古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大天白神社

 羽生市は埼玉県の北東部に位置する人口約5万7千人の市である。都心から60km、さいたま市(浦和区)から40kmの距離にあり、東と南は加須市、西は行田市、北は利根川を隔てて群馬県に隣接している。主な交通機関は、東武伊勢崎線、秩父鉄道、東北自動車道羽生インターチェンジ、国道122号、国道125号がある。
  江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の街で有名だ。市名の由来として、市内の神社にある懸仏に、天正18年(1950年)太田埴生庄との銘があり、埴(はに、赤土の意)が生(う、多いの意)であることを表しているといわれている。また埴輪(はにわ)がなまったものという説もある。
 
文字としては、「鎌倉大革紙」に、長尾景春が文明10年(西暦1478年)に羽生の峰に陣取ったことが記されている。 また、「小田原旧記」には、武州羽丹生城代中条出羽守との記載があり、埴生、羽生、羽丹生の三種が今まで用いられていた。(羽生市史上巻より)

所在地    埼玉県羽生市北2丁目8番13号
主祭神    大山祇命、大巳貴命、少彦名命
社  格    不明
由  緒    弘治三年(1557年)に羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願
         の為に勧請し創建。後に木戸氏と成田氏の合戦により焼失したが再
         建され、以来、安産・子育ての神として信仰されている。 
        
 地図リンク
  大天白神社は羽生市北2丁目、羽入市役所から北西方向に約2kmのところに鎮座する。神社までの経路は住宅の生活道路のような狭い道を入ってくるので、ナビがないとわかりにくい。神社と公園が隣接しており、一の鳥居の先にはは見た通り藤の棚が出迎えてくれた。ここは大天白公園と言って平成13年にリニューアルした藤棚の面積は770平方m。紫色と白色の藤あわせて60本が植えられているとのこと。

  この大天白神社は大山祇命を主祭神として、大己貴命、少彦名命を祀っている。『埼玉の神社』には、川に関係のある神社と思われるとあり、祭神は、『武蔵國郡村誌』には、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とあり、内陣にも倉稲魂命の御影掛け軸があるから、元は稲荷神を祀っていたのではないかというが詳細は不明だ。
  大己貴と少彦名とが祭神となっているのは、明治40年に、大字羽生字栃木にあった蔵王権現社を合祀した結果であり、大天白神は羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために、弘治元年(1555年)に勧請したという
  ちなみに藤は羽生市の花である。
  この藤棚は左側にカーブし、その先に大天白神社が正面に鎮座している。その反対側は駐車場で20~30台駐車可能。

  大天白(だいてんばく)神社
 
祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神に大巳貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神である。
 この神社は、弘治三年(1557年)三月羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために勧請し創建されたと伝えられる。その後、上杉氏(木戸)と北条氏(成田)の数度の合戦により社殿は焼失したが、里人達の熱心な勧進によって再建された。
 以来、安産・子育ての神として信仰されており、毎年五月と十月に例大祭が開かれている。
                                                                                                      
昭和五十五年三月  埼玉県

               
                                                  拝       殿
                 
                           本       殿
                   県北に位置しながら、上毛地方特有の派手な様式でなく安心した。

  大天白あるいは天白を名とする神社は静岡県から愛知県、三重県に多く、名古屋市に天白区や天白川があることはよく知られている。天白神社については、農業神、旅の神など諸説があって、はっきりしたことはわからないらしいが、一説によれば、縄文時代から続く土着系信仰ではないかという、
 ただ正直天白神とはなにか、これがまた正体がよく判らない。海や川を鎮める神(水神?)であったり、星の神であったり養蚕・織物の神であったり、他にも天津ミカ星やミシャグシ神とも関連があったりと謎だらけの神だ。


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田甲高負彦根神社

 高負彦根神社が鎮座する田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに「玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。
 周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
 和同3年(710)創建と伝わる古社とされ、横見郡三座のうちでもっとも古く、近年に発見された宝亀3年(772)の太政官符によれば、「武蔵国幣帛ニ預カル社四処」の「横見郡高負比古乃神」と比定されている。                                                             
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町田甲1945
             ・ご祭神 味耜高彦根尊 大己貴尊
             ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
             ・例祭等 例祭 718 

   横見神社を東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を熊谷方面に北上し、松崎交差点を左折すると、正面にこんもりとした特徴のある岩山が見えてくる。これが通称「ポンポン山」である。このポンポン山を脇から登っていくと、山頂に式内社・高負彦根神社が岩山に鎮座している。
            
                           入り口付近にある案内板
                        
                                                   鳥居より社殿を望む                                             
             
                                 拝 殿
 
       拝殿上部に掲げている扁額             社殿の左側に鎮座する境内社 三峰神社
  この高負彦根神社の先は「ポンポン山」という岩山なのだが、鳥居の反対側は広い平地が広がる。どうやらこの岩山は丘陵地の先にあたるようだ。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説があるという。                          
 しかしある意味絶景の要害の地であり、切り立った断崖は東側から押し寄せる敵軍には天然の要塞として機能したであろうと思った。
            
 さて社殿の奥に進むと、そこには「ポンポン山」(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38mの岩山が聳え立つ。
             
                             「ポンポン山」案内板
   伝説では長者が高負彦神社の指示によりこの岩山に財宝を隠した。盗人がその財宝を盗もうとしたところ山がポンポンと鳴り出したため逃げ出したそうだ。いわゆる古代の警報システムというところか。

 ポンポンとなる原因は今でも不明で、このポンポン山一帯だけが付近から突出しており、しかも巨岩が露出しているところから得意な地盤であることは確かである。古代の人もその威容とポンポンとなる地盤に神が宿ると思ったのだろうか。古代遺跡が埋まっておりポンポンとなるのはその遺跡を守る装置なのかもしれない。
 
     ゴツゴツとした岩肌があらわでもあり(写真左・右)、その岩山の存在感には驚きを隠せない。 
            
                        ポンポン山から北側平野部を撮影。          
〇ポンポン山(高高負彦根神社)
 延喜式内社で昔は玉鉾氷川神社とも称した。祭神は、味耜高彦根尊・大己貴尊とされるが素盞鳴尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅 2年(710)創建と伝えられる古社で宝亀 3年(772)12月19日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル、天平勝宝7年(755)11月 2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山ともいう。巨岩の直下20mの平地は古代荒川の流路であった。
 吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内社3社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成10年 3月  吉見町・埼玉県                                    
社頭掲示板より引用

  高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。現在の社名は「タカオヒコネ神社」と読んでいるようだ。
 これは創建から時代が経ち元の祭神が忘れられた後に、祭神を社名から味?高彦根命に変えたからで、おそらく元は「タケフヒコ」の社であったものと想像される。この辺りの土地を拓いたのが「武」や「猛」に通ずる「タケフ」という名の男性首長で、祭神の御性格の激しさをそのまま神名とし、死後にこれを祀ったのが当社のはじまりではなかろうかと思う。

            
   横見郡三座のうちで創建がもっとも古く、社殿の後方に玉鉾石という磐倉のような巨岩をある意味祀っているような配置。 その歴史的な重み、それに加え神川町に鎮座する金讃神社のスケールをかなりコンパクトにしたような神秘的な雰囲気も整っており、なかなか見応えある社である。

                 
                                              高負彦根神社 東側からポンポン山を撮影
                 かなりユーモラスな名前だが実際はかなりの威容の岩。
             まさに見ての通り玉鉾石という名がピッタリな断崖絶壁の巨岩だ。

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御所横見神社

 伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いていて、その丁度300m位正面に郷社、横見神社が鎮座している。地名の横見より興った神社であろう。地名は横見→吉見と変化した。
 創建は和銅年間(708-715)と伝えられている。
 狭山丘陵の東側の平地の中に鎮座している。この丘陵の東側を流れる荒川は、古代より常に氾濫をくり返し、その流れを変えてきた。当社は、荒川の氾濫によつてできたと考えられる平地の中にある。 
         
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町御所1 
              ・社 格 旧郷社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・祭 神 建速須佐之男命 櫛稻田比売命
              ・例祭等 例祭 1014    
 
  黒岩横穴墓群のある八丁湖から南東側へ下っていくと田畑に囲まれた横見神社がある。鳥居の左の林の中には御所稲荷塚古墳がある。黒岩の伊波比神社から車で2,3分。非常に近く、車のナビを使って最初に到着してしまった。吉見町の辺りは古くは横見郡といって、その名を社名としている当社が、この地域において相当に有力な社であったことはまず間違いないだろう。「御所」という大字にもその歴史の深さを感じさせてくれる。
  駐車場は神社の隣に駐車できる空間があり、そこに車を停めて参拝を行った。
              
                             御所横見神社正面 
          
             鳥居の右隣にある社号標      拝殿に臨む参道の風景     
             
                                                  拝  殿
〇新編武蔵風土記稿
横見郡 巻之ニ 上細谷村 附持添新田
飯玉氷川明神社
是延喜式神名帳ニ載ル横見ノ神社ニテ素盞鳴尊 稲倉玉命ナリト云傳レト□ナル據ルニハアラス 當村及下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ケ村ノ鎮守ナリ 社ノ後ニ神木トテ圍一丈五尺程ノ松アリ此下に石槨アリト云傳フ 古ハ社ニ金ノ幣束アリシカ中古洪水ノ時社共ニ久保田村ヘ流レ行テ今ハ失ヘリトソ 別當ハ下細谷村照明寺ナレト御所村ノ持ニシテ平日ハ黒岩村大寶院進退セリ

〇比企郡神社誌

横見神社
御鎮座地 吉見村大字御所
御祭神   建速須佐之男命 櫛稲田比売命
御由緒  
  創立年月未詳。当社は延喜式神名帳に載する横見神社是なり、中古本郡上細谷黒岩、御所、谷口、中新井、久保田、七ケ村の鎮守にして、飯田氷川大明神と称して後今の称に改め復せり~中略~この樹下に石堰の埋れたるあり 然るに明治五年六月二十六日風雨落雷の時土地崩れて石蓋を発顕す。その石蓋を開くに一物の有なし蓋し太古国造県主等の墳墓ならん。これを以って旧地旧社を表するに足れり、又考証土台に飯玉明神黒岩村と載たり、新編武蔵風土記を関するに本村御所村は正保の頃までは黒岩村の地なりしが、程なく別村せしと、元禄の改めには既に別てりとあり。又同書に飯玉氷川明神を上細谷の部に出して「別当は下細谷村照明寺なれど御所村の持にて云々」とあり、この近傍古へ御所郷と称し後黒岩郷と云ふ。その鎮守七ケ村なるを以って上細谷に属し或は黒岩村に属せしも知るべからず。現在は本村に属し明治七年郷社に列せらる。
              
                                                       本  殿
 本殿は小高い丘の上に建っていて、新編武蔵風土記稿に記載されている「石郭」との記述を考えあわせると、古墳であったろうというが、実際参拝した限りではまったく判らなかった。
              
                                                              社殿からの風景
 横見郡は『日本書紀』に出てくる「横渟屯倉」(よこゐみくら)の置かれた地域に比定されているらしいが、その根拠は一体なんであろうか「横渟屯倉」は武蔵国造の乱において出てくる4ヶ所の屯倉の一つとされている。が、あくまで語呂合わせの推定にしか過ぎず、真相は現段階では不明だ。


 御所横見神社の西側にはこんもりとした小高い森があり、道路沿いには朱の鳥居が見える。調べてみるとこれは「御所稲荷古墳」といい、御所横見神社の境内地内にあり、明治5年に古墳の一角に稲荷社が祀られたという。この古墳は古墳時代後期の築造と推定されているが、それ以外は全くの不明だ。
            
                  御所稲荷古墳の一角に鎮座する稲荷社(写真左・右)     


                           

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黒岩伊波比神社

  古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北半を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとがうかがえる。
 
横見郡は明治29年(1896)には比企郡に編入されたのだが、編入先の比企郡には延喜式内社が、伊古乃速御玉比売神社の1社しかない。横見郡が律令国家にとって重要な土地であったのか(屯倉(天皇の直轄地)だったとする説もある)、あるいは横見郡の郡域は比企郡や大里郡にまで入り込んでいて、実際はもっと広かったのかもしれない。
 それにしても、横見郡の延喜式内社3社が、非常に狭い範囲に集中して存在しているのは不思議なことである。

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町黒岩346
              ・ご祭神 天穗日尊 誉田別尊
              ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・例祭等 例祭 1014       

 伊波比神社は比企郡吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する。木々に埋もれるようにひっそりとした佇まいが非常に印象的で、社殿はこじんまりしていて新しそうだが、鳥居から社殿までのこの風景、景観はなかなかの歴史を感じる。 
 
現在の社殿の西方「八幡台」と呼ばれているところが旧境内で、応永年間(1394年頃)息障院が現地に移転したとき伊波比神社もこの地に遷ったと言われている。
 困ったことに駐車場が存在しない。そこで近くに鎮座する横見神社の駐車場を借用して参拝を行った。
伊波比神社の両部鳥居の先には風情のある佇まいの社殿が斜面にある。
            
                              黒岩伊波比神社正面       
 和銅年間(708-715)に創建された式内社で、喜祥2年(849)従五位下、貞観元年(859)には盤井神として官社に列格する。現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。(吉見町文化財整理室又は吉見町黒岩配水場のあたりか)応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。
            
                         伊波比神社 正面参道
 伊波比神社に関して『新編武蔵風土記稿 黒岩村条』には次のように記されている。 
〇黒岩村 岩井神社 
 或は岩井八幡とも稱す、村の鎮守にて村民の持、祭神譽田別天皇天太玉命、今の神體馬上に弓箭をとる像なり、按に【延喜式】神名帳に、武蔵國横見郡伊波比神社と載せ、又【續日本後紀】に嘉祥二年三月庚寅、奉授式武蔵國伊波比神從五位下とあり、是當社のことなるべし、土人等は式内の社なること云も傳へざれど、社地のさま老松生ひしげり、いかにも古き社と見えたり
            
                                  殿 
            
                  伊波比神社左側に静かに鎮座する摂社岩崎神社
 
 『神名帳考証』、『神社覈録』、『神祇志料』は式内・伊波比神社を「黒岩村岩崎大明神」としている。また江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。思うに摂社である岩崎神社のことではないか。鎌倉時代、源範頼(頼朝の弟)の所領がここにあり、子孫が吉見氏として四代続いていたということからも十分頷ける話と思う。

 また
伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いている。その丁度300m位正面に郷社・横見神社が鎮座している。まるで高台から平野部に鎮座している大社を見守っているような、それか監視しているのか、ともかくこの位置関係は不思議である。
            
                        伊波比神社拝殿より鳥居を撮影
              ゆったりとした静かな時の流れがこの社一帯には確かに存在した。

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大雷神社

所在地    埼玉県熊谷市拾六間690
主祭神    別雷命
社  格    村社 
 
       
由  緒   
 由緒不明

例  祭         
不詳

地図リンク
  国道17号線新堀(北)交差点を自衛隊基地入口方向へ下り、約1km位行くとY字路の交差点があり、手前の歩道橋脇から左側へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。参道の両側は徳蔵寺の墓地になっており、その墓地の西側に観音堂と閻魔堂、北東側に徳蔵寺がある。この社は筆者の住まいの近所にあり、今までなかなか参拝できずにいたが、今回満を持して紹介することとなった。

 この地域は熊谷市の中にあって人口の増加から周辺は開発が進んでいるが、この社周辺にはその喧騒が全く感じない静かな時間が広がっている。小さい社ではあるが大切にしたいものだ。
             大雷神社の静かな佇まい

  ところで大雷神社の扁額には「大電八公宮」と記されている。熊谷市新島地区に鎮座する大雷神社も大電八公宮という。祭神も同じく別雷命。そこの由来の碑にはこのような説明が書かれている。


大雷神社 由来

  当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字となり、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、熊谷市大字新島となる。
 当社は古くは大電八公社(ダイテンハクシャ)として現在の熊谷市大字新島大天白北三百二十八番地に鎮座し・・・(中略)祭神は別雷命です。・・・(中略)風の神、安産の神として近郷の人々の信仰を集めてきました。
  大電八公でダイテンハクと読ませることのほうが興味深いことだ。大天白神は星神・水神・農耕神・産泰神などの性格を持ち、別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり
別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり、またこちらの神社では産泰神としての性格も持たされていることを考えると、大天白神と別雷神を同一視している可能性もあるだろうか?

 またある書類ではこのようなことが記入されている。

・・・・『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。関東では大天白を「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという。・・・

           額に記された大電八公宮

「熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森」の看板の説明文には以下のことが記載されている。

熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森
 昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この二つの樹林が、「ふるさとの森」に指定されました。
 徳蔵寺は、真言宗の寺院として、六〇〇年ほど前に建立されたと言われ、薬師如来と十二神将軍の石像は、古くから人々の深い信仰を受けています。
 大雷神社は、源平時代(1056年)に父の命を受けた源義家が、征途にあたり、この付近に十六間四方の兵舎を築き、五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています。
 周囲の都市化が進むなか、天に向う大樹の森は、かけがえのない緑です。
 林相としては、主に、カヤ、イチイガシ、マツ、クスノキ、スギ、ヒノキなどで構成されています。

  大雷神社社叢ふるさとの森の説明板でも「大雷神社は、源平時代・・・(中略)五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています」と書かれている。拝殿の額に書かれた「大電八公宮」という名前といい、読み方といい、この説明板の水神といい、天白神との関係が非常に深いのでは、と感じた。






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