古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉敷神社

 玉敷神社が鎮座する旧騎西町は埼玉県北東部、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、古くは私市(きさいち)と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋(ねごや)に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようだ。

 社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。

 かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。

所在地    埼玉県加須市騎西552
主祭神    大己貴命
社  格     式内社(小) 県社 埼玉郡総鎮守騎西領総氏神
創  建     伝大宝3年(703年) 一説に成務天皇6年(136年)

別  名    久伊豆大明神
例  祭    12月1日 
            
  
 玉敷神社が鎮座する旧騎西町は埼玉県北東部、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、古くは私市(きさいち)と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋(ねごや)に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようだ。
 
   一の鳥居の右側にある玉敷神社社号標          一の鳥居から長い参道が続く
              
                二の鳥居を過ぎて三の鳥居の先に拝殿がある。

  社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。
  玉敷神社は加須市騎西庁舎の北西、国道122号線を入ってすぐ左側にこんもりとした森があり、そこの一角に鎮座している。駐車場は隣接してある玉敷公園内にありそこに駐車する。(数十台駐車可能)。
 かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。


        
          玉敷神社の境内に向かう途中に「旧河野邸」がある。
  文学博士である河野省三氏は国学者で神道学者でもあり、國學院大学総長を務めた。明治15年に騎西町で生まれ、國學院師範部を卒業後に玉敷神社の宮司とな り、その後、国学や神道を研究し権威として活躍され、昭和27年に71歳で埼玉県神社庁長となり、昭和36年には国学・神道学者として紫綬襃章を受章し た。昭和38年に死去。
 生家が玉敷神社であったことから、この地が旧宅の跡地であったようだ。

また拝殿の手前左側には神楽殿が存在する。
 
 国指定重要無形民俗文化財 玉敷神社神楽
 江戸神楽の源流をなすといわれる玉敷神社神楽。素朴な中にも、雅な舞を伝える。鷲宮神社の鷲宮催馬楽神楽から江戸の里神楽に発展する途中の姿を残す貴重なもので、埼玉県の無形民俗文化財である。
 この神楽の発生は定かでないが、正保(1644~48)の元号を記した面や、享保4年(1719)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能地区に鎮座しており、その氏子が連綿と神楽師をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡るものであろう。
 演目は番外を含め17座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成される。楽は笛・太鼓・羯鼓をもちいる。
                                                                                                                                                                            加須市教育委員会(現地案内板説明文より
      


                 
                  
  
さすが久伊豆神社総本山的なずっしりと存在感のある社。煌びやかな神社とはまた違い、出雲大社の社殿のような、木目を基調とした独特な色合いといい、歴史の重さを感じさせてくれる風格さえ漂わせている。
玉敷神社
鎮座地 埼玉県北埼玉郡騎西町(きさいまち)大字騎西552番地
ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
    またのお名を『大国主命』(おおくにぬしのみこと)
    お名前の音がインドの招福の神、「大黒天」とも通じることから「だいこくさま」とも呼ばれ、「七副神」の神として親しまれている ・詩歌、医道、豊作、商売繁盛の神さまとして深く信仰されている
ご神徳
 厄除開運・縁結び・安産
 創建 大宝3年(703) 第42代・文武天皇の治世(一説には第13代・成務天皇6年 136年とも言う)
社殿
 本殿・幣殿(社殿奥側)文化13年(1816)建築
 拝殿(社殿手前)明治31年(1898)修築
 *「神楽殿」は天保7年(1836)の建築
外周を飾る彫り物は、当時、江戸三名工の一人と言われた五代目後藤茂右衛門の手によるものである
由緒
 当社は平安時代初期の延長5年(927)に公布された法制の書である『延喜式』にその名を記す(*「式内社」)由緒ある古社である。
 *全国に2861社ある「式内社」(しきないしゃ)の内の1社以来、人々の広い尊崇を集めてきたが、天正2年(1574)の戦国期、越後の上杉謙信が関東に出兵した際に放った火がもとで社殿(当時は、現在地より北方数百メートルの正能村一現騎西町正能一に鎮座)や古記録・宝物などことごとく炎上・焼失した。
江戸時代に入り、根古屋村(現騎西町根古屋)にあった騎西城(廃城)の大手門前に一時再建されたが、程なくして(1620頃)現在の地に移転され、今日に至っている。
当社は、江戸時代「玉敷神社・久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヶ村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれてきた。このことから、各地に「久伊豆社」(ひさいずしや)と称するご分霊社が数多く建立されることともなった。久伊豆社のご本社的な存在である
当社のこ神宝を貸し出す「お獅子さま」やご神水の信仰も有名である。
主な祭礼 1/1歳且祭・2/1初春祭・2月節分年越祭
5/5春季大祭・7/15夏季大祭・12/1例祭
・2/1,5/5,7/15,12/1の年4回、祭典終了後(午後)『玉敷神社神楽』(埼玉県指定無形民俗文化財)を奉奏

                                                            社頭掲示板より引用
 ところで天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失した。その後、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建された(現在前玉神社が鎮座)が、寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社(式内社)であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。
                              

                              宮目神社(式内社)  祭神:大宮能売命(おおみやのめのかみ)
  玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社であった。式内社・宮目神社の論社で、現在は玉敷神社の境内社となっている。平成13年4月に林立していた白樫が倒壞し社殿に直撃。社殿が大破したために同年6月に社殿竣工。

大宮能売命

 
『古語拾遺』によると、太玉命の御子神で、本来は神祇官の御坐祭神八座の一つで、大殿祭祝詞に「御膳に邪気なく、延臣に過ならしめる神」とあり、君臣の間を和らげる神、神と人との間を執り持つ神とされている。大宮能売命は物事が無事に運ぶよう、うまく調整する力を持ち、その立ち振る舞いが優美で愛嬌があるとされる神で、そうした性格から、旅館の神、市場や百貨店の神として、接客業界の人々を中心に信仰を集めている。

 大宮能売命の父神である太玉命は、出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊神(たかみむすび)の子と記されていて、忌部氏の遠祖の一柱と言われている。この太玉命に率いられた神々は、各地の忌部の祖となっている。

 
 
天日鷺命    阿波忌部の祖
 手置帆負命   讃岐忌部の祖
 彦狭知命    紀伊忌部の祖
 天目一箇    筑紫・伊勢忌部の祖

 神武天皇の御代、この神の神裔である天富命(あめのとみのみこと)が、阿波国の忌部を率いて東国(安房)を開拓している。
  つまり、比企郡淡州神社にも触れたが、この埼玉郡にも阿波の一族に関係する社が多数存在するということだ。

また拝殿を取り囲むように境内社が数社存在する。以下の通り
 
八坂社松尾社厳島社、白山神社、稲荷神社、琴平神社、神馬社
            


                    玉敷神社の大銀杏
 玉敷神社の境内には、2本大イチョウがあり、いずれも幹まわり約5mを越え、樹齢は約500年、樹高は約30メートルといわれる。今でも樹勢はさかんで、秋の加須市から有形民俗文化財(天然記念物)として指定されている。
また例年5月には玉敷神社公園内で藤まつりが盛大に行われる。

 
 藤棚の前の時計台(上段)、また観る人を圧倒するほどの立派な大藤(下段)で、天然記念物に指定されている。樹齢400年の大藤。幹回り4.8m、枝振り700平方メートル、花房は1mに達し、薄紫の花が薫風に揺れる様は、まさに壮観である。

 
                明神様の御神湯

 当社の境内には井戸があり、その水は霊験あらたかで薬水お助け水と呼ばれていた。ある時、20年間の長きにわたって病床にいた明神の氏子が祈祷したところ、明神の水を温めて入浴するようとのお告げがあった。そこで神水を風呂に入れて繰り返し入浴したところ一ヵ月あまりで全快した。彼は風呂屋を始め、神湯として人々に勧めたという。
 
以後、昭和40年代にいたるまで明神の水でお風呂をたてるとどんな難病でも治るといわれ、特に皮膚病・傷に効果があった。入浴に際しては、風呂の縁に腰掛けないこと、風呂場に唾をはかないこと、歌を歌わないこと等の決まりがあった。
 
また、入浴料は任意の賽銭とされ、その賽銭が風呂の維持費に当てられた。往時は入浴をした後に、神水を一升瓶に入れて持ち帰る人も多かったが、今では風呂は無くなったが、境内には神水の井戸が残されており、現在でも「貰い水」に訪れる信者は多い。



 


 


 

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出雲伊波比神社

  出雲伊波比神社が鎮座する毛呂山町は、律令時代入間郡と言われた。入間郡は武蔵国のほぼ中央部、入間川の支流、越辺(おっぺ)川と多摩丘陵に挟まれた地域で、四囲を足立・新座・多摩・秩父・高麗・比企の各郡に接している。おおむね現入間郡に属する町村(名栗村を除く)、川越市、坂戸市、鶴ヶ島市、狭山市、入間市、所沢市、富士見市、上福岡市の地域で、『和名抄』は「伊留末」と訓じている。
 7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている。
  但し、所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。

  例祭(11月3日)には、町内の家の長男(小・中学生)が乗り子を務める流鏑馬神事があり、一の馬・二の馬・三の馬に別れ、白(源氏)・紫(藤原氏)・赤(平氏)に色分けし奉納される。因にこの流鏑馬が埼玉で見られるのは当社だけとなっている

                  

 雲伊波比神社はJR八高線毛呂駅から徒歩で5分、毛呂山町のほぼ中央に位置し、毛呂小学校北接、臥龍山の頂に鎮座する。毛呂山町の中央に位置していることでもわかる通り、神社を中心に町が形成された、と言っても過言ではない。
 この社の歴史は古い。社格は郷社ながら延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭を誇り、本殿は享禄元年(1528)9月25日毛呂三河守顕繁が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財建造物・旧国宝である。
                 ・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目 171
                 ・ご祭神 大名牟遅神 天穂日神 品陀和気命(応神天皇)
                        息長帯比売命 他16
                 ・社 格 旧郷社 延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭
                 ・例祭等 例祭 113日(流鏑馬神事) 
            
                         雲伊波比神社 正面一の鳥居         
 
          一の鳥居を過ぎた参道での一風景
                                 参道右側にある神楽殿
               
                                二の鳥居
            
                                                                拝  殿
                 社殿は昭和三十八年・五十八年に修復・改築されたもの
 
        拝殿上部に掲げてある扁額            向拝部位等には精巧な彫刻が施されている。
 
           
国賓出雲伊波比神社 本殿 社号標                 拝殿横にある案内板
  出雲伊波比神社
  祭神 大名牟遅神・天穂日命・品陀和気銘・(応神天皇)・息長帯比売命 他

  出雲を中心として国土経営・農業・産業・文化を興され全ての災を取り除かれた大名牟遅神、天孫のため出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに□支された大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られたのちそのみたまを斎き祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌の神としてあがめられる。
  社地 古く出雲臣が祭祀する社であった。景行天皇53年に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命に命じて社殿創建・神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ現に東北を向いて鎮まり坐す。
  神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀3年の太政官符においてで当社は□□によってその証拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝7年には官幣に預る□□社となり延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社よよばれるゆえんがここにある。
  本殿建築
  流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永8年9月25日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年の棟札2面とともに国指定重要文化財。
  昭和32~33年文部省は解体修理を行った。
  例祭 11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。920年の歴史を持つ。
  昭和61年8月
                                                                                                                       案内板より引用

 本殿は流造一間社という所謂ポピュラーな建築様式で、こじんまりとしているが、享禄元年(1528)9月25日再建という埼玉県最古の神社建築で、国の重要文化財に指定されている。一般的には神社の形式では権現造りなど新しい様式ほど拝殿と本殿が幣殿を通じて繋がっているものが多い。がこの社は古い様式で拝殿と本殿には距離がある。それはそれで違和感が全くなかった。
                       
                                         本 殿 
                       
                         品陀和気命が祀られる八幡宮
                  瑞垣内にはないが、形式上本殿と並列配置となっている。
            
  この八幡宮は、康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる。

  出雲伊波比神社由緒
  創立
 景行天皇53年8月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立された社である。
  歴朝御崇敬
 成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天平勝宝7年(755)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀3年(772)には勅により幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜7(907)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。
  武士崇敬
  康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応3年まで幕府に献上したのである。建久年間(1190頃)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える。
  後花園天皇の代永享年中(1430頃)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大永7年(1527)6月社殿炎上、また文禄年中(1590頃)社家が兵火にあい古文書などを失ったのである]大永7年に消失はしたものの翌8年、正しくは享禄元年9月25日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建にすぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。天文2年(1533)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正2年(1574)北条氏政は大板葺(柿葺-こけらぶき)に修営、社領十石を附せられた。天正16年北条氏の乞により、鍾を寄進した(文書北条氏鍾証文)。寛永年間、幕府に神符献上の際白銀二枚を寄進せられ、以後七ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永10年(1633)三代将軍家光修営、同13年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(1648)8月社領十石並に境内拾町九反五ほ畝歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永年中、代官高室喜三郎の時から元禄15年(1702)代官井上甚五右衛門、河野安兵衛にいたるまで毎年御供米一俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地頭所から明治2年まで毎年御供米を附せられた。文政8年9月「臥龍山宮伝記」の著者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。
  明治以後
  明治4年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治6年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって郷社に列し、明治22年8月20日内務省より保存資金壱百円を下賜され、同38年5月18日上地林壱町九反八畝二十四歩境内編入許可、39年4月勅令により神饌幣帛料供進することを指定され、同41年9月会計法適用指定、大正3年9月建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正5年10月模様換工事落成、千家男爵参向された。昭和13年7月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重要文化財建造物として指定され、昭和25年9月5日5日境内地譲与、測量、調査等に一年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、9185坪04勺を譲与許可された。
 (以下は由緒書に記載)
  本殿昭和重修
  当社は国史上顕著な社であり、県内最古の社であるが、腐朽甚しいので昭和32年3月国庫補助金、地元負担金総額290万円の工費をもって工事監督工博田辺泰氏、現場主任北村泰造技官を中心として解体復元工事着工、屋根、鬼板、箱棟、正面扉金具、縁廻り登階段等その痕跡に基き他の室町期の形式手法にならい復元を行なった。解体調査資料に基き現状変更したため総工費358万円を要し、昭和33年3月、一ヵ年の工期をもって完工、貴重な文化遺産として偉彩を放つこととなった。昭和58年拝殴改築。
平成4年8月
                                                                                           
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
  また埼玉県内で唯一、毎年奉納される流鏑馬は埼玉県指定無形民俗文化財。900余年の伝統を絶やさず行なっていることにも頭が下がる。県内で流鏑馬を行なっている社は当社と萩日吉神社(都幾川村)のみか。萩日吉神社は三年に一度の奉納であり、県内では唯一の通年奉納の流鏑馬である。

 
                 流鏑馬の案内板                         社殿の西側にある流鏑馬の道 
毛呂の流鏑馬
  出雲伊波比神社の流鏑馬(やぶさめ)の神事は、毎年11月3日・文化の日に行われている。その起源は康平6年(1063)に奥州平定をした源頼義、義家父子が凱旋の際に奉納した事によるといわれ、以前、埼玉県内各地で行われていた流鏑馬も、毎年行われているのは毛呂山町だけとなっている。毛呂山町の流鏑馬では一の馬・二の馬・三の馬によって奉納され、それぞれ色分けされ、白は源氏を、紫は藤原氏を、そして赤は平氏をあらわしているという。
 神事までは10月上旬から準備され、当日は午前0時のもちつきから始まり、朝的(あさまとう)、野陣、夕的(ゆうまとう)と続く。夕的の神事では願的、矢的、扇子、のろし、みかん、鞭などがあり、これは戦国時代の武士の鍛錬・出陣から凱旋までを表現しているといわれ、乗り子は町内の家の長男(小・中学生)が務めている。乗り子の服装は陣笠、陣羽織、袴で騎射の際に烏帽子をかぶり、そして花笠に馬印や母衣を背負い、帯刀した正装は夕的の出陣の時に見ることが出来る。
  毛呂山町の流鏑馬神事は昭和33年に県の選択選択無形民族文化財に指定されている。
                                          
  全国的な知名度は決してないけれども、このような郷土に根づく伝統を守るという地元の方々の厚い思いと日頃の努力には敬意を感じずにいられない。
 決して流鏑馬の維持する環境は良いものではないと思う。有名な神社で催される流鏑馬とは違い、地方の神社は地元、氏子がどうしても中心となる。それでも920年という長きにわたって面々と続く伝統を保持、そして子孫に継承させる地元の方々の思いが根底にあるのではないか、と深く感じた。


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上之村神社

在地    埼玉県熊谷市上之16
主祭神    上之村神社・大己貴命 事代主命

             
摂社 雷電神社・火大雷大神 大雷大神 別雷大神
社  格     旧郷社 
    
由  緒    當社創立ノ年度詳カナラズ應永年中忍ノ城主成田左京亮家時神威ヲ
                   
崇メ社殿ヲ再建シ爾来奕葉崇敬シテ神田若干ヲ附ス其後天正十八年
               
成田家忍退城ノ翌年東照公巡狩トシテ通路アリ社木森々トシテ生茂
        
     リ煩ル幽境ノ景況ヲ覧セラレテ時ノ侯人伊奈備前守ヲシテ神社ノ来
        
     由ヲ諮問セラル従テ翌慶長九年ニ及ンテ社領三十石境内数町諸役免
        
     許神供祭禮修造等不可懈怠ノ?朱印ヲ寄附セラレタリ明治六年郷村
        
     社々格選定ノ際當社ヲ以テ旧第十五区拾九ケ村ノ郷社ニ列セラル明
        
     治四十年四月二日神饌幣帛料供進指定神社トス
例  祭     七月廿何、廿八日両日 例大祭

        
地図リンク
 国道17号線の上之(雷電神社)交差点から入ったところに鎮座する。駐車場は神社の境内手前右側にある。ただし17号線からは摂社である「大雷神社」と大きく書かれて、その下に上之村神社と申し訳なさそうに案内板に明記されている。ネームバリューの関係からだろうか。ところで、上之村神社の読みは「うえのむら」と全国神社名鑑などにあるが、氏子の方に聞くと「かみのむら」だそうだ。

  上之村神社の社叢の前には「社前の堤」と言われる堤が存在する。

 
                       「社前の堤」案内板とその遠景
社殿の堤(堤の由来)

 応永年中(1394-1428)成田郷の領主成田家時が従者と館の東にある森の小祠の前を芦毛の馬に乗って通った時、何に驚いたか馬がハネ上り家時は落馬 してしまった。何んの神様の祟りかと、附近の老人に聞いてみると、この社は久伊豆神社と雷電権現で、この神様は芦毛の馬に乗ることから、神前を芦毛の馬に 乗って通る者は必ず神罰を蒙る伝えがあり、そのためだったという。
 家時はこの神威に驚き乗馬の芦毛を神馬として奉納以来当社を崇敬し直接神前を通るのは勿体ないとこの堤を築かせたという。

 
社前の堤を過ぎると、江戸時代の両部鳥居が見える
            
                        熊谷市指定文化財建造物 上之村神社鳥居
                                  指定年月日  平成九年十一月三日
                                  所 在 地   熊谷市大字上之十九番地
 この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
 平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(1664)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
 建造以来すでに三三○年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です。
            
                           参道 思った以上に長い。古の神社の風情を感じる。
           
                        
                          上之村神社、大雷神社 拝殿

           
 
          上之村神社 本殿                      雷電神社 本殿
上之村神社本殿と雷電神社の周囲は瑞垣に囲われており、正面には立派な門が取り付けられている。 


上之村神社本殿・
雷電神社本殿

 上之村神社は、古くは久伊豆神社と称し、室町時代、城主成田氏の崇敬が厚く、応永年間(1394~1418)に成田家時が社殿を再建したと伝えられています。
 江戸時代に入り、慶長九年(1604)に徳川家康から三十石の朱印地を与えられ、明治二年(1869)には村名をとって上之村神社と改称しています。
 本殿の構造は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は銅板葺(もと茅葺)です。軒回りの蟇股(かえるまた)・手挟(てばさき)などに十二支の彫刻が彫られていて、木割は雄大です。
 雷電神社は上之村神社の摂社で、本殿の構造は蟇股の彫刻など一部を除き、上之村神社とほとんど同じです。木割は上之村神社に比べて繊細で、規模もやや小さなつくりです。
 社務所に保存されている旧本殿の扉には、「(観音)奉修造雷電宮御宝前戸扉大壇那藤原朝臣長泰 武州崎西郡忍保宮山之内※年戊午五月吉日願主※」という 銘文が記されています。戊午の年は永禄元年(1558)と推定され、この年に忍城主成田長泰が、雷電神社の内陣の扉を修理し寄進したことが考えられます。
 指定名称は歴史的な背景から考えて雷電神社となっていますが、現在は、大雷神社と称されています。
 両本殿の建築年代については、上之村神社本殿は、江戸時代初期と推定され、雷電神社本殿は彫刻類の絵の様式から、それよりやや古いと推定されています。
 両本殿とも建築当初の姿をよく残し、桃山末期から江戸初期の建築様式を伝える貴重な建造物です。
 平成九年三月
   埼玉県教育委員会
   熊谷市教育委員会

 
        諏訪社                合祀社                 合祀殿
 上之村神社拝殿の周りには多数の境内社がある。写真中央の合祀社は拝殿奥右側にあるが祭神は不明で、右写真の合祀殿の祭神は夷神社と荒神社、事任神社、天神社、住吉神社が祀られている。

          
また一の鳥居の手前左側には富士塚がある。塚の頂には富士嶽神社鎮座し、他に醫薬大神や道了山、高尾山、小御嶽神社、猿田彦大神、食行霊神・角行霊神などの名が見える。

 境内は広く開放感がある。また時間がゆっくりしていて居心地がとても良い。熊谷の地で、このような社があったとは正直驚いた。
 また神社の説明書きや由緒等の案内板も多数あり、よく理解できた。神社の近くには遊具等の遊び場もあり、数名の親子連れやお孫さんと一緒に遊んでいるお年寄りもいて微笑ましく思った。
 境内は整理が行き届いていて、参内中不愉快なゴミ等全くなかった。寺院風の煌びやかな神社ではないが、その神社の持つ素朴さや質実さは俗に言う「いい味が出ている神社」なのではないかと参内時間中感じた。ともかく不思議と神社全体の雰囲気が良いのだ。

 上記で紹介したが、「上」は大和言葉で「ウエ、カミ、カサ」と言われていた。この「カサ」は笠族の笠原氏と深い関係が有り、この名称から上之地区は笠原氏の居住地区ではなかったかと推察されるが事の真相はいかがなものだろうか。また和名抄武蔵国賀美郡は「上」郡とも呼ばれていた。都に近い理由から付けられた名称らしいがそれだけだろうか。またこの上之となにか関連性があるのだろうか。


 

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高城神社

 武蔵国大里郡は武蔵国の北部に位置し、四囲は埼玉・足立・横見・比企・男衾・榛沢・幡羅の各郡と接している。おおむね現熊谷市熊谷、久下、石原、大麻生、佐谷田地区から旧大里郡大里村あたりの地域で、『和名抄』は「於保佐止」と訓じている。箕輪古墳群として6世紀の前方後円墳である「とうかん山古墳」(全長74m)があるが、発掘調査はされていない。このほか、延喜式内社である高城神社から「夭邪志(むさし)国」と記された青銅の鈴が出土している。
 郡衙は、熊谷市久下(くげ、郡家の転訛)付近とみられているが確証はない。ちなみに対岸の下田町遺跡から古墳・奈良・平安時代にかけての遺構・遺物が発見されている。
 平安時代には武蔵七党の私市(きさい)氏が住み、久下氏や熊谷氏(平家物語に登場する熊谷直実など)の祖となった。

所在地    
埼玉県熊谷市宮町2-93 
主祭神    高皇産霊尊
社  格    旧県社  武蔵国延喜式内社  大里郡総鎮守
由  緒    延享2年(1430)造営  
          寛文11年(1671)10月造営
         天明元年(1781)神樂殿・鳥居の修覆
         明治7年2月村社
         同40年10月神饌幣帛料供進神社指定
         大正5年4月19日県社
         同5月1日幣帛供進神社指定
例  祭    10月2日 例大祭

      
 
 高城神社は熊谷市役所から国道17号線へ続く道路の西に位置し、熊谷市の中心部に鎮座する。鎮座地である熊谷市一帯は荒川の蛇行によって形成された地域であり、荒川扇状地。古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定される。当社を奉祭した氏族は、武蔵七党の一派である私市党に属していた久下(くげ)氏であったようだ。

         
                      高城神社略記を記した案内板
高城神社略記
 御祭神 - 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
 鎮座地 - 埼玉県熊谷市宮町二丁目
 由  緒 - 平安時代延喜五年(1905)約一〇七〇余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。現在の社殿は、寛文十一年(1671)に忍城主、阿部豊後守忠
         秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
 祭  事 - 元旦一月一日、秋祭十月一二三日、追儺祭二月(節分)、七五三 十一月十五日、春祭四月十日、酉の市十二月八日、大祓六月三十日
 宝  物 - 熊谷絵地図、青銅常夜燈、蹴まり、絵馬、古文書等。
        宮司 福井守久

  
      二の鳥居の隣にある社号標            鳥居を潜ると右側に趣のある手水社がある

 
鳥居を潜りすぐ左側には星宮、熊野神社、天神社       
  拝殿手前左側には合祀7社
                               左から伊奈利大神・香取大神・鹿島大神・大国主大神
                                      ・八幡大神・琴平大神・白山大神
新編武蔵風土記稿による由緒
 延喜式神名帳に、武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして、祭神は高皇産霊尊なりと云。元は社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが、寛文11年新に宮社を造りて、今の地に移し祀ると云。
末社。天神、稲荷。
神楽堂。
 霊水。神木榎の側んる池なり。眼病を患るもの此水にて洗へば、立所に平癒せるとて、目洗水と号す。
 社宝。麾一。軍配二。鏃一、柳葉の形にて、銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る。以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり。
 鉾一、貞享3年阿部志摩守正明、奉納の由を銘す。
 刀一、天文18年戌3月吉日、廣国作と銘あり。寄附人の名を傳へず。
 天国刀、寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり。天国寶刀記と云添状あり。其略に、余太曽祖村山次郎入道清久、当武州八王子の北に居城し、家世店国寶刀を蔵す。清久没し子清武の時、羽生城に依り居こと数年の後、寇兵の為に戦死す。二子あり。長は其名を失ひ、次を清昌と云、城の陥に及て、長男は家譜由緒を収て去て、清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し、其子清春、清春の子清次は、乃余が父なり。余出家して世嗣を絶しを以て、寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり。
 神主福井喜太夫、吉田家の配下なり。
 別当石上寺。社地には住せず、宿の南にあるを以て、別に末に出す。

境内社熊野神社の由来も境内掲示板にて紹介している。

 永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪奈岐命を祭り、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。     また、同年4月20日に熊野神社社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして円照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。(境内掲示より

         
                 御神木のケヤキ 樹齢が八百年以上と言われている

           
                            高城神社 拝殿

 
         
                                                          本   殿 

 高城神社の祭神は
高皇産霊尊であるが、その子供の名前は八意思兼命である。この神は秩父神社の祭神で、その十世の孫にあたる知知夫彦命とともに秩父国造として勢力を保持していた。では秩父神社とその祭神の祖である神を祀る高城神社との関係はどうだったのか、地形から見ても、国道140号で秩父地方から上った最終地点は丁度熊谷地方となる。
                         
                      拝殿に掲げられている高城神社扁額

 想像であるが、このタカギ神=高御産巣日命から大里郡(熊谷・大里地域)の荒川流域は知々夫国造の支配権にあったであろうことも推測できるし、秩父郡・大里郡・比企郡・児玉郡等の荒川上流域地域がその支配地域であると推測することはいささか早計な考えだろうか。
 またこの地域は、古代上毛野君の勢力とも接している区域である。上毛野君との関係はどうであったか。児玉郡と境を接する藤岡には「羊太夫伝説」があり、「羊」の地名は、群馬県藤岡地域を中心として、秩父市にも数多く存在している(羊山公園等多数)。


 
 また熊谷(クマガイ)について不思議な記述がある書物がありここに紹介したい。

熊谷 クマガイ 
 風土記稿大里郡条に「熊谷郷、今の熊谷宿なるべし。東鑑治承六年六月五日の条に文書案を載て熊谷郷とあり」と。日光輪王寺大般若経に「応永三年、武州大里郡熊谷郷報恩寺住僧」と。熊谷宿報恩寺条に「当寺は昔熊谷直実の子直家父の没後菩提の為に起立す」と見ゆ。熊谷宿のことは林条参照。児玉郡下児玉村字熊谷(美里町)あり、十条郷熊谷村と称す。寛政六年白川家門人帳に児玉郡熊谷村と見ゆ。
 熊谷宿は現在クマガヤと称すが、古は熊井(くまがい)、熊江(くまがえ)、隈替(くまがえ)とも称す。古事談に熊ガエノ入道(直実)と。明月記に隈替平三直宗と。承久記に熊替左衛門尉実景と。華頂要略に熊江兵衛尉直家と。太平記に熊井と見ゆ。
 古代の熊谷郷とは、直実館跡附近を西熊谷郷と称し、上之村神社附近を東熊谷郷と称す。東熊谷郷は紀元前よりアラハバキ王の政庁があった所で、平安時代初期には嵯峨天皇第四皇子の宮殿が仮宮としてあったと伝承あり。温故録に「大洲旧記に大野又兵衛筆記を載せて云ふ。大野山城守直昌、先祖は嵯峨天皇第四の宮なりしが、甚だ縦なる故、武蔵国熊谷と申所に流され、暫く彼地に渡らせ給ふ処、益々我儘つのり給ふに依て、当国喜多郡宇津といふ処に再び流され給ふ」と見ゆ。熊、笠、阿部、アラハバキ、河上、成田の各条参照。此氏は阿(くま)族にて、阿部(あべ)氏の本拠地奥州太平洋岸に多く存す


 津軽の熊谷氏 古代熊谷族の後裔なり。東日流外三郡誌に「津軽十三港の安倍氏季の養子十三左衛門尉安倍秀栄(藤原秀衡の弟)の臣、熊谷多次郎盛直、右は十三左衛門尉の直臣也」。「建武元年十月、十三湊武鑑芳名、熊谷甚七郎高成、右は安東一騎当戦の武者にして、祖々代々安東一族の親臣也。右安東総将は有間郡十三郷東日流福島城主安倍五郎康季也」と見ゆ。東日流(つがる)の安倍族なり

 またこのような記述もあり、合わせて記載する。

 古代荒脛(あらはばき)族と称する種族が武蔵国及び奥州に多く居住していた。京都の人々は彼らを蝦夷と蔑称した。足立郡に荒脛社が多くあり、今は氷川社の末社となっている。

 荒脛王阿部氏は熊谷郷に王居を構えていた。阿(くま)族の集落をクマガイと称す。阿族は安部、阿部、熊谷を苗字として奥州太平洋岸に多く居住している。埼玉古墳稲荷山鉄剣銘の被葬者は熊谷郷出身の阿部氏である。熊谷郷は後世の成田村で、此地より荒脛族羊氏の後裔成田氏が発祥する。

 大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と蔑称し、居住地を大胡、多胡と称した。奥州十和田湖附近に荒脛族の成田、奈良、秋元、安保の一族が多く存し、津軽では成田氏が大姓である。

 武蔵は胸刺(むさし)と書き、胸(むな)は空(むな)でカラ(韓)の意味、刺(さし)は城(さし)で非農民の集まる所を云う。鍛工、石工、木工、織工等を業とした韓人の渡来地を胸刺と称し、本国の名を取って大田庄と称した。田は郡県の意味。海洋民石(いそ)族は石川、石田を苗字とす。上州では磯部と称す。(中略)

 

 この文献では熊谷という地域には元々東北のアラハバキ王の政庁があり、阿部氏と称していたと言う。深谷市榛沢地区、緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は東北地方の旧石器時代に出土する環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡があり、加えて幡羅遺跡近郊に鎮座している湯殿神社にも同様の配石遺跡が存在し、東北地方独特の文化がこの熊谷地方にも存在していたのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 また支配領域も東北一円から関東地方に広範囲だったらしい。確かに常陸国は上古代「日高見国」と呼ばれ、蝦夷国の荒覇吐、荒吐、荒脛巾神を信仰していたという。また日本各地には荒覇吐の神を祀る門客人神社が存在することも事実である。


 興味深い話ではあるが、この記述を万人が納得し、証明する文献、資料はあるだろうか。

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秩父神社

    武蔵国秩父郡は武蔵国の西北部の山岳地帯に位置し、1,000~2,000m級の山々が連なっている。四囲は、児玉、那賀、男衾、比企、入間、高麗、多摩の各郡と甲斐、信濃、上野の各国と接している。おおむね現秩父市、秩父郡に属する町村、飯能市西部の吾野地区、入間郡名栗村の地域で、『和名抄』は「知々夫」と訓じている。古代には、良質な馬産地かつ銅産地であり、それを財政的な基盤にして国造(知知夫国造)や桓武平氏流秩父氏の輩出をみた。
 令制国の制定以前には、知知夫国(ちちぶのくに)として独立した存在であった時期も存在していたことは『先代旧事本記』の巻1「国造本記」に垂神天皇朝に八意思金命10世孫の知知夫彦が知知夫国造に任じられ、大神をお祀りしたと記されていているが、「先代旧事本記」自体を偽書扱いする意見もあるので真偽の程は不明である。
 この「ちちぶ」の語源はハッキリ解っておらず、(1) 「知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)」の支配する国名から、 (2) 「チチ(銀杏)・ブ(生)」で銀杏の生える地の意、 (3) 秩父山中の鍾乳洞の石鍾乳(いしのち)の形から、 (4) 「茅萱」の生える地の意、 (5) 「チ(多数を表す接頭語または美称)・チブ(崖地)」の意など多くの説がある。

    
 所在地     埼玉県秩父市番場町1-3

     主祭神     八意思兼命   (政治、学問、工業、開運の祖神)
            知知夫彦命   (秩父地方開拓の祖神)
            天之御中主神  (北辰妙見として鎌倉時代に合祀)
             秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮、昭和28年に合祀)
     社  格     式内社(小)・国幣小社・別表神社・知知夫国新一の宮・武蔵国四の宮
     創  建     垂神天皇10年(紀元前87年)
                                            
        
 
 秩父神社は国道140号線「道の駅ちちぶ」を越え、次の上野町交差点を右折し、秩父鉄道の線路を越えるとほぼ正面に鳥居が見えてくる。境内に駐車場があり数十台分の駐車スペースがある。社殿裏側にもあるそうだがそれは今回確認しなかった。
            
 
       鳥居を抜けるとすぐ左側に由来書がある         有名な秩父夜祭の案内板もあった

  秩父神社の歴史は古い。『先代旧事本紀』によれば、創建は崇神天皇の時代までさかのぼる。国造(くにのみやつこ)の知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが、当社の始まりとされている。

 当時の知知夫は現在の秩父および児玉地方をいう。『国造本紀』は知知夫彦命を知知夫の初代国造としている。その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合わせ祀ったという。
秩父神社 由緒書
 悠遠且典雅な神秘に包まれる聖域秩父神社は躍進途上の秩父市の中央に鎮座し秩父三社巡りの三峰、宝登山両神社の中間にあって、古くから秩父総社延喜式内社、関東の古社として知られております。
 御創立は遠く二千有余年前、崇神天皇の御代秩父国造の始祖知知夫彦命が命の御祖神八意思金命を奉斎しました時と記録されております。その後東国の山域にも武家の勃興と共に漸く文化も開け、平安中期以降神仏習合の妙見信仰が加わりました。上下の尊崇、別けても朝廷の御崇敬は極めて篤く神階正四位下に進み武家の崇敬も深く現在の御社殿は戦国末期に兵火に炎上しましたのを徳川家康公が造営を進めたものです。当時の棟札が社宝とし保存されてあります。昭和三年十一月御即位の当日県社から国幣社に列格いたしました。畏くも、大正天皇は第二皇子雍仁親王殿下の宮家御創立に当り秩父宮家の称号を御宣賜あらせられ、その年殿下は親しく御奉告のため御参拝なされて乳の木壱樹を御手植えなされましたが、今は亭々として生い茂って参りましたところ、先年、宮様の薨去遊ばされるや御遺徳を偲びまつる郡市民は御由緒も深いこの聖域に御尊霊を御奉斎申し上げました。
 先年は貞明皇后、高松宮殿下の御参拝を辱うしております。なお、秩父宮妃殿下の御参拝を戴き、秩父神社復興奉賛事業完遂奉祝祭(昭和四十七年十月五日)を斎行しましたが、お歌を賜りました。
  神垣も新になりて みゆかりの 秩父のさとわ いよよ栄えむ
                    
                               神楽殿
                     
                               神  門
                     
                               拝  殿
 
 西暦708年、近くの秩父黒谷の地で自然銅が発見され、朝廷に献上された。朝廷はこれを慶事として、慶雲5年を和銅元年に改元したことはよく知られている。和銅発見以来、この地は朝廷とは深い関係にあつたようだ。しかし知知夫の国が武蔵の国に併合されて秩父郡となった後、『延喜式』神名帳に秩父郡の小社として社名が見えて以降、文献からこの社は消えてしまい、代わりに平安時代中期になって妙見信仰が導入されると、秩父神社は「妙見宮」、「妙見社」と称さ れるようになり、中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙味宮」として隆盛を極めた

             
                         絢爛豪華な秩父神社 本殿
 
 明治になって神仏分離令によって、社名は「秩父神社」に復した。昭和3年(1928)には、県社から国弊社に社格が上げられた。昭和28年(1953) 12月には、秩父宮殿下の霊を奉斎し、祭神として合祀した。秩父宮殿下を合祀したのは、大正天皇の第二子・雍仁親王(やすひとしんのう)の宮家創立にあた り、秩父宮家の称号が採用されたことによる。秩父宮家が創立された年、親王は当社に参拝し、宮家創設を報告されるとともに、乳の木の植樹をなされたという

 また本殿の裏には天神地祇社が鎮座している。全国の一の宮が祀られていて、全てに参拝すれば全国の一の宮へ参拝したことになるそうだ。
                
                                               秩父神社の裏にある天神地祇社

 ところで「秩父」の語源、祭神に関して奇妙な記述がある書物があり、参考資料として紹介したい。

秩父 チチブ 
 
続日本紀・和銅元年正月条に「武蔵国秩父郡献和銅、故改慶雲五年而、和銅元年為而御世年号止定賜」と、秩父郡からの和銅献上にちなみ、年号を和銅と改めるとあり。平城宮跡出土木簡に「天平十七年、武蔵国秩父郡大贄鼓一斗」と見ゆ。承平五年和名抄に秩父郡を知々夫と註す。チチブの名義について記す。日本書紀仲哀天皇八年条に栲衾新羅国。万葉集に多久夫須麻新羅。播磨国風土記に白衾新羅国。出雲国風土記に栲衾志羅紀と見ゆ。栲衾(たくぶすま)は、梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布の夜具で、白いから新羅(しら)の枕詞に使われた。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)と、この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。秩父郡へ鎌倉八幡宮を勧請したわけでも無く、源氏の白旗以前から此の旗を用いていた。(中略)

 ここでは最初に正史に記された文献資料の紹介と、概略を説明してから、「白」の語源を「新羅」(しら)として、白旗も新羅が発祥であること、源氏よりも早く使用していたことを記述している。また先代旧事本記を引用して、ニギハヤヒ尊の出生も説明している。
 さて次から問題の記述が始まる。

一 秩父国造 秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命―阿豆佐美命―加祢夜須命―伊豆?命―阿智別命―阿智山祇命―味見命(秩父国造祖)、弟味津彦命(信濃阿智祝祖)」と見ゆ。延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)の祭神は思兼命と天表春命にて、思兼命を曲尺・工匠の神として建築業者の信仰となっている。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「三十二人を令て並て防衛と為し、天降し供へ奉らしむ。八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、天下春命・武蔵秩父国造等祖」。卷十・国造本紀に「知々夫国造。瑞籬朝(崇神天皇)の御世、八意思金命の十世の孫、知知夫彦命を国造(くにのみっこ)に定め賜ふ。大神(おおがみ)を拝詞(いつきまつる)る」と見ゆ。八意思金命(やごころおもいかねのみこと)は、高天原第一の智者と云われるが、思金は重い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛冶師の首領である。子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。

 思兼命は古事記や日本書紀においては
「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」で、思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在であったはずの神であるのに対して、長野県阿智神社では曲尺、工匠、建築業者の神として登場しており、国造本記では「八意思金命」と一字違いの名前。とはいえ「金」という鉱山に関する名称としてふさわしいし、その鉱山鍛冶師の首領という。
 この段において、思兼命は記紀とは全く違った系図の人物として登場している。また。『先代旧事本紀』によれば、信之(信濃)阿智祝と秩父国造の祖神とされているが、信濃国は有名な諏訪大社のお膝元で、記紀で記す思兼命と諏訪大社の祭神建御名方神は敵対関係だったはずだ。

二 祭神の大神 

 知々夫彦命は「大神を拝詞る」とあり、大神とは何神であろうか。風土記稿・妙見社条に「当社は神名帳に載せたる秩父神社なり。祭神は知々夫彦命とも、大己貴尊とも云ふ。当今の縁起には大和国三輪大明神を写など記して其説定かならず」と。秩父郡誌に「大神とは果たして何神なるべきか、知知夫彦命が御自らの祖なる八意思兼命を祀られしなるべきか。吉田東吾博士は『崇神の朝、国造を置きたまひし時より国神の祭らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑なかるべし』と論定す。現今県社秩父神社は八思兼命・知知夫彦命を祭神とし、大国主命・素戔鳴尊を配祀せり」と。しかし、延喜式には「秩父神社、一座」と見え、祭神は一柱であった。出雲国風土記には大己貴命(おおなむちのみこと)を大神と称している。別名大物主命、或は大国主命とも云われる。崇神紀に「三輪山の大物主命は腰紐ほどの蛇になって、とぐろを巻いていた」とあり。蛇は大物主命の化身で鍛冶神なり。常陸国風土記逸文・大神の駅家条に「新治郡駅家、名を大神と曰ふ。然称ふ所以は、大蛇(おおかみ)多に在(す)めり。因りて駅家に名づく」と。日本書紀・神代上に「思兼神、石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮を全剥にして、天羽鞴(風を起すふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり」と見ゆ。和歌山市秋月の日前国懸神宮の祭神は日前神宮(ひのくま)が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命(鍛冶集団の部族長)を祀り、国懸神宮(くにかかす)が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・天御影命・鈿女命(三命は鍛冶神)を祀る。国懸神は寛文九年刊本の日本書紀にはカラクニカラノカミと註す。日本書紀持統天皇六年条に紀伊大神は朝廷から「新羅調」を奉られている。日本書紀・宝剣出現条に素戔鳴尊の子・五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」と見ゆ。以上のことから、大神は天照大神では無く、其地の氏族が奉斎した祖先神である。更級日記に「武蔵国武芝寺あり、ははさうなどいふ所あり」と。足立郡大宮町氷川神社であり、葉葉染(ははそ)の古語は蛇である。秩父神社の社殿が立っている所を「母巣ノ森」と称す。ハハソと云う。妙見宮縁起に「允恭天皇の三十四とせ丁亥ともふすに、命(知々夫彦)の九かえり遠つ世継(九世の子孫)の狭手男臣(さておのおみ)をあげもふして、詔旨を蒙りたうへて、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染の杜にまつらひ給ふ、此時始めて知知夫神社と請しまつり給ふ也」と見ゆ。秩父神社夜祭に縄蛇を榊樽に巻きつけている。知々彦命は祖先神の鉱山鍛冶師首領思金命を大神として斎き祭り、其の地をハハソの杜と称した。

 この記述をどのように解釈するか。これ以降の説明は長くなるので別稿にて説明したい。ただ少なくとも知知夫国造の出現以前の秩父地方の歴史のページの一端がここに覗かさている。




 



 



 

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