古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小埼沼 宇賀神社

 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。
 約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3~7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。

 それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。
所在地       埼玉県行田市埼玉2636
区  分       埼玉県指定記念物 旧跡
指定年月日        昭和36年9月1日


                
 かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測される「小埼沼」は、埼玉県行田市の東南部、埼玉古墳群より東方2~3kmの場所に存在する。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑がある。
 
田んぼと畑が広がる中に、小埼沼だけ林になって              現地に着くとすぐ左側に案内板がある。
                        存在する。
       
尾崎沼神社(宇賀神社)
在地  行田市埼玉2739
祭神    宇賀御魂神(倉稲魂神) 

 当社の創始についての言い伝えに、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とある。このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。

  また一方ではこのような伝説も残っている。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうだ。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがある。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名があるが、それも片目の伝説と関係があるのだろうか。
 行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されている。


 まりこれらの伝承の真相は、古代ある時期において、鍛冶師、タタラ師などの古代鍛冶産鉄集団が移住して来たことを意味するのではないか。これらの集団は職業病として片目になることが多く、天目一箇神(天津麻羅)などの信仰があるという。
 古代鍛冶集団と片目伝説については別項を設けて改めて述べたいと思う。

        
                    林の中にある「武蔵小崎沼」石碑
 宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられた万葉歌碑であり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られている。碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようだ。


 「埼玉の  津に居る船の  風をいたみ  綱は絶ゆとも  言な絶えそね」(さきたまの  つにおるふねの  かぜをいたみ  つなはたゆとも  ことなたえそね)
 
歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられている。冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるもの。

 「埼玉の  小埼の沼に  鴨ぞ翼きる  己が尾に  零り置ける霜を  掃ふとにあらし」(さきたまの  おさきのぬまに  かもぞはねきる  おのがおに  ふりおけるしもを  はらうとにあらし)
 
この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い冬の早朝の風景を歌ったもので、この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれている。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)と言われている。
                   

小埼沼史跡保存碑 碑陰: 大正14 和歌が3首(藤原定家、橘仲遠、よみ人しらず) 碑陰:子爵松平忠壽題 

小埼沼史蹟保存碑
  埼玉県知事從四位勲三等齋藤守圀題
小埼沼は著名の古沼にして往昔水波渺茫舟船の輻輳せしこと古人の詠歌に依りて明なり爾後千有餘年の閒陵谷幾多の變遷あり寶暦三年秋忍城主阿部侯此名蹟の湮滅せんことを憂へ碑石を建てゝ其跡を傳ふ爾来茲に百七十餘年遺跡益荒廢せんとするに方り本縣之か保存の要を師事せられ郷人亦意を此に致し胥謀りて保存會を組織し柵を繞らし坳地を浚渫し樹木を植ゑて舊跡を昭にす縣村其資を補助し青年團員工を賛て工事成るに及び記念碑建設の企あり文を余に需む思ふに滄桑の變窮りなし史蹟保存の途は永久に之を繼承せさるへからず郷人此史跡を修理保存し永く懷古の資たらしむるもの實に愛郷の至情に廢せすんはあらす余大に此擧を美とし茲江來由を叙し古歌を録して以て後代に傳ふ
  さし暮る洲崎に立たる埼玉之津に居る船も氷閉しつつ        藤原定家
  山鳥之小崎の池の秋の月さてや鏡をかけて澄むらん         橘 仲遠
  埼玉之崎の池にさし暮る洲崎に咲く花はあやめにまさる杜若かな  讀人不知
 皇紀二千五百八十五年大正十四歳七月
      埼玉縣北埼玉郡長從七位黒澤秀雄撰并書
                                                埼玉県 行田市 埼玉 3165
        

 ところで万葉集に詠まれた小埼沼の候補地として、この行田市埼玉の場所のほかに、羽生市尾崎(利根川右岸)、岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)が挙げられる。「オザキ」という何気ない地域名にも関わらず、調べてみると歴史的にもかなり奥深い何かが隠されているようにも感じる。
 
 また周囲には水神社(写真左側)や弁財天(同右側)などの石碑もあり、ここでも水、沼地に関係した神々が祀られている。伝説は抜きにしても確かに、小埼沼の周辺には神秘的な雰囲気が未だに残っている。


 



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岡部神社、岡部六弥太忠澄之墓、岡廼宮神社

 埼玉県旧岡部町、現深谷市岡部地区は、深谷市と本庄市に挟まれ、荒川北岸に広がる櫛挽(くしびき)台地上を占める。緑緑豊かな田園が広がる農業地帯で、ブロッコリーやトウモロコシが特産品だ。伝統の地場産業は「お漬物」が有名で、数十年前岡部地区に近い高校に通っていた当時、部活動で周辺をランニングするとお漬物の匂いが辺りから漂っていた事を今でも思い出す。地域のシンボルは、一年を通じて利用客でにぎわう「道の駅おかべ」と、「コスモス街道」で、このコスモス街道は長さは4㎞にも及び、秋の風物詩にもなっている。
 律令時代この一帯は榛沢郡と呼ばれていた郡域で、古くは榛沢郡岡村)は榛沢郡郡衙跡が発見され、旧榛沢郡の中心であったことが判明した地域である。古墳時代から開けていた所で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。

 また平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて岡部町を代表する武将として猪俣党の岡部六弥太忠澄がおり、町名にもなっている。
 ちなみに岡部町に榛沢の地名が残っていて(榛沢、榛沢新田、後榛沢)、『和名抄』は「伴(波牟)佐波」と訓じている。

所在地    埼玉県深谷市岡部705

主祭神    伊弉諾尊 伊弉冉命 (合祀)大山祇命 建御名方命
創  建    弘仁(こうにん)年間(810~24年)
社  格    不明        
        3月17日

地図リンク
 国道17号を岡部駅方向に進み、その手前岡部北交差点のそばに岡部神社の鳥居があり、その鳥居の奥の参道の突き当り左側に岡部神社が鎮座している。この参道は結構長い。残念ながら駐車スペースは無いので、南側の曹洞宗源勝寺の駐車場をお借りして参拝を行った。
 ちなみに岡部神社北下の地は、岡部六弥太忠澄が館を構えた地で、「古城」「本屋敷」などの小字名が残っている。ここから南方の当社まで、幅八間の参道があったという。六弥太忠澄が一の谷の戦功の報賽に社前に植えたといわれる杉は、「鉢杉」と呼ばれて周囲一丈八尺余、高百尺以上の老木となった。
 江戸時代の宝永2年(1705)、岡部城の城主となった安部摂津守以来、代々の城主の崇敬があった。明治の居城返還に際し、城主より金馬簾・陣太鼓・保良貝などが奉納された。鎮座地の小字「上」は、もとは「城上」といっていたのが省かれたものである。
 旧称は「聖天宮」(聖天様)といい、本殿には歓喜天の本像が安置されている。

 
   国道沿いにある両部鳥居形式の一の鳥居       一の鳥居のすぐ後ろに二の鳥居がある
 
岡部神社
 沿革 
 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。明治十二(1879)年、岡部神社と改称し、現在に至る。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。
 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。
 後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。
 祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願した。昭和二十年代以前の夏祭りには、神輿が出てたいへん賑やかなものであったと言う。
 この神輿は、町指定文化財となっており、現在は、神社境内の倉庫(神輿やどり)に保管されている。神輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板ぶきとなっている。このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴、ひばり、昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されており、たいへん豪華なつくりとなっている。
 平成三年三月
                                                      
案内板より引用

                   岡部神社拝殿

拝殿右側、北方向にあたる方向に多くの境内社が存在する。
 
             
八坂神社             左から諏訪稲荷神社額部分に「富士」と彫

                            られた石祠、そして社日
 
  馬頭観世音菩薩、三申、二十二夜待塔等

諏訪稲荷大明神
 神社は昔安部藩主陣屋内現在中山栄太郎様屋敷内東郵便局西方に鎮座ましせり。藩主代々二万参千石の安泰と領民の健康、五穀豊穣を祈願?氏神稲荷様なり時の流れにより大正年間当社に合祀。現在に至る。

 昭和四十九年壱月吉日

 
 深谷市の「遺跡 データベース」を見ると岡部地区は先史時代から人々が生活していた数多くの遺跡が存在する。約1万4千年前の後期旧石器時代の遺跡である白草遺跡があり、多数の細石刃や彫刻刀形石器が出土している。縄文時代になると、台地上に数多くの遺跡が出現し、土器を用いて定住するようになる。それに対して弥生時代の遺跡が意外と少なく、縄文時代からいきなり古墳時代に移行したような歴史的な流れがある。
 また榛沢郡の郡衙跡とされる中宿遺跡では郡衙の倉庫が復元されているのに郡庁(郡衙の庁舎)の比定資料が存在しない。榛沢郡は律令時代以前から隣接する幡羅郡と共に豊かな米穀産地で、従事人口も多かったはずであったであろう。
古墳は築造当時の地域の豊かさの目安の一つとなるが、古墳の数、規模において榛沢郡内の古墳は幡羅軍郡のそれと遜色ないか、むしろ古墳の単体規模において優っていたと思われる。それが時代が下ると豊かさの形勢は逆転してしまう。例えば幡羅郡は延喜式神名帳において式内社が4社を数えているに対して、榛沢郡には式内社が全く存在しない。
 東山道武蔵路の開通によって幡羅郡内にその路線が組み込まれたことで幡羅郡の存在が時の権力者にとって大きくクローズアップされたことは大きいだろう。


 この岡部神社の近くに「岡部六弥太忠澄の墓」と言われる墓所がある。墓は、普済寺地区の一角にあり、残りの良い五輪塔が3基並んでいる。このうち最も大きいものが六弥太のものとされている。六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれるという伝承があり、このため五輪塔が一部削られ変形している。岡部六弥太墓は埼玉県指定史跡に指定されている。

岡部六弥太忠澄之墓
 
地図リンク
 
岡部六弥太忠澄の墓は岡部神社から北西方向、国道17号線を岡部駅交差点手前で右折すると左側に見えてくる。岡部六弥太忠澄は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将で御家人。先祖は武蔵七党の一つである猪俣党の庶流で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地 に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになった。忠澄は、忠綱から数え三代目にあたり、保元の乱で源義 朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また治 承・寿永の乱の際には、源頼朝・源義経にも仕え源氏方につき出兵して、特に一の谷の戦いで、平家方の名将として名高い平忠度を打ち取る軍功を上げた。この場面は「平家物語」にも登場している

 
岡部六弥太忠澄の墓
 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。
 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
 平成三年三月
                                                      案内板より引用

  

 忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。


岡廼宮神社
 
地図リンク
 埼玉県道259号線と国道17号線が交差する岡部駅入口交差点から17号線を西へ向かって行くとその内に岡廼宮神社が見えて来る。雨覆屋根の付いた鳥居に鳥居に掛けられた額には「聖天宮」の文字が刻まれている 。岡部神社と同じ系統の神社だろうか。
 
岡廼宮神社

沿革 大正十(1920)年、諏訪神社、久呂多神社、稲荷神社を合祀し、岡上神社を岡廼宮神社と改称した。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命という。江戸時代の初め、村の鎮守であった聖天社は建物の腐朽甚だしかったが、池田三郎左衛門貞長という武士により改築された。貞長は、高崎城主安藤右京進にお預けの身となった徳川忠長(徳川家光の弟)の側近であったが、何者かの讒言にあい側近役の地位を追われ、岡村に蟄居していた。忠長は、自害する前に、讒言に惑わされ貞長を追放したことを後悔し、「自分の死後、菩提を弔うように」との遺命を貞長に下した。この遺命により、貞長は岡村に全昌寺を建立し、また当社も改築した。落成すると貞長は、神前において主君の後を追い切腹した。
 また当社では、獅子舞いが行われており、町指定文化財になっている。獅子舞いの構成は、法眼、女獅子、男獅子の三人と、花笠、笛方、歌方等からなり、舞手は、袴にワラ草履、腰に小太鼓をつけて打ちながら舞う。江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

                                                                                                                     
岡上屋台囃子
 深谷市無形民俗文化財
 平成17年10月1日 指定
由来
 旧岡村に古来より伝承されている屋台囃子、時代を遡ること十八世紀末、天明・寛政年間と伝えられている。昔は、毎年のように日照と悪疫に悩まされた里人たちが、雨乞いと病疫消除を祈願するため時の領主や役人に嘆願し、中山道岡村の入り口にある丘陵地に八坂神社を勧請し、祠を建立し、お囃子を奉納したことに始まったと伝えられている。
 囃子の構成は、大太鼓1・小太鼓3・摺鉦3~4・笛3~4・外につづみ2・三味線1(囃子の曲目により演奏する)。次に囃子の技名は、ぶっつけ・切返し・転がし・ぶっきり等。次に笛の曲目は1.旧ばやし・2.新ばやし・3.靜門・4.通りばやし・5.夜神楽・6.ひょっとこ囃子の曲目がある。特に、岡上・岡下には屋台があり祭りを行っていた。
 また、岡上は、熊谷市の本町三丁目・四丁目に頼まれて、教えに行ったりしていた。
 現在もなお、八坂神社の夏祭りに演奏し、昔ながらのお囃子を継承しながら、屋台を中心とした保存会が発足されており、伝統文化を後世に伝えるために努力している。
 これは、江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

  
                    一の鳥居より撮影                                                            殿
 
                                              殿
 
岡廼宮神社決して大きな社ではないが、拝殿には色塗りされた通称岡の聖天さまの龍が彫刻されていた。制作年は新しいようで、小ぶりだが気品がある。龍は聖天信仰の一つの信仰形態と言われているし、その流れだろうか。また本殿も壁には美しい彫刻があり、暫しの時間見入っていた。この社には全体的に品を感じた。

 
          正一位稲荷大明神            三郎左衛門稲荷神社と秋葉神社                   石    祠

 




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天王山塚古墳

 神明神社の長い参道の延長線上の南側の先に天王山塚古墳が存在する。
 この天王塚は主軸をほぼ東西を示している。そして神明神社は、この天王塚に対して直角に参道が伸びている。神明神社と天王山塚との因果関係はどのようなものだったのだろうか。神明神社の創建は景行天皇の時と言う。創建年代の議論の余地はあるとして、お互い目と鼻の先にある社と古墳である。関連性がないというのがむしろおかしいのではないか。

所在地
    埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3284-1
埋葬者    不明
築造年代    7世紀前半(推定年代)
区分      埼玉県指定史跡
   
                

  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、元荒川左岸の北足立台地の笠原支台(標高14m)に立地し、「栢間七塚」と称され、現在7基で構成されている栢間古墳群の主墳である。(昭和55年度の文献で、現在は9基が確認されている) 全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。埼玉県下でも6番目の大きさである。 
 墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものであるという。


             前方部の入口付近には「埼玉県指定史跡天王塚」の石柱と天王山塚の案内板がある。

天王山塚
  天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。
墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。
主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。
栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
昭和58年3月菖蒲町教育委員
                                                   現地説明板より引用
               

                           
                           前方部から後円部を撮影
                          
       後円部墳頂の様子。かなり広く、薬師寺の社殿も通常サイズですっぽりと収まる広さだ。

 栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
 古墳周辺では埴輪や須恵器が出土したが、本格的な発掘調査はまだ行われていない。また一説によれば、武蔵国造・笠原直使主の墓なのではないかとも言われているそうである。この辺りは古代「笠原郷」と呼ばれ、隣の鴻巣には笠原の地名も存していることから、その可能性は否定できないところだ。


 
神明神社、天王山塚古墳を散策終了しすぐ帰宅し、早速カメラのデータをパソコンに入力し、住所からYahoo地図で確認したところ、一つ気になることを発見した。神明神社の参道、一の鳥居を基点として、そこから玉敷神社までほぼ一直線(正確には若干の誤差はあるが)であること。また玉敷神社を基点としてそこから鷲宮神社前玉神社(ならびに埼玉古墳群)、神明神社の参道の始点までほぼ同じ距離なのであるさらに付け加えると前玉神社一玉敷神社一鷲宮神社がほぼ一直線である。単なる偶然だと思うがどう思われるだろうか。
  



 

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阿和須神社

 埼玉県比企郡滑川町には淡州神社、大雷淡州神社等、「あわす」という変わった名称の社が多数存在する。嵐山町太郎丸、滑川町水房、滑川町伊古などに社は鎮座し、総本社の伊古速御玉比売神社は延喜式内社であり、江戸時代には淡洲明神とも称されていた。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。
 淡洲神社の祭神は速御玉比売命が多いのに対して滑川町水房の社は阿和須神社と表記しているが、大和国添上郡の阿波の神社を勧請したもので祭神は息長足比売命である。

所在地 埼玉県比企郡滑川町水房238-1
御祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
社  挌 旧指定村社
例  祭 春祭 4月15日 例祭 10月13日 秋祭 12月18日
        
 阿和須神社は埼玉県道47号深谷東松山線で森林公園方向に進み、滑川町役場北交差点を右折する。県道173号ときがわ熊谷線に移り、道なりに真っ直ぐ約5分くらい進むと、右側に水房集会所が見えるのでそこのT字路を右折ししばらく進むと関越自動車道のトンネルが見えるのでそこを潜るとすぐ左側に阿和須神社が鎮座している。
 駐車スペースは神社の西側に社叢があり、数台停めることは可能。だが駐車場は一の鳥居の逆方向にあるため、一端徒歩にて遠回りして鳥居方向に向かわなければならない。当日(平成25年8月15日)は大変暑い一日で、昼間の参拝は少々堪える。

 不思議と車道の先に社号標と一の鳥居がある。         一の鳥居、先に車道が見える。

 由緒の案内板が二の鳥居の手前、右側にある。          両部鳥居形式の二の鳥居

 阿和須神社 
 滑川町大字水房
 祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
 由緒
 当社の本宮は大和国添上郡にある阿波の神社である 垂仁天皇の曾孫三枝の別連の末裔が此の郷を開き後柏江郷の戸主直道継の末裔によって永仁年中(西暦1290年中)字御山の台に三柱の神霊を祀ったと伝えられる 寛永元年に至り祐海法師により現地に遷座し その後寛延2年11月金雄法師および氏子一同にて社殿を再建した 明治6年村社となり大正5年指定村社に昇格した
 祭事 新年祭1月3日 春祭4月15日 例祭10月13日 秋祭12月18日
 平成17年5月吉日  滑川町観光協会  滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用
            
                            開放感のある拝殿
            
            
                                 本 殿
 
 こちらの御祭神は大鞆和気命(応神天皇)、気長足日売命(神功皇后)、武内宿弥命の三柱で伊古乃速御玉比売神社と同じだが、洲と阿和須で「あわす」と読み方が同じでも、こちらは大和国添上郡の阿波の神社を勧請したものなので、速御玉姫命とは関係無いようだ。

            境内社 八坂神社                  八坂神社の隣にある境内社 稲荷神社
          
                ゆったりとした静かな時間が流れる。大切にしたいものだ。

        
                                                                

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吉見神社

 熊谷市相上(あいあげ)地区は荒川の南に位置し、国道407号線上に隣接している冑山神社に近く、行政区域としては熊谷市だが吉見町との文化的、経済的にも繋がりが濃い。この相上地区には吉見神社が鎮座している。この吉見神社は延喜式内社 横見神社の論社、比定社に紹介している書物も多い。
 この相上地区は地形上、東西に和田吉野川が流れ、北側の無谷、高本地区との境界線を形成している。この和田吉野川(一級河川)は嵐山町の溜め池を水源とする、用排兼用の河川で、比企丘陵の谷地を江南町、滑川町、熊谷市と西から東へと流れてくる。吉見神社の北側に和田吉野川右岸の洪水を防ぐために江戸時代初期に造られた相上堤の堤防は長さ千百三十間(約2034m)”とあり、荒川の合流地点までの和田吉野川の右岸側を防御するための堤防であったようだ。

 なお、相上堤の南側延長線上には縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。古の吉見の地は、現在の比企郡吉見町ではなく、この吉見の地だった可能性も捨てきれないような気がしてならない。

所在地     熊谷市相上1639-1

主祭神     天照大神?
社  挌     旧郷社
例  祭     4月17日


地図リンク
 吉見神社はとうかん山古墳から埼玉県道257号冑山熊谷線を道なりに北上し、和田吉野川の上に架けられた漆喰橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見え、そこを左折すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
 
              県道沿いにある一の鳥居
 
一の鳥居を真っ直ぐ進み突き当り右側にある二の鳥居        参道の先に社殿がある

               神楽殿

 『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だったというくらいで、境内摂社・末社が非常に多い。
 
                       参道左側の末社群                                    末社群の先にまたある末社
左から天神宮、金毘羅大神社、頭大宮、辯才天女宮等  三島・興玉・秩父・瀧祭・玉造・斎・浅間・日枝
                                                                               雨降加々美・二荒・水分養蚕・豊受荒魂など

     
摂社 から伊奈利神社・東宮社・天神社            拝殿の右奥の方にも末社がずらりと並んでいる            
                                             詳細は不明         
 
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。

村指定無形民俗文化財 相上神楽
 指定  昭和五十四年五月十四日
 所在地 大里村大字相上
 期日  七月十五日、吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
                                                      掲示板より引用



           吉見神社拝殿(上段)及び本殿(下段)

 吉見神社は古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったようだ。敷地内には安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などが祀られている。水防祈願と思われる水に関する神様である。なお、社殿の北側には沼があるが、そこには藤原長盛の大蛇退治の伝説がある。
 新編武蔵風土記稿には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものだろうか。

 『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。

 和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。

 
また『大里郡神社誌』にもこのように記されていている。

 
大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と

 
とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。

 この「須永」、「須長」氏について「埼玉苗字辞典」ではこのように記述されているので紹介する。

須永 スナガ
 須中、須長、砂永、砂賀に同じ。須は金(す)、那は国、加・賀は曷(か)で村の意味。中・永は奈良・那羅と同じで、鉄(くろがね)の産出する国、村を須永と称す。此氏は毛野氏に率いられて渡来し、渡良瀬川及び利根川流域の上野国、下野国、武蔵国に土着し、三ヶ国以外には無し。毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)は、韓半島南部にあった加耶諸国の呉国より毛野族須永氏を率いて上野国山田郡川内村(大間々町川内、桐生市川内)に土着し、其の地を別称須永郷と唱え、後世は須永御厨と云う。桐生市川内に氏寺の崇神寺あり。足尾銅山に従事した鉱山師集団である。武蔵国では荒川、都幾川の砂鉄の採れる流域にも存す。

須長 スナガ 大里郡相上村(大里町) 大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と。寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。(中略)風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう。明治九年副戸長須長宣冬・天保十二年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に松山町須長宣冬。昭和三年興信録・所得税に「吉見村・須長常章・百一円、須長富夫・十円」あり。五戸現存す。

 
相上の須長氏について日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろうとの記述が上記で記しているが、この中にある「高魂命」とは高皇産霊神(タカムスビ)のことで、熊谷市の高城神社の祭神でもある。また本来日奉連とは宮廷の太陽神祭祀に奉仕するための部であろうということは、諸説が認めているところであるが、その日奉連の祖先が高皇産霊神であるという事には正直驚いた。もしかしたら太陽神祭祀とは天照大神がその対象ではなく、日奉連の直系の先祖である高皇産霊神ではなかったか、という事になるのではなかろうか。それと同時に高皇産霊神と御諸別王にも何かしらの接点があるのだろうか。

 なんとなく取り留めのない書き出しになってしまったが、御諸別王と吉見神社の須長氏、また高城神社の高皇産霊神には何かしらの関連性はあることだけは確かなようだ。


                                                                                                                      

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