見した人物の一人は「金上无」という。「金上无」と「金尾」、この「金」が共通する両者には何かしらの関連性があるのだろうか。

 

拍手[5回]


岩田白鳥神社

 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神    菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社  挌    旧村社
例  祭    2月25日 例大祭

        
 岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
 その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。
 県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
           

    道路沿いで鳥居の右側にある案内板             白鳥神社と書かれている扁額

白鳥神社    所在地 秩父郡長瀞町大字岩田
 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。
 神社の起源は、元慶年中(八七七~八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。
 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。
 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。
 昭和五十七年三月     長瀞町
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿
 白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
 後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(
1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。

 藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
           
                              拝殿内部
           
                               神楽殿

 
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神       社殿と神楽殿の間にある2柱の石神

 社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。


拍手[5回]


古里兵執神社

嵐山町は埼玉県中央部に位置する南北に長い町である。その北端部の古里地区は熊谷市、深谷市、寄居町に接していて、埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道69号深谷嵐山線が交差する場所として、熊谷、深谷、寄居・小川、嵐山方面へ行く交通の分岐点でもあり、利便性のある地域である。
 地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。
 この古里地域のなだらかな丘陵地の一角に兵執神社は鎮座している。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町古里766
御祭神    武甕槌命
社  格    旧村社
例  祭    10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)

       
 古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。
            
                   
           
  埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真最上部)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同下部)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。
            

町指定
 民俗文化財   兵執神社獅子舞

  指定  昭和三十七年九月一日
  所在  兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
  時代  江戸時代

 毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
 子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
 獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの  二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
  奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
                                                             案内板より引用 
 
           参道の左側には天神社               天神社の奥には駒形大神の石碑
 

 参道の右側には左側から八坂社、愛宕社が並び(写真左)、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同右)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンと明敵大神社の石碑があるが今回写真の紹介は省略。
           

    境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。
                       
                             拝殿覆堂

            拝殿内部                      社殿の右奥にある鎌倉稲荷
 この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。
           
                       古里兵執神社 参道の風景

 今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。



                                                                                                  



 

拍手[3回]


塚田三嶋神社

 男衾郡には三社、延喜式内社が存在し、小被神社、出雲乃伊波比神社、稲乃比売神社がそれに該当する。その中の稲乃比売神社の論社は二社あり、寄居町鉢形に鎮座する稲乃比売神社と赤浜地区にある塚田三嶋神社だ。
 赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は嘗ては鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だとのことだ。
 塚田三嶋神社には埼玉県の文化財に指定されている鰐口(わにぐち)が保存されている。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝え、この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたという。
所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜1973
御祭神    大山祇命 木花開耶姫命 少彦名命
社  挌    延喜内社、論社 旧村社
例  祭    3月27日 例祭

        
 塚田三嶋神社は国道140号線を寄居方面に向かい、花園インター先の花園橋北交差点を左折すると、埼玉県道296号菅谷寄居線となり、荒川を越えて南下し、北柏田交差点を左折する。そのまま道なりに進み、左側斜向かいに薬師堂のあるT字路を左折すると約1.5kmで左側に塚田三嶋神社が鎮座している。
 塚田三嶋神社の西側には塚田集会所が隣接してあり、その前には駐車スペースがあったので、そこに停めて参拝を行った。
           
                       正面一の鳥居と右側には社号標
 一の鳥居や社号標の右側で道路沿いに寄居町指定天然記念物である「塚田三嶋神社のヤブツバキ」、そして埼玉県指定文化財の「鰐口」の案内板が掲示されている。
           
町指定天然記念物  塚田三嶋神社のヤブツバキ
 指定年月日 平成十九年一月三十日
 所在地    寄居町大字赤浜字後塚田1973
 ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑木である。
 社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高十三・八メートル、目通り一・三メートル、根回り三メートルである。
 近くの杉の影響で、樹冠は北半分はほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているものの、樹勢は良好な巨木である。
 なお、両脇のヤブツバキは指定には至らなかったものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護したい。
 平成二十年三月   寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用
           
県指定文化財    鰐口 一口
 指定  平成十六年三月二十三日
 所在  寄居町大字赤浜(三嶋神社)
 この鰐口は、鋳銅製で直径が十九・九㎝、篤さ六・九㎝を測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面に唇上の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古挌を示している。
 鼓面外区の左右に「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年乙亥三月廿七日」の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永二年(一三九五年)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も洋式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。
 埼玉県教育委員会
 寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用

 社号標石のすぐ先にある境内社(写真左)があるが、残念ながら案内板等がなく詳細不明。また参道を進むと右側に「拝殿改築記念の碑、三嶋神社御祭神」の石碑(同右)がある。
           
                                拝    殿

   拝殿上部には「三嶋神社」と書かれている額                本    殿                       
                                          
    社殿の左側にあるヤブツバキ3樹。真ん中のツバキが寄居町指定記念物に指定を受けている。  

拍手[2回]


長在家稲荷神社

  上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。
 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。

        
             ・所在地 埼玉県深谷市長在家204-                                                         
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 毎年3月 例祭(豆腐祭り)祈年祭 316日 
                  新嘗祭 
121
             *祭日に関して「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.com/maps/@36.145401,139.289745,17z?hl=ja&entry=ttu   
 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
                        
                     道路を挟んで一の鳥居の反対側にある石塔
            
                                                       長在家稲荷神社正面       
 
 鳥居周辺、及び参道には石臼が敷き詰められている。            石臼参道の案内板            
 深谷市指定有形民俗文化財  
 石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)
 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。
 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                案内板より引用
                 
                    鳥居のすぐ先に聳え立つご神木(写真左・右)
            
                                拝 殿
             
 拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。
 
                    社殿上部に飾られている奉納額(写真左・右)。
            
                                                          稲荷神社改修工事記念碑
 稲荷神社改修工事記念碑
 正一位稲荷大明神(倉稲魂命)
 長在家稲荷神社の主祭神です。
 当地は古くは武蔵国榛沢郡長在家村と呼ばれておりました。
 この神社の創建は不詳ですが、享保十九年(一七三四年)に神祇管領ト部兼雄から宗源宣旨を受け、正一位に叙せられたことと、この地の歴史を考えると江戸時代の初期、又はそれ以前の創建と考えられます。
 境内には、明治四十一年(一九〇八年)に合祀された、八坂神社(素盞男命)、飛房大神(天手力男命)、子ノ大権現 (大国主命)、浅間神社(木華開耶姫命)とその他の神様も祀られています。
 五穀豊穣・商工繁盛・家内安全・身体壮健・縁結び等平和と繁栄の神社として信仰されてきました。
 祭りは元旦祭、春季例大祭三月、八坂祭り七月、勤労感謝祭十月と年四回行われています。
 このような歴史有る神社も近年老朽化が甚だしく、敬神・愛郷の念厚い地元崇敬者は社殿等の護持に心を砕いていました。
 平成二十六年(二〇一四年)拝殿改修等の気運が盛り上がり、長在家の皆様の総意で建設委員会を立ち上げ、二年後の完成を目標に計画を進めました。
 皆様に、貴重な浄財を多大に寄進して戴き、拝殿・境内の改修、神輿庫の改築、水屋の改修、末社の整理と覆屋の新築を行い、ここに稲荷神社改修奉祝祭を斎行し、依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻み永く記念とします。
                                      案内板より引用



 ところで長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年~27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。

 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。
 
        長在家稲荷神社社殿周辺にある境内社(写真左)と、可愛らしい一対の狐様の石像(同右)。
                          
                                石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。


 

拍手[4回]